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ぽろ、ぽろ、ぽろ。

今日は仕事が早く終わったので家に帰ってぼんやりとした。
たくさんの話を聞いたりして、完全にキャパシティーがオーバーして、どばどばといろんなものを受け止めきれずにあふれている。

デカフェのコーヒーを淹れて、なみなみとミルクを注いだ。
珍しくスティックシュガーを入れようとしてパソコンの上に砂糖をぶちまけた。
やれやれ。
掃除機で吸っておく。パワフルなダイソン。

「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」という本を読んだ。
数年前、ページをパラパラ開いても全く刺さらなかったのに、今になってようやく図書館の棚にひっそりと置いてあって、借りて帰った。いろんなことを考え始めたこの頃だからか、小学生の子供の親になったからか、すぐに没入して読み終えた。

差別、いじめ、アイデンティティ、そこから今私の周りにはルッキズムがあったり、ジェンダーの問題や、LGBTQ、貧富の差や、病んでいるもの病んでいないもの、いろんな世界がこれでもかとグラデーションで存在している。
すごいなと思っていた人が、平然と人種差別を口にしていた時、わたしはへらへらと笑うことしかできず、その後その問題について調べて、やはりあの時、
「いや、それはちがうんじゃないですか?」とでも言えたらよかったのに、と思った。

どれか一つをチョイスしようとするから、争いが生まれるのではないか?

分断とは、そのどれか一つを他者の身にまとわせ、自分のほうが上にいるのだと思えるアイデンティティを選んで身にまとうときに起こるものなのかもしれない、と思った。        P65 スクール・ポリティクス

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

エンパシーという言葉もとても印象的だった、他人の靴を履いてみること、というのは実に言い得て妙で、多種多様なグループが出現(潜在的にはあったけれど顕になるということでもある)し、SNSが発達して誰もが誰かに透明な刃を突き立てることができる今において、その想像力の欠如は人をも殺しかねない。

この頃、手帳に何度も書いている。
「私は、どうしたい?どうなってほしい?」
というのは、みんな と決別したいという意思の表れでもある気がしている。エンパシーは、みんなが、ではなく、自分が、他人の靴を履かねばならないのだろう。

ここのところ休みもハードで、ちょっとくたびれて、まだまだ仕事は続くので、今日は肉うどんを作っただけでも自分に花丸をあげて、早く眠りにつこうと思う。

薄い月。

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