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女装するムッソリーニ - 反ファシズムのすゝめ

私は政治で社会が変わるという神話を信じない。同時に全ての政治活動が無意味であると主張したいわけではない。政治活動は現代アートのもっともポピュラーな表現形態であり、人類全体の内発的動機付けをサポートするための必須要素であると考える。政治活動は社会が変わるから偉大なのではなく、万人が内に秘めるヘゲモニズムを解放する手段が『政治』以外に存在しないから偉大なのである。これから私が書く文章は政治に対する哲学の優位性を誇示するために、政治活動に対して冷笑的に取られる表現を多用するかもしれないが、それはあくまで『社会を変える』という価値に重きを置くという、私の趣味趣向から起こることであり、対立意識ではないことをご容赦いただきたい。テーマの都合上、ファシズム批判に重きを置くが、これから語る内容は左翼や宗教勢力にも部分的に意味のある指摘になっている。

ファシズムはそもそも不可能

ファシズムというイデオロギー特有の問題点を考えたときに、その不可能性から逃避することは出来ない。ファシズムというイデオロギーを政治に無頓着な者にも分かりやすく伝えようとすれば『20世紀の流行病』というのが的を得ているのではなかろうか。ファシズムは束を意味するファッショというイタリア語を語源とする独裁者ムッソリーニの造語である。日本語で表現するならば結束主義と訳される。結束というと聞こえは良いが、20世紀に支配的だった自由主義と共産主義への対立のために当時の新興ヘゲモニストたちが考えた否定神学的イデオロギーにすぎない。いつの時代も自称革命家たちは手段は問わず、現行の政治勢力を転覆させられれば良いため、彼らの考えだす政策や政治信条は抽象的でポピュリズム的であることが多い。ウィキペディア曰く、ファシズムのイデオロギー目標、その一丁目一番地は『伝統的な国家を基礎としない、新しいナショナリストの権威主義的な国家の作成』であるそうだ。新しいナショナリストという矛盾語法も笑いを誘うが、ここで注目すべきは『伝統的な国家を基礎としない』の部分であろう。彼らのいう伝統主義的な国家とは自由主義の大本営であるアメリカ合衆国、共産主義の大本営であるソビエト連邦を示唆していることは言うまでもない。他国の成功例をみて、二匹目のドジョウを狙わない若々しさには感服するが、彼らは資本主義という人類史上の最難問である資本主義という問いから逃げてしまった。自由主義と共産主義の対立は、両者の市場経済に対する考え方の差異である。ナショナリズムが有益か否かの議論は、現代では一部の右翼と左翼の対立にはなっているが、共同体の富よりもナショナリズムの論理が優先されるべきかという問いは両者双方にとっても愚問であろう。富の流失を防げなければ、人民の流失に繋がり、結果的に国力の衰退を招く。共産主義体制は党幹部だけ肥え太る欠陥体制であるとの批判があるが、資本主義であれ、一部のブルジョア階級が富を独占する構図は変わらない。我々人類は一度たりとも資産分配の問題から逃避できたことはない。つまり、大和民族という束(ファッショ)に、在日クルド人が含まれることを拒否するよりも、純大和民族の寝そべり族を日本国民という束に含むべきかどうかの論題の方が、深く議論されてしかるべきである。ナショナリズムは統計学、遺伝学、社会学という現代思想を牛耳る三つのアカデミズムから『NO』を突き付けられている。特に統計学の一般化は、彼ら彼女らの20世紀に対するノスタルジアを完全に機能不全に陥れた。21世紀においても様々な分断が現存しているが、上述のように経済的分断という究極の難題は避けて通ることができない。それと同時にインターネットの発展が、我々が本当の意味で結束主義者になることの不可能性を可視化した。

統計学は残酷である。個人の能力値や生涯所得の分布は簡易なベルカーブに全て収まってしまう。どんなに優秀な指導者が全体の底上げをしても相対的な優劣は残り続ける。ヘゲモニストたちの紛争は部分的に意味のある営みに見えても、その内実は群像劇のスポットライト交代にすぎない。20世紀という早い段階で消費期限の終わってしまったファシズムを嘲笑することなかれ。自由民主主義も21世紀には様々な問題を噴出して、可視化されぬところで大量の死者や精神的植物人間を生み出している。政治というのは派閥交代を楽しむエンターテインメントであって、それで社会が変わるという性質のものではない。統計学や資本主義という『問い』に対して、まだ誰も正解を持っていない。社会的諦念としての統計学への順応を、ファシズムの再発掘によって解決しようとするのは価値転倒の哲学に近しいものを感じる。しかし、ファシズムが20世紀を引き摺っている以上、統計学への憧れを捨て去れていない。一億総中流としてのロールモデルである『野原ひろし』は平成初期の日本における正規分布の中央値である。野原ひろしという概念が彼の声優と共に過去の人となった現在でも、結婚や出産、マイホーム、正社員という幻想は多くの逸脱者をうつ病に追い込んだ。社会が『普通』という神話を提供し続けることが不可能になった結論として、反骨精神としてのリベラリズムが多様性を喧伝している。この流れは如何なる政治も歯止めをかけることができない。SNSでは多様性主張に対して煙たがる声が散見されるが、普通に対する呪詛は多様性嫌悪の比ではない。社会はあらゆる指標を正規分布図として抱えているが、自己の要素が偏差値が50を下回る指標について、人は疑問を抑えておくことができない。人はある分野では必ず不幸であるため、それを拡散する装置としてのソーシャルメディアが結束主義を許さない。これが現代社会の分断が加速度的に進行していくメカニズムである。山で密林で生活するコミュニティに先祖返りすれば、人類のルサンチマン芸に対して歯止めが欠けられるやもしれないが、現実的ではないだろう。我々は結束によってではなく、問いによってしか社会を変えることは出来ないのである。

女装できない外山恒一

ここまで書いてきた通り、ファシズムは不可能であるため、これ以上の死体蹴りは不要である。しかし、ファシズムを語る上で、外山恒一と学生運動を無視することは出来ない。日本ファシズム界隈のマスコットキャラクターである外山恒一と彼の推奨する学生運動を批判することで、日本の若者及び学生に哲学を学ぶことの重要性を伝えていきたい。私は友人であるネオ幕府のアキノリ将軍未満に外山恒一著『政治活動入門』を読むように勧められた。読了しての感想は、『人気者になりたいだけの助兵衛オヤジの戯言が沢山書いてあるな』というフラットな感想であった。彼は社会を変えることが出来るのは、若くてヒマで知的な人物たちであると述べていた。その理想像として私立文系の大学生が挙げられている。彼ら彼女らは暇を持て余しており、ある程度知的で若いため、政治というある程度の知能と時間の余裕を必要とする分野での活躍が期待できるのだそうだ。また同書の中で、芸術家や思想家は政治家に対して憧れを抱いており、政治活動を諦めた負け組が、そのような生ぬるい世界に落ち着いているのだとも指摘していた。私の認識では、政治活動はアカデミズムのヘゲモニー闘争から逃げた先の帰結だと思っていたので認識の違いに驚かされた。何不自由なく生きてきた中流階級の子息が政治家を突如志したりするものだろうか。政治家は二世として親の思想を引き継ぐか、または社会からの逸脱に対する他責から反骨精神が芽生えるケースの2つがある。これは『政治活動入門』の中で『正義』と『他責』という言葉で表現されており、外山恒一も同じような認識を持っていたはずである。政治というのは社会への鬱屈と他責が生み出す負け組のアートなのである。芸術家や思想家として成功しないことが、政治家になるための登竜門であり、本来政治活動家は芸術家や思想家の日陰の部分としての意味を持っているはずである。故に、外山恒一も自身のルサンチマンから政治の価値を意図的に高く見積もっているのだろう。前述した通り、現代政治に父性やナショナリズムの入り込む余地はなく、ルサンチマンから起こる多様性の押し付けこそが、現代政治である。ここで面白いのが、本来ファシズムによって排斥されるはずである異端者たちがファシズムという学生運動に駆り出されているところである。これは肉屋を支持する豚のような趣がある。学生運動に関しては、60年代安保闘争においても、一部の過激な社会不適合者インテリジェンスたちが暴走していただけであり、一般的な大学生たちは冷たい目で見ていたのが当時の肌感だそうだ。学生運動が多数派の圧力に対する対抗策としての暴力が原動力であったとするならば、それは活動家の名を借りた不良の青春に名前を付けているにすぎないのではないだろうか。

右翼と左翼の対立というのは実に無意味である。本当の敵は在りもしない普通という抽象概念であり、対話するならば大衆に対してでなければ意味はない。ある他者が抽象概念を提示した際に、問答法を繰り返してプリミティブな論点に立ち返らせるのは哲学の基本である。文系学問は暗記科目だという指摘があるが、暗記が状況に対する過去問として機能している側面は評価しなければならない。暗記が重要であることと問いを放棄しないことは矛盾しない。暗記した内容を問いによって分解していくことが哲学なのである。これは筋繊維が遅筋と速筋に大別されることに例えられる。腕立て伏せには体感を維持する遅筋と腕を支える側近の両方の働きが作用する。『大衆がインテリジェンスを理解しない』という対話放棄からの暴力への憧憬は、腕を鍛えているのに腕立てがうまく出来ないと言っているようなものである。つまり、大衆の言語とインテリの言語は両方話せなければ能力不足なのである。では、外山恒一が理解できない『大衆の言語』とは一体何なのだろうか。例を出せばキリがないが、YouTube、漫画、文学、美少女、猫、等々無限に思い浮かぶ。余計なお世話かもしれないが、外山恒一合宿の卒業生の活躍がイマイチ界隈外に響いてこない理由として大衆の言語の重要性を認識させぬまま、彼ら彼女らをイデオローグとして世間に送り出しているからなのではないかという邪推がある。顔出しYouTubeや漫画の執筆などを卒業生の義務にしてみることを強く推奨する。薄暗いBARで政治や軍事について内々で語明かすのは構わないが、それではやっていることが秋葉原のカードショップと大差がない。さらに言えば、近年、資本主義のデジタル部門がが美少女や猫を囲い始めて危機的な状況に陥っている。ここでは詳しく語らないが『万物のアイドル化』という、全ての発信活動がアイドル性の奪い合いを始める現象も起き始めている。これは男性のセックスの確保などという生温い問題ではなく、説得力という武器すら資本主義が我々から取り上げようとしているという由々しき問題である。

私がここ最近、ABEMA PRIMEという新興メディアへの進出意義を繰り返し述べている理由もここになる。ネオ幕府のアキノリ将軍未満は、一見すると師匠である外山恒一のNHK政見放送ジャックを真似しているだけに見えるかもしれないが、彼は外山恒一を批判的に継承している。外山恒一の時代よりも今のインターネットはプロセスエコノミー優位である。つまり、普段の活動(プロセス)はメディアでの発表によって完結する。対談の場が用意されることで、それまで島宇宙に過ぎなかった各界隈が批判的に融和する。冷笑的発言にはなるが、令和時代では政治活動それ自体には意味が薄く、活動を発信者で評価し合うインタラクティブ性が社会変革の鍵である。従来の選挙においても、平時の政策実行には大衆は何の興味も持たず、選挙の時のマニフェストしか確認していなかった。スポークスマンだけを見る人間の浅はかさは、たかだか数年で改善することはないが、スポークスマンとしての登場回数をインターネットにおいて加速させることで、大衆のマインドシェアをジャックできるようになったのだ。言うまでもなくこのような方法は美少女やイケメンなど画面映えするアイコニックキャラクターが有利である。そのような意味で若者を強調できる『学生』運動は馬鹿にできないのかもしれない。最近彼はYoutubeを始めたようだが、彼の役目は本質的に終わっている。女装は外山恒一には向いていないし、画面で喋っていても興奮しない。外山恒一は終わった人であるが、その弟子の中には評価できる人間も少なからずいるようである。女装できない外山恒一の代わりとして。


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