『文体の舵をとれ』練習問題⑤

※問題を引用してよいものかわからなかったので習作だけ載せています。どういう文章なのか気になる人は本を手に取ってね。(ル=グウィン、アーシュラ・K『文体の舵をとれ』大久保ゆう訳、フィルムアート社、二〇二一年。)

青年は岸壁の先に立っている。身につけているのはトランクス一つ。瘦身は日に焼けている。海の向こうには岸が見えている。この地に水平線はない。彼は身体を伸ばして天を仰ぎ、身体を折って地に親しむ。息を吐く。息を吸う。息を飲みこんで、彼は地を蹴った。身体は放物線を描き、落ちていく。着水に音は無い。波紋だけが世界に残っている。彼は浮かび上がってこない。凪が戻る。音がする。波は岩場を打ち、翻る。空気が震える。海鳥が翼を畳み、水に飛び込む。影が彼の軌道を辿り、海に落ちる。水しぶきが跳ね上がる。沖で魚が跳び、海鳥の餌食になる。彼は戻らない。私はその全てを見て、立ち尽くしている。声がする、と私は思う。世界は彼と私のものだった。彼は世界から消えてしまった。声はそれを伝えていた。鼓膜は揺れていない。頭の中に声がする。一歩を踏み出し、息を止めて、崖下をのぞき込む。眩暈がし、並行を失う。右手を胸に当てる。左手で汗を拭う。錯覚だったのかもしれない。私は彼を見ていたのだった。彼が私を呼ぶのを聞いていたのだった。

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