日本人が持つ陽キャコンプについて
陽キャ哲学では『能動性の回復』によって個人と社会の両面を多角的な価値においての勝者にしていくことが出来ると主張する。ゆえに、能動的な負け組という言葉は矛盾語法であり、能動性を奪還する過程で我々は勝者になることが出来る。考え方の多様性は価値転倒から生まれるため、思考パターンに他者の価値がインストールされることを是としていては陽キャになることは不可能である。価値転倒を遺伝子レベルで刷り込む各種の方法については、過去の記事及び著書『超陽キャ哲学』で既に述べた。思考法の解説と指南は終わっているので、あとは社会の構成員たちが如何に陽キャ哲学を実践していくかという問題を残すだけである。手前味噌にはなるが、太田龍一(品川哲学)やFPもとこ(能動経済)、ホモネーモ(アンチワーク哲学)と言った思想家は、陽キャ哲学から生まれた。『彼らは元々思想の才能があったのではないか』『陽キャ哲学はきっかけに過ぎないのではないか』と考える読者もいることだろう。その手の主張に対して返す言葉は一切ない。陽キャ哲学は彼らの中に元々あった才能を触発しただけである。思想とは長い時間を掛けて形成されるものであり、書籍を数冊読んだ程度で変わるなどとは考えていない。陽キャ哲学は、最後の一押しで発芽する種に水をあげただけのことだ。ここで疑問に上がるのは、なぜ日本には発芽しない種子がここまで多いのかということだ。書籍を発売してから半年、noteやYoutubeは三年近くやっているが、日本人が陽キャになるスピードはナマケモノの移動速度並みである。本記事では、日本人が陽キャに対する劣等感を持っており、ルサンチマンから意固地になり、陽キャの価値を認めない社会を作り出しているのではないかという説を主張しようと思う。
陰キャ民主主義
日本には主体的な民主主義は存在しない。このようなフレーズは社会学や政治学の文脈で多用される。日本人という大きい主語を使っている為、誰も傷付かずに日本の問題点を他責にできるフレーズである。そのため宮台真司などの無味乾燥なプロレス社会学と相性が良い。『日本人』とは誰を指すのかを明確にしなければ、この手の主張に意味はない。日本の民主主義を崩壊させたのは全ての日本人ではない。『匿名の日本人』である。つまりは宮台真司が大学で教えている生徒であり、千葉雅也の生徒であり、シラスの会員であり、日本の匿名労働者たち全てである。これを言えば、彼らは顧客を失うことになるだろう。一部の有名人が大多数の匿名から金銭を集めて成り立っているのが、インテリ文学であり、論壇の正体である。腰抜けを量産する大学制度や公務員の終身雇用などに対する怒りはあるが、この場ではいったん置いておく。重要な点は、なぜ日本人が匿名性が大好きなのかという問題である。日本人と匿名の親和性については、実業家けんすうこと古川健介がnoteでこのように記述している。
儒教の影響を強く受ける東アジアの国々では、個人の確立された人格というものが存在するという考え方は主流ではなく、人格は関係性が定義するものであるという考え方が根強いようである。これは養老孟子が自著『バカの壁』でも同様の主張をしていた。『武士に二言はない』という慣用句は、武士が初志貫徹の心を持っていたという意味ではなく、関係性で人格が変化する日本において、軽はずみな発言は必ず訂正が必要になるという警句であったのだという。今でこそ養老孟子のような懐古主義の老人の言うことを鵜呑みにすることはないが、学生の時分では中々ユニークな解釈もあったものだと感動したものである。つまりは、匿名性は人格に対する保険であり、人格を固定しなければいくらでもポジションレスでいることが出来る。政治的主張の開示が公の場で禁忌とされているのも、同様の理由からであると推測できる。人狼のような正体隠匿ゲームでは、自身の役割を早い段階で開示すると不利になることが多い。誰も政治的立場を開示しないので、結局は、誰一人として自身の立場を開示しないまま、曖昧で終わる。周囲が匿名性に甘んじている為、社会の構成員である我々一人ひとりも匿名であることを余儀なくされる。私はこの現象を陰キャ民主主義と呼ぶことにする。匿名性は社会階層や性別を越えて語り合うことを可能にした画期的なアイディアである一方で、その役割は暴走している。スクールカーストと呼ばれる学校内階級の底辺に位置するナード(オタク)によってインターネット文化が発展してきたため、ネット民にとって匿名性は必要不可欠であった。今やインターネット言論空間は民主化しており、コミュニケーション空間であることを越えて世論の形成の場でもある。確かに趣味を語ったりゲームをする上では、人格の一貫性など不要なのかもしれない。しかし、もうインターネットで寝そべり族をしている場合ではない。全世界が文字通りの意味で繋がる日は近い。TikTokでは中国の音楽に合わせて日本人が踊っている。ピケ主催のサッカー大会に日本のゲーム配信者が参加している。国内では交通網改革が行われ、東京一極集中がさらに加速することが見込まれる。この記事でさえ、実は外国人が翻訳ツールで書いているかもしれない。今まで貴方は1億2000万分の1の匿名だったかもしれない。今後は80億分の1の匿名になる。そこでの貴方の価値は一体何分の1になるのだろうか。
歴史に対する蓄積
ネトウヨは頭が悪い。真の愛国者なら陽キャ哲学を実践しろ。無思想の大衆は学歴や職歴、お金に対する蓄積のイメージは明確に持っているが、歴史に対する蓄積のイメージはまるでない。日本は沈みゆく船であり、社会変革の手段を選んでいる場合ではない。無思想の大衆にはネトウヨのような言葉の自動機械や情報商材屋も含まれる。日本は価値の社会として運営されている。日本社会では『その人が何をしているか』ではなく『その人がどんな価値を持っているか』が重視される。それを象徴するのが、入学が難しく卒業が比較的容易な大学や、無能でも解雇されない終身雇用制度である。入り口部分のテストや面接は難しいが、組織に所属してからの貢献度は蔑ろにされる。能力主義や新自由主義を徹底しろと言っているわけではない。行動主義者に対するリスペクトが足りていないことを指摘したいのである。20年前に大手証券会社に就職しただけの窓際族のおじさんが年収4桁万円というのはどう考えてもおかしい。行動の蓄積に対する尊敬と対価を払わなければ、手痛いしっぺ返しを食らうことになるだろう。その最たる例が、日本社会の投資意識の欠如である。日本衰退の最大の原因はテクノロジーと若者に対する投資の欠如である。政治家や大手企業の役員は初期高齢者ばかりで、世代交代という言葉とは程遠い。若者にポジションを与えて様子をみればいいではないか。失敗したらまた別の若者で試す。若者に仕事とカネを与えることをこの国は酷く嫌がっているように見える。その理由は単純で、日本が価値の社会だからである。老人と若者を比べれば、老人の方が多くの実績を持っている蓋然性が高い。老人の方が長い人生を生きているのだから、若者より多くの経験をしているのは当然の話である。しかし、比較基準を成長率に変えれば老人と若者の力関係は逆転する。若者は成長株であり、超有能な投資対象だ。取り分け、陽キャな若者は稀有であるし、社会が崇めなければならない。老人のお金を奪うには『陽キャでなければ生きにくい社会を作ること』しかないと思っている。過去の価値や実績を崇める陰キャたちからお金や能動性を奪いまくることで日本社会は生まれ変わる。東京大学から直接的にお金を奪うことは出来ない。寧ろ、東京大学は今年値上げを決定した。そうではなく、東京大学の信奉者たちから可処分時間を奪うような通知攻撃やコンテンツを量産して、東京大学を間接的に破壊することが肝要である。成田悠輔を調べたら、陽キャ哲学がヒットするようにする。価値の審美眼を持ち合わせていない陰キャたちは成田悠輔と陽キャ哲学の区別を影響力の違いでしか評価できない。そこに単純接触効果で、成田悠輔≒陽キャ哲学という関係性イメージをひたすら流し続けて、東大経済学部主席イェール大学助教と陽キャ哲学の対談が成立しているように誘導すれば、陰キャの大衆は混乱して認知的不協和を起こす。
これらのテクニックの応用が徹底的な内輪ノリである。第74回NHK紅白歌合戦のテーマは『ボーダレス-超えてつながる大みそか』であった。世代を超えてテレビの前で家族が一つになるという昭和的共同幻想は令和でも健在のようである。しかし、実際はテレビという中央メディアは力を失い、それに伴って『大衆』という意識も消えてしまった。今は大衆がインターネットの中で各界隈に分離して、延々と内輪ノリを続けている。大企業や有名大学は、それらの界隈の身内ノリでしかない。彼ら彼女らが内輪ノリを持ち出すのならば、こちらも究極の内輪ノリを提示することで対抗することが重要である。我々が参加する場所はどこでも社会運動の第一線であり、一人や少人数で壮大な組織を自称することも加えて重要である。〇〇一門、〇〇アカデミー、〇〇普及協会、〇〇党など一人で集団を名乗り、陰キャを勝手に構成員に参列させてしまうことも地味ながら効果がある。また、我々クリエーターはお互いがお互いを認知していないことも多い。繋がってみるとイデオロギーや思想が近く、クリエイティブに拍車がかかることもある。マイニング作業を通じた横の繋がりの拡充と内輪ノリで、日本人の陽キャコンプレックスに対抗できたら幸いである。