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1.「モノの見方」を疑う

私たちの「知識」の基本は、多くが義務教育で教えられたものからきている。そして、そこで最初に与えられる「物差し」で私たちは世界を認識している。世界はこのように捉える、社会はこうなっている、学問とはこういうもの、と。この国で戦後の教育を受けた人々は基本、皆この「ものの見方」を共有している。

その与えられた「ものの見方」が、「ただ目の前にある現実を観察した時に得る肌感覚」と微妙に異なると感じるようになって久しい。

加えて、幼い頃から、何か興味を抱いた自らの周辺にある物事のルーツや原型、大元といったものを探す癖があったが、多くが古くても明治以降に輸入された他国の何事かに起源があると気付いて久しい。それがどうもうまくこの土地の現実と融合せずに、奇妙に煩雑に社会の中に浮いたまま存在しているという印象が、いつまでたっても拭い去れない。

例えば、金平糖は他国起源だとしても、この国に吸収されちゃんとこの国に根付いたものとして存在しているが、例えば現在の学校制度などは、いずこからか導入(輸入)された概念に則ってはいるもののこの国の現実に即して存在しているのかどうかは大変怪しい。医療制度についても疑っている。

日常のあらゆるところに、「当たり前」として教えられそのように捉えてはいるものの、どうも微妙に現実にそぐわないまま、日本人の忍耐のお陰で「当たり前」として成立できているものがあるように思う。

例えば合理化という言葉。職場において合理化という改革がなされる度に、「合理化」という名の手続きが一つ増えている。日本のお役所の手続きが煩雑なのはそのせいかもしれない。

例えばご家庭のシステム・キッチン。その基本形と和食調理(日本の料理文化)は機能的に合致していない気がしている。日本の主婦に手間がかかるのは、そのせいのような気もしている。

何となく、そういった歪みの根本の原因は、「人間の知識は世界(人類)共通である」という思い込みにあるのではないかと疑っている。そもそも私たちが疑うこともなく、義務教育で常識として与えられた「現代のモノの見方」は人類共通などではなく、その「モノの見方」が生まれた土地、大まかに言えば欧州、より根本を辿ればブリテンの土着思想に過ぎないかもしれないと疑っている。

まずは、今ある「モノの見方」を、取り急ぎ全て疑ってみている。

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