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[読書メモ(文芸)]サラバ!と文芸書を読むということについて


※文庫本も出ているのでぜひ

「読書」と言えば、私にとっては小説を読むことだった。

私の周りには子供が本を読むことを喜ぶ大人が多かった。
父は頻繁に私たち3姉妹にそれぞれ本を買い与えたし、祖母の内縁の夫も遊びに行く度に本屋で好きな本を1冊買ってくれた。
私は大人に褒められるために本を読んでいた。
大人になっても、本を読む自分、を演出したくて読んでいた部分も多少はある。

社会人になって文芸を読む奴は暇人だ、と思われると知って、驚いた。
(私が勝手に感じているだけかもしれない)
SNS経由で集まった読書会でも文芸を読むと言ったら、少し毛色の違う人間を見る目で見られたし、会社の同僚も文芸は引退してからゆっくり読むと決めていると言っており、文芸はただの娯楽と同義なのだと知った。

サラバ!の主人公:歩は、他者の目や尺度で価値を測る人間だった。
そして、他者の価値観に自分がそぐわなくなり、ひどく苦しむことになる。
特に、歩は美少年でバランサータイプの頭が良い奴だったので、ハゲてからの転落っぷりたら無かった。
日本では、一度敷かれたレールから外れてしまうと元にはなかなか戻りにくい。
バブルの時代の昭和的な「幸せ」は時代にそぐわないとわかっていながら、やっぱり仕事で成功して、良いくらしをしたいと思うし、良いくらしをするにはお金が必要だ。
なんで良いくらしをしたいか、というと、他者から見て良いくらしをしていると思われたい。幸せそうだ、羨ましいを思われたいから。
まだまだ、そんな価値観が根強いと思う。

幸せというものが自分の中でなんなのかわかっている人は少ないと思う。
わかっていないくせに幸せになりたいと思えば思うほど、他者から見て幸せに思える状態(上記のような)と現実の乖離に苦しくなってしまう。

ハゲてからの歩、と今の自分を重ね合わせて読まずにはいられなかった。

他者の目を気にして生きる人間の矮小さったらないと思った。
幸せって何か考えるときに、社会学的にいうと、時代が価値観を作っていて、今は半径100mの幸せを追求するから物質的な豊かさより、人との繋がりなどの精神的豊かさを求める流れにあって〜とか、結局自分で今の自分を肯定できるかどうかなのでは、だから自己肯定感大事。とかあるけれど、

結局は何が幸せなのかを自分で決められない奴は一生不幸だし、年齢を重ねて若さを失ったとき、理想と現実のギャップに耐えられなくなるんだと思う。

自分でどうゆう状態が幸せなのか、何を大事にしたいのか、どうありたいのか、他人から見た自分ではなく自分自身で見つけなくてはならないのだと思う。

出世して、偉くなって、良い仕事をして、給料をたくさんもらって、ネットでフォロワーが増えて、ちょっとした有名人になって、他人から見て成功していると思われたい。
それも向上心になるなら良いと思うけれど、それが叶わなかったとき、どうしたら良いんだろう?

そして、それが叶ったとして、なりたいそれが本当になりたい自分なのだろうか?他人を見下したり、イラついたり、嫌な奴になっていないか?

外国人(広い、広いけれどアジアの友人や、ネットで見る外国人たち)は、なぜ幸せで、クリエイティブに見えるんだろう?

「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ」

歩の姉である貴子の言葉が真理なのではないだろうか。

サラバ!

さようなら、明日も会おう、約束だぞ、元気でな、ゴッドブレスユー、いろんな意味があると文中にあったけれど。

サラバ!という響には、言った次にはもうすでに前に踏み出している感じがあるなあ、と思う。
そして、醜い、嫌いな自分への爽やかな決別にも。

アラサーの揺らぎに、容赦無く内面の矮小さを顕にして、そして考えていくうちになぜか気持ちが整理できる。そんなお話でした。

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