家事シェアと男のプライド、女のプライド

先週はわが家の家事シェア、今では随分とスムーズになったという話を書いたのだけど、最初から自然にできていたわけではまったくなかった。

わが家は共働きで、2人ともフリーランスだから、仕事の波が大きい。

もう10年以上前のことだが、結婚当初、夫の仕事はあまりうまくいっていなかった。

本人も当然苦しかっただろうし、私も苦しかった。
家計のために仕事を減らすわけにはいかないし、抱えきれないほどの仕事に苦戦しながらも、夫に妬まれてもいるようで気兼ねする。
夫は家事をやらないわけではないけれど、私が求めているレベルではなくて、結局私の負担ばかり増えているように感じた。

当時の夫は、食事はおなかがいっぱいになればいいと思っていて、栄養バランスなんて気にしないし、洗濯物のシワを伸ばさずに干し、シワシワになった服を着ても平気だし、散らかり放題の家に人を招こうとしたりする。
おまけに、仕事のことを考え出すと、家事のことはすっぽり抜けてしまう。
仕事があろうがなかろうが、毎日ご飯を食べなければ生きていけないし、栄養が偏れば肌は荒れていくし、洗濯物も部屋のホコリもどんどんたまっていくのに…。

仕事と家事とを比べたとき、家事は全く重要視されていないことに愕然とした。
油断すると、仕事どころか遊びより家事の方が軽視される。
子どもがいないからなんとかやっているけれど、これで子どもができたりしたら、どうするつもりなんだ、と腹が立った。

物理的な負担以上に、男は仕事をしてお金を稼ぐべき、女は家事をするべき、という呪縛のために、夫も私も、余計に葛藤してきたと思う。

頭では、暮らしていくためには、お金も稼がなければいけないし、家事もしなければいけない。そこに男女は関係ないと理解しているつもりでも、仕事がうまくいかないとき、夫は人(男)としてのプライドがつぶされるように感じたし、家のことがうまく回らないとき、私は人(女)としての自信が失われるように感じた。

理屈ではなく、子どものころから刷り込まれてきた習慣だったり世間体だったり、形のないモヤモヤしたものに縛られて感情的になる。そして、大げんかをしたり、言いたいことを伝えられずに一人で葛藤し、あとで爆発したり。

たとえば、仕事が忙しくて家の掃除が後回しになっているとき、後回しになっていること自体に私は罪悪感を覚えた。
さらに、「確かに私はできていないけど、夫は気がついてすらいない」ということにイライラして感情的になる。
喧嘩をして、自分の苦しい気持ちを吐露しているうちに、「家の掃除もできないなんて、だらしない女だ」とどこかで考えている自分にハッとする。そんなことを口にしたら、夫には「昭和の親父かよ」と苦笑いされた。

そして、ぶつかりながらも、気がつくのだ。だれがすべきだとか、こうあるべきといったことは一旦横に置いて、「掃除をする」ということだけに目を向けて話し合えば、「いつ、だれがするのか」「慣れなかったり、忙しかったりしても、どの程度までならできるのか」といったことを冷静に判断でき、案外すんなり落としどころが見つかる。

わざわざぶつかったり、相手がやりやすいようにお膳立てしてまで、家事シェアをしなくてもいいという声もある。
確かに、最初はいくら話し合っても平行線のように感じたり、自分でやった方が早いと感じることも多いかもしれないけれど、ゴツゴツとぶつかりながらも“落としどころ”を探っていると、「自分たちの暮らしに何が大事なのか」ということが、少しずつ共有されていく。そして、知らず知らずのうちに「雪だるまを転がすように心地よさが増えていく」と、私は思う。
そうやって、お互いの価値観が変わっていくのを発見するのも、共同生活の醍醐味ではないだろうか。


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