【番外】「文字そのもの」の持つ特徴

概して「東洋」は、現世的と聞く。確かに、何事においても、まずは「認識→対処」という基本行動があるように感じる。医学のあり方に顕著に現れているかもしれない。ここで東洋というのは、とりあえずは漢字文化圏を指すが、「無意識の現世主義的な考え方は、特に中国と日本では顕著だ」と思っていたら、現在まで漢字を恒常的に使用しているのは、漢民族を除けば日本だけらしい、ということに気づいた。

とすれば、やはり、どのような形式の文字を使うかによっても、それを使うものの現実の捉え方が影響を受けている気がする。

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「現実にある何か」を音に置き換えることで、その何かの代替え品となる言葉が生じたと考えているが、その「特定の音=言葉」をさらに現実の何かに置き換えようとした時、つまりは文字を作り出そうとした時、現実の何かそのものを象って作ったものが象形文字で、

現実のもの→形=文字←音をあてがう

というあくまで現実における形が主体となっている。「現実にある何か」に「ある特定の音」をあてがい、さらに、「現実になる何か」から形を作り出して文字として、ある特定の音と合致させるという構図。

対して、表音文字は、「現実にある何か」からもう一歩離れた先に「文字」がある。「現実にある何か」を「ある特定の音」に置き換え、さらにその「音」そのものを、「文字」に置き換えているのだから、象形文字よりも、「現実にある何か」との結びつきが、ワンクッション遠い。

現実のもの→ある音→音にあてがわれた形=文字

という感じ。総じてラテン文字を使う言語は、「音」が重んじられている=言語そのものに音楽性があると感じるが、無関係ではないのだと思う。

これだけでも、例えばラテン文字を主な母語として使う人々と、漢字を主な母語として使う人々の現実の捉え方が、同じヒトなのだから同じたり得るという理屈は、どう頑張っても腑に落ちなくなる。

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