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文月、手紙をしたためる。

手紙をしたためた。

葉書は折に触れ書いて送るのだけれど、ちゃんと書く手紙となると久しぶりで、以前買っておいた便箋を引っ張り出した。二枚で足りるかなと思って、寓話に出てきそうな動物たちが描かれたものを使うことにした。

友人に今の住所を聞いた。私なら住所を教えるのは躊躇うこともあるか、と思い「嫌だったらいつか会った時にでも渡したいと思います」とメッセージしたら、次の日の朝すんなりと返信が来ていた。

気に入っている白軸の万年筆で書くとちょっとインクが乗りすぎたので、もう少し細いものに替えて書く。「雑誌を送ります」の所まででもう二枚も使っていて、気の乗らない手紙を書くときはまったく筆が進まないのに、筆は素直だなぁと金に青が滲んだペン先を眺めた。柄もないシンプルな便箋をレターパットからぺりぺりと取り外す。許してくれるだろうし、気にしないだろう。

ペリカンの万年筆をずっと使っている。

初めて手紙を書いたのはいつだろう。
母の日や父の日に書いたのかもしれないけれど、思い出すのは北の方にいた祖父のことだ。商業高校の先生をしていたという、いつもおしゃれで旅好きで、厳しくて、優しくて、ちょっとめんどくさい説教をしてくる、人間臭い祖父だった。

彼は会いに行くたびにお小遣いを気前良くくれたが、必ず「お礼に手紙を書くこと、電話をすること」と私に申し付けた。母が買っておいてくれた便箋で、季節の頃から書いてゆく。

小学校に入ってからか、幼稚園からなのか忘れてしまったけれど、それは習慣となり、親戚やお世話になった人があると必ずそうした。硬筆と習字も習っていて、字を書くこと自体も好きだったし、もともと自然が好きだったので、書き出しには困らなかった。
やがて一番近しい存在だった恋人に手紙を書くようになったのは、必然だったように思う。

《手紙を書く》という行為そのものがとても好きだ。話す言葉と書く言葉は全く異なるし、こうしてキーボードで打ち込んだ言葉と、手で書いた明らかに言葉は手触りが違うものだなと思う。便箋を選んだり、切手を選ぶのもまた楽しい。どのインクで書こうか、この前描いた小さな絵も同封しようかと考えて、封をするとひとつの完成を迎える手仕事のようだ。

《手紙》そのものにも浪漫を感じる。
作家たちの展示でも、往復書簡や旅先から送られてきたハガキや手紙を眺めては、ああこういう手紙が好きだなとその簡単なスケッチやその文字に足を止めて見入ってしまう。

うねったり、小さすぎたり、大きすぎたり、いばっているもの、泣いているもの、笑っているもの、等しく習った文字の組み合わせなのに、肉筆はそれぞれほんとうに豊かで、その人を表している。

相手を前にして話す時は言えなかったことも、書くときはえいやっと書けたりする。ただ夜に書いてそれを朝に見返すとき、特に恋文は自分に陶酔している様を陽の光に照らしてみることになるので、とてもとても恥ずかしくなったりする。

今回は朝に書いて、昼に出したけれど、出す直前にやっぱり少し恥ずかしくなった。
直そうかと思ったけれど、その時に思った気持ちを素直に書いてもいいじゃないか、伝えることのできないままの方がずっと後悔することを知っているから、そのまま封をして、赤いポストに挿し入れた。

コトリと音がして、ポストの腹の中に積み重なってゆく手紙たちを想像した。やがて言葉たちが飛び立ってゆく。

届いた後の反応は、あったらいいなと思うけれど、なくても良いと思った。
無事に読んでくれたら、それでいい。

夜でも朝でも手紙はやっぱり自分自身を生々しく表していて、白日の元に見るには少し恥ずかしい。それでもやっぱり手紙を書くし、すぐに送って確認することのできる電子のメッセージより“質量”や不便なはずの“時差”があって好きだと思った。

もう昔のような情熱的な恋文を書くことはないと思うけれど、かつてよりずっと柔らかく崩れ始めた自分の字を見て、これはこれで好きだなと筆を置いた。


好きな詩を二篇一緒に入れた



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