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およそそうとは見えない女郎蜘蛛~秋田・大曲4歳児殺害事件~

2006年10月23日

その日の午後7時ころ、秋田県大仙市大曲の農業用水路に、幼い男児がうつぶせに倒れているのが発見された。全身ずぶぬれで、すでに心肺停止状態であった。
その後、病院に搬送されるも間もなく死亡が確認された。
夕方、近くに住む31歳の女性の4歳になる息子が家を出たまま行方が分からないという情報がもたらされ、近所の人らも総出で捜索を行っていたが、最悪の事態となった。

男児は、進藤諒介ちゃん(当時4歳)。母親と、その交際相手の家で3人で生活していた。
一報を聞いた母親は、「諒介!!」と叫んで道路にへたり込んでしまった。
当初、「筋無力症」を患っていた諒介ちゃんが、誤って水路に転落し、気絶するなどの偶然が重なった事故、あるいは病死ではないか、とも思われていた。
わが子を突然失った母親は、茫然自失の様相でなんとか葬儀をこなした後、入院した。
ただ、この入院は警察との協議のうえでの入院であった。

11月13日。秋田県警捜査1課は、殺人の容疑で母親である進藤美香(当時31歳)と、その交際相手である畠山博(当時43歳)を逮捕した。
この男は、美香が同居する交際相手とは別の男性であった。


驚くべき犯行動機

事件のあった10月23日の前日、秋田市で開催された全国高校駅伝を見に出かけた畠山は、その後美香と諒介ちゃんと合流し、大館市の温泉で一泊した。
そして23日、美香は諒介ちゃんが通う高畑保育所に「秋田市へ行く」と連絡して保育園を休ませた。畠山は、勤務していた大館市内の高校に「親戚の法事のため」と言って休みを取っていた。
3人は大仙市内の道の駅かみおかへ移動し、そこでぐずった諒介ちゃんを暴行、口を塞ぐなどして瀕死の状態に陥らせたと見られた。
その後、それぞれの車で帰途につき、午後5時過ぎ、美香の自宅近くの用水路に放置したとされた。
車の中でいったい何があったのか。
美香と畠山は、道の駅かみおかに駐車した車の中で、性行為に及ぼうとしていたという。その際に、諒介ちゃんが邪魔をすることに怒り、暴行を働いたというのだ。
しかも、現在同居中の50代の男性と交際しながら、それより以前から、美香は畠山とも交際していたという。
さらに、捜査関係者によれば、この事件当時美香には複数の交際相手がいた。すべて出会い系サイトを通じて知り合ったようだが、その中でも畠山とはどうやら一番古くからの付き合いのようだった。

ざわつく世間


当時、秋田県では藤里町で起きた連続児童殺害事件で大騒ぎとなっており、母親が犯人というショッキングな出来事があったばかりだった。
しかも、今回も同じ秋田県内で、犯人が母親、そして共犯の男の名字が藤里町の畠山鈴香と同じという偶然もあって、注目の的となった。
だが、それ以上に世間を引き付けたのは、この進藤美香という女の「見た目」と「中身」のギャップだった。
TBSの朝の情報番組を担当していたみのもんたは、生放送中、共犯の男と進藤美香を取り違えた。挙句、それを指摘されて「え?これ男じゃないの??」と言い放った。その気持ちはわかる。それほどまでに、進藤美香はお世辞にも二股をかけるような見た目の女ではなかったのだ。一部ではみのもんたのように、真剣におじさんだと思っていた人も多かった。
首都圏連続殺人で死刑判決を受けた木島佳苗、鳥取連続不審死でこちらも死刑判決が下った上田美由紀など、見た目はアレだが男が引きも切らないという話はある。あの福田和子も、とても美人とは言えなかったが、大変な人たらしであったことは有名だ。
しかし彼女らはどこかしら「可愛げ」があった。木島佳苗は料理や甘え上手を装うことで、上田美由紀はホステスであった上にとにかくマメで、男心をくすぐる言葉や奇麗な字の手紙を欠かさなかったし、福田和子も料理上手でSEXを拒むこともなく、気配りは完ぺきでホステスとしても決して不人気ではなかった。女を売りにしてきていることに間違いない。
一方、進藤美香はといえば、ネット上には今でも写真があるので見ればわかるが、劇団ひとりが老けたみたいな見た目である。太い眉毛は整えもせず、化粧もせず、髪の毛も短く適当に切ったとしか思えない状態。連行される際の写真は、どう見ても男性である。
その、どうやってもおよそ女性らしさのかけらも見いだせないこの女が、とっかえひっかえ男を作り、さらには過去に二度の結婚までしているということに世間はのけぞった。しかも、過去をひも解くと、およそ普通ではない人生を送ってきていることも分かった。
それは、女の魔力は決して見た目の問題ではないということの裏付けでもあった。

2度の結婚と離婚

美香は事件当時、交際相手の男性と同居してはいたが、結婚はしておらず戸籍上は独身であった。
しかし、過去には諒介ちゃんの父親のほかにもう一人、結婚し女の子を授かっていた。2000年の出来事である。
最初の夫となったBさんは8歳年上で、秋田県南部の山奥に暮らしていた。
Bさんの母親によれば、美香が住んでいるところとは車で3時間かかる距離であったため、どういういきさつで知り合ったのか不思議だった。交際のきっかけなどをBさんに聞いても、もともと無口なBさんがそれを話すことはなかったという。おそらくだが、出会い系サイトを通じてであったのではないかと思われる。
何度かBさんの実家を訪れた美香は、99年の10月、突然ふらっと実家にやってきて、Bさんの母親にこう告げた。
「Bの子供ができた」
特にうれしそうでも、困った様子もなく、ぶっきらぼうな印象であったという。
挙式などはしない代わりに、Bさんの実家で宴会が催された。しかし、その間美香は所在なげに黙って座っているだけであった。

そのBさんの実家でBさんの両親と同居の新婚生活は、わずか3か月で終わっている。Bさんの母親によると、美香はその地域の言葉でいうところの「神経たかり(神経質ゆえに短気な人のこと)」であったという。
糖尿を患っていたこともあって、そのせいである可能性もあったが、常にイライラしていて、義母も寄せ付けないほどだった。Bさんの実家では、父親は出稼ぎに行っており不在で、Bさん自身も仕事で日中は家を空ける。

美香が嫁いできたのは冬で、鬱々とする中で義母と二人きり、日中を過ごしていたのだが、美香の突飛な行動にBさんら家族は振り回されたという。
美香のストレス発散方法は、放浪であった。イライラがたまるとふらっと出て行ってしまう。缶ジュースを買うためだけに歩いて何キロも先の集落へ出かけたり、帰ってこないなと思ったらなぜか産婦人科に入院していたことも複数回あったという。
あまりに異常なその放浪癖を案じた義母が車のカギを隠すと、春先のある日、戦慄の事態を目の当たりにすることになった。
美香は自室で箪笥に向かい、「オレなんか死んでしまえばいいんだぁ…」と延々独り言をつぶやいていたという、しかもそれは4時間に及んだ。
慄いた義母は声をかけることもできず、部屋の外で様子をうかがうしかできなかった。

たまりかねたBさんが美香を問いただすと、美香はまた病院へ逃げた。そしてそのまま美香の実家が美香を連れ帰ったという。
その当時美香は長女を妊娠中だったが、そのまま離婚となったようだ。
しかしその年の夏、Bさんの実家に美香の実家から連絡がきた。女の子を産んだ、ついては養育費として500万円を請求するという文言付きで。
養育費を支払う義務はあるものの、一括で500万円というのは養育費と言う名目上、受け入れがたいとしてBさんらは第三者をたてて話し合いを行い、なんとか100万円にまで額を下げてもらったという。
その時以来、Bさんら家族と美香との接点はなくなった。生まれた子供は、見たことがない。

さらにその2年後、美香は2度目の結婚をした。
出会い系サイトを通じて知り合ったCさんとは、この時も出来ちゃった結婚であり、そのおなかにいたのが諒介ちゃんである。2002年1月、前夫のBさんの家がある県南部にほど近い湯沢在住の、これまた10歳以上年上の男性Cさんの実家に嫁いだ。その際、長女は実家に預けたままだった。
Cさん方には父親もおり、諒介ちゃんが生まれるとCさんの父親はことのほか喜んで可愛がっていたという。低血糖で生まれた諒介ちゃんは保育器に入っていた期間があり、美香もそんな諒介ちゃんの様子を見て、「私のせいだ」と泣いている姿もあった。育児もしっかりやっており、おしめは美香が生地から買ってきて手縫いしたほどであった。美香の実家も、男の子がうれしかったと見え、大きな鯉のぼりをCさん方に贈っている。
当初はわりとうまく運んでいた結婚生活だったが、そのCさんの父親がガンで亡くなった2002年6月以降、また美香の「神経たかり」が姿を現し始める。

夫の焼身自殺未遂

Cさん方は当初、両親、そしてCさんの妹が同居していた。しかし、Cさんの父親がなくなり、妹も結婚して家を出たことで再び日中大人は美香と義母だけ、という生活が始まった。
その頃から、美香は些細なことでイラ立つようになり、そのイラ立ちを隠すことなく義母に向けるようになった。
突然義母の胸ぐらをつかんだり、気に入らないと義母を平手打ち(!)することもあったという。美香を怖がった義母は、美香に土下座して許しを請うこともあった。
Cさんらは当初その事実を知らなかったようだが、義母が「もう少しお付き合いしてから嫁にもらえばよがったな」と愚痴ることを気にしていた。
美香の義母への暴言、暴力はCさんの知るところとなり、それでも諒介ちゃんの手前Cさんも義母も我慢を重ねていたという。

しかし、11月のある朝、事件が起こる。
その日は朝から美香の機嫌がすこぶる悪く、家事をしなければいけないことにイラ立っていた。出勤前であったCさんは、美香のイラ立ちを気にしつつも受け流し、出勤しようと車のエンジンをかけた。
すると、美香は突然「行くな」と言って車の前に立ちはだかったのだ。
Cさんがじりじりと車を動かしても、美香はその場をどこうとしなかった。後退しながらも、Cさんの車の前に立ち続け、Cさんの出勤を拒んだ。
自宅前の路上まで出たとき、埒が明かないと思ったCさんが車を降りると、美香はすかさず車のカギを抜いてそのまま家の中へ入ってしまった。
仕事に行かなければならないCさんが追いかけて鍵を出すよう言っても、すでにどこかに隠していて、美香は興奮冷めやらぬ状態になっていて手が付けられなかった。
落ち着かせるためにCさんが会社を休む旨伝えても、美香の興奮は収まらず、次々と暴言を吐いた。
「離婚してやる!慰謝料を払え!養育費をよこせ!」
驚いて出てきた義母に対しても、美香は喚き散らした。

ブチ切れたCさんも、「そこまで言うなら離婚してやる」といい、母親に通帳と印鑑を持ってこさせてそれを美香に投げつけた。しかし、その通帳を見た美香は、
「こんなんじゃ足りねぇ!500万寄こせ!」と凄んでくる有様であった。実際に通帳にはそこまでの金額は入っていなかったため、Cさんはその場を収めるためにサラ金に電話をするふりをし、500万円の借り入れに成功したよう装った。
すると美香は、「いや、1千万よこせ!」と言い始めたのだ。
Cさんの我慢の限界はとうに過ぎ去っていた。我を失ったCさんは、
「そこまでいうなら保険金で支払ってやる」
そういうと、なんと灯油をかぶって、さらには自らの体に火を放ってしまった。一瞬で炎がCさんの上半身を包んだ。
そこでようやく我に返った美香は、半狂乱で警察と消防に電話したという。幸い、火はすぐに消し止められ、Cさんも大けがをするには至らずに済んだ。
そばにいた諒介ちゃんはかわいそうに、大泣きしていた。

その後、警察の事情聴取を受けてCさんが帰宅すると、美香と諒介ちゃんの姿はなかった。美香から連絡を受けた実家の両親が、二人を連れ帰っていたのだ。
諒介ちゃんを手放したくなかったCさんは、すぐさま美香の実家へ赴き、頭を下げて詫びた。
しかし、まるで今回の事はCさんだけの責任であるかのように美香も、美香の両親もCさんを許さなかった。親権を争えないかと弁護士にも相談したものの、「子どもが幼いほど、母親が親権を取るのが普通。争ったとしても母親が虐待でもしていない限り、父親が親権を取るのは難しい」と、杓子定規な答えしか得られず、Cさんは諒介ちゃんを手放さざるを得なかった。

しかし、この時弁護士がもう少し本気だったら、Cさんは親権をとれた可能性があった。
弁護士が言ったとおり、美香は諒介ちゃんを虐待していたのだ。

虐待

報道では当初、美香と諒介ちゃんが2004年のある期間に母子支援施設に入所していたことがあったため、CさんのDVが原因、などと報じていた。
しかし、その時期にはすでに離婚が成立していたし、なによりCさんは、美香が最初の夫と離婚した理由こそが暴力だったと美香から聞かされていたので、絶対にそれだけはしないと誓っていたし、実際に自分が灯油をかぶることはあっても、美香に暴力は振るっていない。
最初の夫Bさんにしても、美香の異常な行動を諫めるうちにもみ合いになったりはしたかもしれないし、その際に手が出ることもあったのかもしれない。
しかし、Cさんとの結婚の際には、義母らに暴力を振るっていたのは美香である。
Cさんが反撃したのは、美香に局部を蹴られた際の一度きりである。

美香には、少なくとも感情に任せて暴力を振るう一面があった。
そしてそれは、幼いわが子にも向けられていたのだ。
先述の、母子支援施設内での出来事である。諒介ちゃんに大人用に処方された睡眠薬を飲ませる、殴りつけるといった虐待が発覚した。通報によって秋田県中央児童相談所もその事実を確認し、諒介ちゃんを「要保護児童」に指定した。しかもその際、「死に至る危険性がある」とされ、美香と諒介ちゃんは一時的に引き離され、諒介ちゃんは美香の実家へ預けられた。
しかし、その後すぐに美香は実家へと舞い戻り、諒介ちゃんと一緒に暮らし始めていた。児相は、懸念しながらも祖父母が同居しているという理由から経過観察としていた。
その後、美香と諒介ちゃんは、当時の交際相手の男性が暮らしていた大仙市大曲住吉へと、実家のある鴻上市から越してきた。Aさんとは同居はしたものの、新潟県中越地震の復旧作業に従事していたAさんは長期に家を空けていた。
諒介ちゃんと美香は、実質二人暮らしだった。
大仙市福祉事務所も、鴻上市から虐待案件の引継ぎを受けていたが、現時点での虐待は認められないとしていたが、周囲の人は疑いを持っていた。
夏ごろには10日間にわたって、朝方家の前で泣き続ける諒介ちゃんの姿が目撃されていた。また、保育園でも一目でわかる痣があごの辺りにあり、保護者らの間でも「もしかして・・・」という話が漏れ聞こえていたという。
夕方には、美香と諒介ちゃんが犬の散歩を指せているのが目撃されていた。しかし、その様子は異様であった。
幼い子を連れた母親なら、会話をし、楽しそうに散歩させるものだろうが、この母子は無言であった。感情のない表情で、ただひたすら歩いているだけ。会話もなく、顔を合わせることもなく、ただ押し黙ったまま歩いていた。
事件発覚時、諒介ちゃんの体にはつねったような皮下出血が手足のあちこちに見られた。それは、殺害されるその直前まで、虐待は日常的であったことの何よりの証拠でもあった。
一見、気性の激しさなどみじんも感じさせない美香ではあるが、イライラが募るとどうも自分を抑えられないという性分であることは間違いないようである。
さらに、彼女の過去をひも解いていくと、たんなる「神経たかり」では済まされない過去があることもわかった。

いじめと放火事件

美香は中学高校と、まったく目立つ生徒ではなかったし、ましてや男性とのうわさなどもなかった。
中学では手芸クラブに属し、親友と呼べる同級生の女子生徒もいた。
しかし、その女子生徒が3年の夏休みが終わったあと、体調不良を訴えて学校に登校できなくなった。両親らも思い当たるところがなく、どうしたものかと思案していた時、担任の教師から思わぬ話をもたらされた。
親友だと思っていた美香が、その女子生徒をいじめているというのだ。二人の関係は親友というより、主従関係に近く、女子生徒は常に美香のカバン持ちをさせられていた。
具体的な例は出てこないが、担任が「美香とは離れた方が良い、高校は美香とは別の高校へ」とアドバイスしたというから、かなり深刻であったと思われる。
このように、美香は親しくなった人間に対して、それまでとは違う一面を見せることがあったようだ。

高校卒業後は、縫製工場などに勤務したが、どこも長続きはしていなかった。
二十歳のころ、自動車関連の雑誌の文通欄で一人の男性と知り合った。幾度か文通を重ね、96年の4月ころには交際を始めた、とされている。
しかし一か月もしないうちに、その男性は美香と距離を置き始めた。美香はそれを、「ほかに女がいるのでは」と疑うようになった。
連絡もままならない中、5月、美香は驚くべき行動に出た。

その当時、秋田の複数の駅舎でボヤ騒ぎが起こっていた。大きな火事にはならなかったが、火の気がないことから放火とされていた。
不審火は酒屋の軒先の段ボールや郵便ポストなど、その後も続いていたのだが、5月15日、美香は放火の容疑で逮捕された。一連の犯行は、美香によるものだったのだ。
放火が行われた後、いつも若い女性の声で119番通報がされていたという。消防車はその都度駆け付けたわけだが、美香の狙いはそこにあった。
当時交際、というか美香が入れあげていたのは、消防士だった。
「私が火の中で死んでいくのを見れば、彼は私の愛がどれほど深いかわかってくれると思った」
この八百屋お七顔負けの思考回路はどういったものか。てか、そんなガラかよマジかよ・・・
実際には、美香は焼死することもなく、消防士の心が深く傷ついただけで二人の距離が縮まるなどということは起きなかったわけだが。

2006年サンデー毎日12月3日号において、犯罪心理学者の故・作田明氏が見解を述べている。

「男性とのかかわり方を見ると、美香は人を支配、操作しようとする傾向が強い。そうした人物は相手と親密になったときそれまでとは違う人格を見せる。
思い通りに動かせないと非常にイラ立つ傾向もある。それが子どもの虐待へ繋がったのではないか。中学時代のいじめや、連続放火事件にも、こうした面が見られます」

美香のこの、人を思い通りに操りたいという人格は、実は諒介ちゃんの事件よりはるか前からわかっていたことだった。
2度の結婚のときの、夫や義母への態度を見てもわかる。気に入らないと無理難題を押し付け、相手を困らせ、相手がもう許してというまで追い詰める。
一方で要求が通ればさらにエスカレートした要求(Cさんの焼身自殺未遂事件)を重ねるあたり、美香の狙いは要求を通すことよりも、自分のイラ立ちを解消するための「いじめ」であるとすら思える。
この美香の人格を全く考慮されなかったことは、のちの裁判にも関係してくる。

複数の交際相手と、畠山

美香は、出会い系サイトで次から次へと交際相手を探し、たとえ誰かと交際している間でも、他の男を探すことをやめなかった。
出会い系サイト以外にも、結婚情報誌なども常に利用していた。付き合う相手はどこに住んでいようと気にしていた風はなく、県内全域に散らばっていた。
そして、妊娠したら結婚し、嫌になったら離婚する、その繰り返しであった。たとえ美香に責任があっても、女性で、かつ養育する子供がいることを盾に慰謝料や養育費を分捕った。
Cさんも、調停委員から「養育費をしっかり払っていれば、いつか諒介ちゃんにも会える」と諭され、きっちりと養育費を支払ってきた。
その後も、諒介ちゃんにかかる費用は何かと融通してきている。時には、諒介ちゃんの病気を理由に「嘘」の要求にも応えてきた。
しかし、その間も、実は美香には数年来にわたる「恋人」がいたのだ。それが、この事件で美香を上回る懲役刑を宣告された、畠山博である。


畠山は大館市中心部から南東へ20キロほどの山村に暮らしていた。十和田八幡平四季彩ラインをまたぐようにして分け入る山の中の、小さな集落に畠山の実家がある。そこで、両親ら家族とずっと暮らしてきた。
地元の小中学校を卒業後、職業訓練校を出、逮捕当時はハローワークで紹介された大館市内の県立高校に非常勤技師として勤務していた。
畠山の人物評は概ね良好で、子ども好き、見ず知らずの人にも親切にする、性格は堅物すぎるほど真面目、好きな陸上の話題や行事ごとのときはとても張り切っていた、というものがほとんどだった。
半面、そのまじめさからくるのか、思い込んだら周りが見えなくなるという印象を持つ人もいた。しかしそれらを考慮しても、周囲の人間の誰もが「こんな事件を起こすような人ではない」と言った。
ずっと独身で、浮いた話もなかったというが、母親らは早く結婚してほしいと願っていたという。30代後半のころ、付き合っているという女性を母親に紹介するが、その女性に高校生の連れ子がいたことに母親が難色を示したため、結局結婚には至らなかった。
畠山と美香が、いつから交際をしていたのかは定かではない。畠山は美香のことを誰にも話していなかった。
そして、畠山と交際しながら、Aさんとも交際をし、同居していた。
いくつかの情報を見てみると、どうやら美香は畠山にさほど重きを置いていなかったようだ。何人かの交際相手の一人、という位置づけでしかなく、Aさんと交際し、同居に至った間はむしろ畠山とは疎遠であった可能性もあった。
しかし、Aさんが出張が多く不在がちであったことが、畠山と美香を再接近させた要因となったようなのだ。

裁判

裁判で美香は、道の駅かみおかの駐車場において、畠山との性行為を諒介君に邪魔されたことに「畠山が」立腹し、美香に対し「殴れと命じた」、と話した。
美香は畠山から結婚をほのめかされており、畠山を失いたくない一心で諒介ちゃんの頭部を中身の入ったコーヒーの缶で殴らされ、その時畠山が諒介ちゃんの口を押さえていたと述べた。
弁護側も、美香は積極的に暴行したわけではなく、畠山に強制されたと主張した。
用水路に棄てたのも、畠山に指示されて行ったことだとした。

美香は殺害の事実は認めており、反省し、罪を受け入れる姿勢を見せていたが、畠山は全面否認となった。

逮捕当日、実家にいた畠山は、驚く母親に対し、「自分は何もやっていないし、これは何かの間違いだ。心配することはない」そう言って警察官に連行された。
母親は直後の地元新聞社の取材に対し、「もう外を歩けない」と言ってふさぎ込んだという。
堂々と連行されたはずの畠山だったが、逮捕後間もなく罪を認めた。
しかし、起訴されたのちは全面否認に転じた。弁護士らによれば、畠山はホテルに3日間軟禁状態にされた上で、怒鳴ったり殴ったりといった違法な取り調べのもとに強制された自白であったという。
諒介ちゃんの遺体写真を顔に押し付けられもしたという。
当初は、道の駅に止めた畠山の軽自動車内で、頭部が陥没するほどの傷を諒介ちゃんに負わせ意識不明状態にし、その後美香が「私に任せて」などと言って用水路に棄てた、と供述していたが、裁判の過程では、「道の駅かみおかで美香と諒介ちゃんと別れた。私の車の中で暴行を加えていないし、美香もそのような事はしていない」と、あくまで自分は一切見てもいないと強調した。

たしかに、畠山の車からは諒介ちゃんを暴行したと推測できる証拠は一切出なかった。諒介ちゃんは頭部をひどく殴打されており、そうであるなら血液の一滴でもありそうなものだったが、なかった。
殴ったとされるコーヒーの缶も発見されなかった。美香が自身の公判で証言した「血を拭いたタオル」も見つからなかった。しかも、畠山は前日の温泉一泊の際、親子と見間違われるほど諒介ちゃんと楽しそうに過ごしていた。
それが、たった一日で、殺してしまうほど憎たらしくなったりするのだろうか。
また、現場とされた道の駅かみおかだが、当時の時間帯はかなり混雑していて、車内で性行為、挙句死に至らしめるほどの暴力行為が行えたというのもなんとも不自然な話ではあった。

結局、一貫して否認するその姿勢が「無反省」ととられ、美香に結婚をちらつかせて意のままに操ったいわば「主犯」として、判決は美香を上回る懲役16年が確定した。

操ったのはどちらか

畠山を知る人々も首をかしげる。
これまでそういった暴力的な面は一切なかったし、むしろたとえしつけであっても親が子供を叩くなどすれば止めに入るタイプだと口をそろえた。
また、畠山が結婚をほのめかし、それを利用して美香を操った、という主張がなされているのにも疑問が残る。
畠山は本当に女っ気がなく、過去に結婚を考えた相手はバツイチで、趣味の陸上を一緒に楽しんでいたというが、それ以外には聞こえてこない。
自室には万年床、アダルトビデオが部屋に山積みになっているような男が、女を意のままに操れるだろうか。
過去の恋愛や、二度の結婚生活を見てもわかるように、美香は泣いてすがるような女ではない。暴力に訴え、人々を振り回して我を通すタイプである。それこそ、作田氏が言うとおり、美香こそ他人を意のままに操ろうとする人格を持っているし、思い通りにならなければなりふり構わないのも過去のすべてがそう言っている。
最初の消防士との恋愛においては、思い通りにならないとわかるや否や、放火という常軌を逸した行動に打って出、二度の離婚の際は金を要求し、自ら夫らを捨てている。
こんなことが出来る女が、結婚をほのめかされたからと言っていいなりになるか?ならねーよっ!
というか、美香にとって結婚など面倒くさいだけでなんのメリットもなかったはずではないか。唯一、メリットがあったとすれば、金だろう。
最初の夫からは慰謝料を、2番目の夫からも、何かにつけて金銭を受け取っている。

裁判は美香にとっては最低限ではあるが有利に運んだと言える。殺害に加担してしまったのは間違いないが、私は強要されてしてしまったのだ、弱い自分が許せない、そう裁判で美香は話した。そして、裁判はその通りに進み、実の息子を暴行しまだ息のある諒介ちゃんを冷たい用水路に棄てて殺害した美香よりも、それを「させた」として、畠山の判決は美香の懲役を上回った。
まるで、美香が畠山と全く関係ないところで諒介ちゃんを「死に至らしめる危険」と言われるほどの虐待を加えていた過去の事実など、無かったかのようであった。
なんだろうこの、どこまでも他人をからめとるというか、自分が堕ちるときは一人では堕ちないというか、人との関係はすべてそうである。
最初の消防士は、事の顛末を知って大変苦しんだという。自分のせいで職場にも地域にも迷惑をかけてしまった。消防士の自分の人間関係が、こともあろうか放火を引き起こし、その張本人は「あなたへの愛を証明するが為に」したのだと言い放った。

そもそも畠山が美香に執着していたという話もない。付き合い自体は数年前からではあったものの、その間美香には事件当時同居していたA氏もいたわけで、なにより連れ子がいる女性との結婚を親に反対されてやめてしまった経験がある畠山が、美香を結婚相手にしようとすることも考えにくい。
美香とて、先にも述べたように過去2回の結婚はいずれも出来ちゃった婚であり、それも長続きせず最後は自分から家を出ている点を考えても、結婚に執着しているとも思えない。
なのになぜ、結婚をほのめかされて断れなかった、という美香の主張がまかり通ったのだろうか。

言葉を選ばずに言えば、批判を承知で言えば、美香のその外見が惑わせたのではないか。
もしも美香が美しく男がいくらでも寄ってきそうな女性であったなら、こんな話信じなかったのではないか。おおよそ美香が男性とは縁がなさそうな女であったから、「結婚にすがった」という話が真実味を帯びたのではないのか。

そうであるならば、検察も裁判所も、この美香にまんまとしてやられたということになろう。

畠山の年老いた母親は、子ども好きで荒い言葉の一つはいたことがない息子を信じながらも、警察にこう伝えたという。

「もしも本当にそういうことがあったなら、そのまま戻さなくていい、殺していい」と。
********
参考文献
秋田・4歳男児殺害事件 "鬼母"美香容疑者の異様な"オトコ漁り"
週刊朝日 2006.12.1 p.34~36
秋田・諒介ちゃん殺害事件 「鬼母進藤美香容疑者」31年の狂気と「5人の男」
サンデー毎日2006.12.3 p.30~33

参考サイト
あきた北新聞 第77回・2006年11月15日
デスクの独り言 何が彼をそうさせたのか

日本国民救済会


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