【番外】文化と文化の組み合わせ 3

非常にざっくりとした「文化」のイメージの話。

歴史的に、明確な自己アイデンティティを持たないーーというよりも、自分よりも明確に上位にあると認識する他者に自己アイデンティティの拠り所を委ねる、というアイデンティティの持ち方が文化となっている国もある、気がする。

こういう場合(=頭の中で理解するアイデンティティの認識が、現実と直接結びつかない場合)、自尊心が肥大化しやすいのではないかと疑っている。多くの文化では、現実に鑑みて「自己認識」の整合性を調整するのだと思うが、こういう文化の場合は、アイデンティティが常に頭の中の理想=他者に関する知識によってのみ裏付けられているので、歯止めがきかない。現実と出来ないので、逆にひたすら「そう」と信じ込むことができる。

こういう傾向のある文化が、「国際化」する世界の中で存在感を強めていき、さらに自尊心を肥大化させていける理由が、その「アイデンティティのよりどころを他者に委ねる」という特徴そのものにあると、近頃しみじみ思っている。

ある自国の歴史認識について、まったく関係のない国ーー例えば、X国とするーーで訴える場合、「自国の歴史」を、X国の歴史上の類似のもの(X国の人々が実感として認識しやすい事象、多くは「該当の自国の歴史」とは質が異なる)とすり替える、ということに抵抗を覚えない。というよりも、むしろそれ(=他国の歴史)を、自国の歴史のアイデンティティのよりどころとしてしまう。ある「出来事」の「認識のすり替え」を行っているわけで、X国に、気づかぬうちに「当事者意識」を持たせてしまうこともできる。

おそらく、アイデンティティ他者依存的な文化の場合、人々に「そういう認識のすり替え」をしているという意識は皆無で、行動に迷いがないので、すり替えられたほうは疑わしいと思いにくい。言ってみれば騙されているのだが、騙す側に騙している意識がない時に、騙される側が騙されていると感じ取ることは難しい。そういうことが、案外あちこちで起きているのだと思う。

また、多くの文化では、自国の芸術文化そのものに誇りを持っていて、中々他国の芸術文化の形をそのまま「自国のもの」とはしにくいものだが、アイデンティティそのものが他者に依存するというあり方の文化だと、芸術も考え方すらも、他国のものをそのまま模倣して「自国のもの」として容認できてしまえる(模倣技術が独自の文化とも言えるのかもしれない)。容認するだけではなくて、自国のものとして発信すらできてしまう。そもそも「そういうもの」なので、そこに「やましさ」や「ひけめ」は、感じない。

また、真似をされた側も、相手に迷いがないので、むしろ「自国文化との類似性を持つ文化」というふうに認識し、親近感を覚えてしまいがちかもしれない。

本質的には、現実と認識との解離があるので、常に自己矛盾を抱えている形ではあり、それ故に、現実には何らかの歪みがあるはずだが、「そういう文化」としてその国の土地条件の中で育まれてきたものなので、その土地に軸足をおいている限りは、その文化は自己矛盾を抱えつつも問題なく存在できるのだと考える。

ただし、それが他国の、まったく異なる文化を生み出してきた土地上に移行し、同様に展開され続けるとなると、非常にやっかいな気がしなくもない。自己アイデンティティを他者に頼っているものの、その借り物のアイデンティティに対する自尊心は強いので、その土地本来のアイデンティティを受け入れて適化して行きにくい。受け入れて自己のものとすり替えることがアイデンティティだとすると(しかもそれはあくまで模倣の粋を出ないとすると)、本来そのアイデンティティを持っていた文化からすると、いったい何者だ、ということになって、長い目で見れば親近感は違和感となり、融合するよりも摩擦が起きやすい気がする。

文化によっては、「他文化が自国へ伝播して交わる」のならいざ知らず、「国際化の中で、自文化が国外へ流出し他の文化と交わること」に、あまり適していないものもある、ように思う。どの視点から見て、というのは定義しにくいけれども、少なくとも「独自の文化を持つ国々」の感性から見れば、そういう文化に侵食されるのは不快と感じる=国際的に蔓延するのには適していないと感じるのではないかと考える。

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