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[読書の記録]ミケーレ・ボルドレン&デヴィッド・K・レヴァイン『反知的独占』(2013-09-12読了)

 同僚に借りて読んだ。

『<反>知的独占』ミケーレ・ボルドレン&デヴィッド・K・レヴァイン


 特許や著作権といった知的財産権を保護する制度は広く社会に受容されているが、知財と科学技術イノベーション、経済成長の間にある関係性は、未だに不明瞭なままであり、問い直しが続いている。
 特許や著作権は、言うまでもなく発明者に発明のインセンティブを与えることを意図したしくみであり、イノベーションのドライバであるというのが現状ではドミナントな見方だ。

 じじつ、1980年に米国で発行したバイドール法は大学発の技術移転を大きく加速させ、産学連携による数々のイノベーションを促したとされている。

 いっぽうで、知財制度が可能にする特許の囲い込みが、情報の非対称性を生み出し、逆にイノベーションに対してブレーキの役割を果たしているとする議論も存在する。

 最近、アメリカ経済学会の発行するJournal of Economic Perspectivesが特許についての特集を組み、バイドールのようなプロパテント政策の導入が本当にイノベーションを促進したのか、実証的な分析を試みる論文が数多く取り上げられた(この本の著者たちも寄稿しています)。また、科学計量学業界の大家ライデスドルフも、バイドール法は確かに短期的には大学発の特許を増やしたが、そもそも公益性の高い大学組織に競争原理は適しておらず、米国におけるプロパテント大学政策の魔法は解けつつあるのでは・・・とする分析を、具体的な統計とともに行っている。

 また、中国による新幹線技術へのフリーライド問題とか、グーグルのモトローラ買収とか、知財に関連して目立つニュースも増えてきており、日本の茶の間の議論の俎上にのぼることも増えてきているのでは?

さて、

 競争を抑制して特権を得ようとする浪費的な取り組みを、 経済学ではレントシーキングという。 知的財産権は、 単なるレントシーキングの手段に過ぎないということが、本書のmain argumentである。
 思いはさまざまだが、 知的財産法は創造のために充分なインセンティブの提供と、 既存のアイデアを利用する自由の提供をうまく両立させる必要があるという点では賛成派、反対派ととも同意している(ハズ)。別の表現をすると、 双方とも知的財産権はイノベーションを育てる「必要悪」であると合意していて、 意見の相違があるのはどこに境界線を引くべきかという点だけなのだ。 支持派に言わせれば、現行の独占利益は”カツカツ”のものでしかないし、 反対派に言わせれば、現行の独占利益は大きすぎる。
 現行の知財制度を構成する複雑な仕組みは、制度を運営している人たちには、 比較的大きな利益をもたらしている。しかしいっぽうでそれは知識の生産者と利用者が形成する知的財産の市場として考えたとき、不要な取引コストになっている。これは、昨今のICT業界の知財係争地獄が示しているとおり。
 自由市場経済を基礎とする政府であれば、この取引コストを最小化する制度設計を目指すはずなのだが、 発明者サイドが、 現在の利益が制度変更によって失われるのではないかと恐怖していること、 また新しい制度においてより大きな利益が得られると考えていないことと、政府が、 もっぱら発明者サイドと、知財制度を運営している人たちと近しい関係にあるので、制度変更のインセンティブを持たないこと、 によって不効率な現行制度がスタックインをおこしている。
 むしろ、アップルやアマゾンのような民間企業が、 現行制度と折り合いをつけながら、積極的に取引コスト を最小化するサービスを提供している状況を見ると、この分野においては、 法の縛りや政府の関与がない方が、 全体の利益を最大化できるのではないか。。。

 というわけで本書の分析から出てくる結論は、大筋では、以下のような感じである。
①誰だって独占状態を望むし、 顧客や模倣者たちと争いたくはない。最近、特許や著作権は、 一部のアイデアの作り手に独占を認めている。 確かに見返りなしで何かをする人間はほとんどいない(人は努力には対価を望む)。
②しかし、 イノベーターにはその取り組みに応じた対価が与えられるべきだという主張から、 知財権(≒独占)が報酬をもたらす最良かつ唯一の方法だという結論を出すのは、飛躍が大きい。
③「特許こそ、 価値ある商業的アイデアを思いついた人に報いる唯一無二の方法である」といった主張は、ビジネス、法律や経済関係の論評でよく見られるが、イノベーターに (それも大いに) 報いる方法は他にもたくさんあるし、 ほとんどは特許や著作権が現在与えている独占力よりも社会にとって多くの便益をもたらす。
④特許や著作権がなくともイノベーターたちが対価を得られるなら、 知的財産権はイノベーションと創造のインセンティブを生むという本来の目的を果た しており、かなりの不都合があっても充分に相殺されているというのは本当か?
⑤作り手の財産権は「知的財産」がなくても充分に保護されるし、 知的財産はイノベーションも創造性も伸ばさない。これらは不必要悪である【結論】

 知的財産制度は、 生み出された知的財と呼ばれるものから生じる経済的利益を、 関係者だと主張する人々によって分配するための仕組みの一つのオプションに過ぎない。 最も強力な分配の機構を経済的な取引とすると、知的財産権は、 その経済的取引の初期状態を設定するためのただの仕掛けなのだ。
 特許も著作権も、 知識の流通技術や流通機構が未熟な段階において、 より効率的に知識を広めるためには悪くない仕組みだとは思う。事実、 著作権制度のおかげで、出版業は安定した事業が可能となり繁栄し、 カルチャーの活況をもたらした。また、特許制度のおかげで、 特許保有者は発明をより利益を獲得できるよう戦略的に行使するようになり、その結果、 発明はより広く普及し、社会に貢献した。
 だから、ある段階において制度そのものはかなりの合理性を持っていた。が、 残念なことに、 それらの制度は現代のわれわれを取り巻く技術状況や経済状況に合わせて設計されたわけではない。 根本的に制度を見直すくらいのことを考えてもよいだろう。

 プロコモンズの代表的法学者ローレンス・レッシグは、何年かに一度、 1ドル程度の更新料を支払わないと知的財産権が失効する仕組みを提唱していた。 たった1ドルと更新の手間も惜しい作品というものは、 すなわち権利者本人が「それほどの価値も無い」と判断していることを示している。 ならば、その知的財産をパブリックドメインに移行し、権利者から 「1ドルの価値もない」と判断された作品から、 何らかの価値を見出す利用者の自由利用に供したところでかまわないのではないか。
 また、ランデスとポズナーのように、 誰も権利行使しなくなっていることが証明できる作品については、 「権利放棄の法理 waiver」を適用してもかまわないのではないか、 というのは自然な発想だと思う。

 ところが、こうした改善案、というか、 改善案について検討すること自体が、 まともな主張なり研究なりとして相手にされない現実がある。。 この特定の主張に対する包括的な無視という対応は、それ自体が、 知的財産権に関する討議の場が何者かによって歪められていることを示してい る。
 知的財産法というのは、政府が私的な独占を強制するということで、 有効な徴税機構のない国では、いまも昔も、 政府が独占権を与えるのはよくあることだけど、紅茶やチョコレートのブランドで、 古いラベルを見ると「女王陛下のご指名により」 みたいなことが書いてあるみたいな感じで、国が発達すると、 もっと有効な徴税インフラが、塩の専売とか、 大統領の義弟に独占輸入権を与えるといった歳入の仕組みにとってかわる。 したがって、あれこれの商業活動を行う独占権を政府役人が売り出したり、 特定の財やサービスの生産や商業化の独占権を売ったりというのは、 ほとんどの先進市場経済では、だんだん消えていったわけで。。
 知財は、 近代的徴税システムが導入する前から残っている、数少ないのアナクロニズムの一つであると著者は言う。 というかもはやこれはゆがめられたアナクロニズムで、 いまや当初の設立の狙いとは正反対の、レントシーキング目的で利用されている。もし追加インセンティブの必要性が本当にあるなら、それは補助金で行うべきであって、政府が積極的に独占権を与えるのはイクナイ。
 とりあえず分厚い本だし、ロジックは粘性が強くやや冗長。しかし山形さんの訳文は相変わらずムチャクチャ読みやすい。

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