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固執してしまう気がする

赤ちゃんは「おぎゃあ」と言ってもすぐには1人では何もできない。
もちろん食事も排泄も自分でどうしたらいいか分からないから、食べさせてもらい、おむつをはいてそこに出して汚れたら交換してもらう。

歩けないからベビーカーに乗ったり、大人に抱っこやおんぶで移動することもみんなが納得することでしょう。

この工程には、誰もが「できないから」「当然」ということになっています

今度は年齢を重ねて、高齢者になった場合はどうでしょうか。

筋力が下降して歩くのがしんどくなったら、杖をつく・長距離も歩くことが難しいから車いすに乗ることもあると思います。

トイレも、移動する・座るそして部屋に帰る

この一連の動作が難しい人も少なくないと思います。

ここで周りの人は「高齢だからね」「足腰弱くなってるから」という感じで周りの反応は赤ちゃんの時と変わらない。

ここで違うのが「本人の意思」だと思います。

赤ちゃんはすべてが「初めて」のできごと
高齢者は「今までできてたことができなくなってきた」

ここの差が大きくて、今までは歩けてなんでもできていたのに、自分で無意識に用を足すこともできていたのにという感情から、また「おむつ」をしないといけないのか、車いすに乗らないと出かけるのも難しい。

できなくなっていく自分がしんどいとか、できなくなることが恥ずかしいとか、家族に迷惑がかかるとかいろんな感情が交わって、もっと悲しくもなっていくのかなとか、なにかが邪魔をしているのかとも思ってしまう。

せっかくの外出でクッソしんどい中買い物してもしんどさ倍増、例えば長距離移動でトイレもいけるか分からない場合におむつは「もしも」のときに、最小限の着替えなどで済むかもしれない。

できなくなっていることを補うのではありません。

みんなで楽しく外出や行事を楽しむための方法

これに尽きると思います。

自分も24歳で入院と手術で介護用おむつ、ストマ、車いす生活を経験。
排泄もコントロールできないから誰かに補助してもらったりも、たくさんしてきました。

最初は「恥ずかしい」「いい大人が」とかも思いましたが、やりたいことができるならやむを得ずという感覚に変わっていきました。

やっぱり「恥」ということに抵抗があるから、一歩踏み出すことができないでいたりしょうかね。

そのおむつでもそだし、車いすなどを見ても周りが変な視線・意識をしないことも大変助かることであります。

ここは、見て見ぬ大人の「無視」がほんとうにありがたいです。

何回も言うようですが、老いをカバーではなく「楽しむための方法」

難しいかもしれませんが、楽しむための一つの手段です。


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