#7ペドロビッチ監督のブラボーがくれたヒント
先日サッカーJリーグ1部(J1)コンサドーレ札幌の監督、ペドロビッチ監督の番組を見ました。
コンサドーレ札幌は近年J1でも下位に低迷したり、J2に降格したりと、波に乗り切れていない、強さをあまり感じられないチームの1つでした。
今年から監督が変わり、前監督もコーチとして残り、長期的な視点でのチームの強化を始めたところです。
番組内で監督が発していた言葉で印象的なのは、「ブラボー」です。
外国の方が特に使う印象。日本人で褒める時にブラボーなんて使う人、なかなかいないですよね。
積極的なミス、つまり行けると思ったタイミングでのパスの精度が無かったり、チャレンジしたプレーというものに対しては、監督は「ブラボー」と叫び、選手もそのブラボーを何回言われたかでモチベーションが変わるかもしれないとのことでした。
ふと思ったことがありました。なぜ多くの人は、褒めることではなく叱ることを選ぶのか。なぜ多くの人は認めることよりも蔑むことを選ぶのか。
子供の頃にはそれはやっちゃダメ!ダメでしょそんなことをしたら!という叱られ方はみんな経験してきていると思います。
それは単にやり方がわかっていない子供がまずやってみることでついてくる副産物で、逆に奇跡的にダメなことをせず、大人の求めることに合っていれば褒められるのでしょう。
それは誰しも、大なり小なりやり始めというスタートにはついてくるものだと思います。
でもそれが大人になる過程で「これはダメ」という判断基準を続けられていたらどうでしょう。
大人が求めるものに忠実になることが、成長なのでしょうか?
数多くの選択肢の中から何かを選ぶことは子供も大人も変わりありませんが、「これはダメ」という基準で選んで行ったとき、残った選択肢は何になりますか?
答えはダメではないものという、正解とも取れないものになりませんか?
大人になるにつれ出来ることが増えているのに、不満を示したり、認めてくれる意思表示をされることが少なくなってきているのではないかなと思います。何かが出来ないことに対しての批判の量が、逆に増え続けているのではないかなと。
何かを発表すればインターネットで批判が目立ち、新しい言葉のほとんどは誰かを蔑む言葉だったりもします。
まぁ蔑むということに関してはまた別の要因があるのかなとは思いますが…
これらのことって、少なくとも幼少期だけではなく、大人と呼ばれる過程において判断基準がそもそも間違っていることに起因するのでは…
確かに完璧主義者から見れば、完璧ではない、100点ではない者に対しての反応として不満、批評が出るのはこれは当たり前のことかなと思います。満足していないからこそ出る言葉というのは、たとえ完璧主義者じゃなくても発する当たり前のことですし、その基準が高いというだけです。
でも、世の中そんなに完璧主義者しかいないのでしょうか…
皆さんに提案したいこと
僕は「これはダメ」ではなく「それはいい」という基準を提案します。
「これはダメという基準」で何かを決めるとするならば、数が少なければ少ないほど有効で、残った選択肢に共通項があればなおさらいいでしょう。
例えば失点はダメとなれば、どのスポーツでも守備を固めたり、もしくは点差を広げるために攻撃時に勝負をかけたりします。
しかしながら選択肢の数が多く、それぞれに共通項がないとなると「これはダメ」という基準はただただ迷わせるものだけになります。
「それはいい」という基準を与えることで
①いい方向の意見だと表明できる
②相手に対して、大丈夫な道を示すことが出来る
③それ以外の意見はどうなのかと問うた時に、細かいところまで突き詰められる
→迷ってもいい意見はまず持っているので「よりいい方」という基準に変わっていくし、他にいいのが無くても方向性はついている
僕自身書いていて、当たり前すぎないか…と何回も思いました。
でも、いいね!と言われて嫌なことはないですし、ダメというばかりで自分にかかる責任や求められていることを放棄してしまうのは間違いだと思います。可能な限り相手に対して自分ができることをする。
アドバイス出来なかったり、分からないことは修正していく。それは大人であろうが子供であろうが、何歳になろうが変わらないことですし、
そこから逃げているうちはいい大学を卒業しようとも、いい企業に入ってお金持ちになろうとも、いい人間にはなれません。見せかけの人間です。
それはいい!という選択肢、簡単そうで出来ていないことの1つだと思います。ぜひやってみてください。