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今日も生きてる。11月8日のこと。

昨日あんなに憂鬱がっていたら、ご近所さんに駅まで送ってもらって、無事に新宿から美しいものを連れて帰って来れて、そこの優しい店員さんがすごく四苦八苦するわたしにアプリの使い方を教えてくれて500円引きにしてくれてさらにポイントをつけてくれて、帰ってきてご飯に連れて行ってもらい、ふくふくとした赤ちゃんを抱っこさせてもらって、帰宅したら丹波からおいしいものや美しいものがたくさん入った宝箱が届いていて、子供達をお迎えに行ってつかれたなとおもったら、ふるさと納税(今年はじめてちゃんとやった)の宮城のササニシキが届いていて、郵便受けには現像の終わったネガが届いていて、福々としたきもちになりました。あと、好きな人たちが一緒にいるところから、ラインが来たり。うれしい。
その後たくさんいただいたさつまいもでシチューを作り、冷蔵庫を片付けたり、お風呂に二人を入れたり。


結局ワンオペだったのだけれど、それでも、午前中のうれしさで、倒れるように眠るまで切り抜けられた昨日でした。(いつもより遅く帰ってきた家族の仕事の愚痴は「ごめんきけません〜」と早々に切り上げました。5分ヨガする余裕もなかった眠すぎて無理。)

もうむりだよ、とおもうと、助けてくれる人たちがいて。こどもたちは大げんかしながらも、すぐにふふふと笑いながら二人で遊んでいて、本当にそれがありがたくて、ああ、生きるって滋味深いなぁ。とか、思ったりなんだり。ありがとうございます。基本暗いのですが、いつも、いろんなひとに助けられています。

朝6時の目覚ましで起きると、そのあと30分くらい二度寝してしまって、隣の娘に促されておきました。やっぱり、冬に近づいていて、体は敏感にそれを感じていて、如何せんねむい。
通学路の途中まで送って、家になんとなく小走りで戻ったらリビングの丸テーブルの上にお弁当箱。乳の入ったおかずの日だったので代替だったのでした。

飛ぶように自転車に跨り追いかけて、娘に包みを渡せてほっと一息。昨日淹れてたコーヒーに、牛乳を入れて電子レンジであたためる。

ふわりと香ばしい苦い香り。冷蔵庫のガトーショコラを一口分に割って豆皿へ。久しぶりに引っ張り出した高島大樹さんの鳥の描かれた豆皿は4枚あったのを1枚プレゼントに差し上げたんだった。カラフルな小さな小鳥が飛んでいる。かわいい。

朝仕事場の最寄り駅のカフェに行っていたのだけれど、ザワザワする空間や、もう行かなきゃ〜となるのに疲れて今は家で飲んでいる。自分の好みの飲み物が飲めるし、お茶菓子もたくさんいただいたので、しばらくはこれがいいかも。

カフェも大好きだけれど、ゆっくりできる時に行きたい気持ち。

明日はようやく心療内科の受診日なので、薬が間に合うことに心から安堵する。

読み聞かせの当番用の絵本は、長すぎて変更。ちょっとベストなものではなくなってしまったけれど、まぁ、良しとしましょうね。

病院の前か後に展示とかいきたいな。どうかな。最近お店の開店時間を調べると11時とかで、子供が生まれてから、いやそもそも8時半開館の仕事をしていて、朝中心の生活に慣れてしまったが故「それまで時間どうしよう…」とか考えることが増えました。カフェに入ったらいいんだろうか。朝9時半とかからやっているお店があったら喜んで行って、子供のバスお迎えや下校時刻にも間に合うんだけれどな〜

取り留めもない日記を書いていたらもう仕事へ行く時間。

昨日連れ帰ったばかりの北海道の優佳良織のポシェットに荷物を入れる。お店の人に聞いたら
廃業前のものだと言う。(現在は復興)素材にデザインがとても合って、完成された物としてよくできているので、再興された後もこういう仕事が続くといいなと願う。
手紡ぎ手織りのものを、『プロダクト』として今に生きる形にすることはとても難しいと折に触れ思う。ハンドバッグや名刺入れもいいけれど、何か土台に貼り付けられた布たちは窮屈そうで、それならかつての働きを留める古布のような形で持っていたいと思う。おんぶ紐とか、抱っこ布とか、着物の端切とか。

でもそればかりしてしまうと、人の手や素材、技術は途絶えてしまうし、やっぱり日常で使いたいと言う気持ちもあるので、こういった良いものは使っていきたいと思う。

母の生まれた旭川の土地で生まれた、棟方志功が名付け親の(棟方さんが名付けるとどうしても力強くなりがちなのだけども)民藝という言葉が生まれた後の民藝のもの。

新作民藝とよばれたものは、とても悩ましかったと思う。でもほんとは土地から、人がどれも0から1として生み出したもの。生まれたもの。

色の組み合わせ、素材、たくさんのたくさんの選択の果てに、物はある。

考えてみると途方もない旅をして、彼らはここに居る。ただ、良し悪し美醜は残酷なまでにそこにあって、それは素材というよりも人の手によって起きる誤謬のようなものだと思う。
ひたすらに観ること、使うことでしか、その微かな誤謬には、気づかない。

この優佳良織のポシェットは、あと5年くらい使って初めて、どちらか、と言うのが言えるかもなぁ。でも今時点ではとても好きです。民藝って言うと『あーあの野暮ったいやつ?』と聞かれることがあるけれど、なんのこと??

渋さと言いたいなら、うーんそりゃ濱田さんの器みたいなイメージで?それですら一面しか捉えてないですよね、、?とか思う。

李朝も渋いというより滋味深さ、静けさ、という方が優しくて好きです。渋いも悪い意味で使わなければ、褒め言葉として嬉しいのですが。(民藝の評価における渋さ、はダサさ、的に言われることが多い気がして、いちいち確認したくなる。しないけど。)

スペインの絵皿、台湾の織物、芹澤さんもリーチさんもみんなみんな、はじけんばかりの、渋さとは別のものを見せてくれてると思うんだけれど。ええと、、民藝館行ってみて…?何か良いと思ったものをミュージアムショップで一つ手に入れて使ってみて、それからお話しましょう??というしかないのだと思う。(そしてわたしみたいな末端の人間が、こうしてそれをしつこく、書いたり撮ったりすることしかできないと思う)

物を見ずに民藝を語るのは本末転倒だし、物を観てみてほしい。
そんなことを書きながら熱くなっちゃって、これは抜粋で写真と共にInstagramに載せるかーと思ってます。そろそろ久地、乗り換えです。

それではみなさん良き一日を。


いぇい


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