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8年目の3月11日に書いておきたいこと

ども、か~まいんです。
今日は言わずと知れた東日本大震災が発生した日ですね。

8年前、私は縁あって災害を受けた現地に1週間ほど滞在していました。
ちょうど災害発生から100日後頃のことです。
別のところに書いてあった当時の記録を一部加筆修正して、こちらに上げておきたいと思います。

長文になります。
災害の記憶は忘れることも大切です。
また、8年の年月は価値観の変化を生むには十分すぎる時間です。
みなさんのご興味の範囲で目を通していただいても、いただかなくても良いnoteであることを最初に申し添えますね。

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というわけで、先週仕事で東北へ派遣されてきた方のか~まいんです。

その時の話を自分の気持ちの整理のために書き残しておきたいと思います。
中には地方自治体の名前に触れている部分があります。
これは私がたまたま経験した事であって、個人の発言や思いが、その地方自治体を代表する意見ではありません。という言い訳を先に書いときますね。
小役人の傲慢さも含めて、自分の思ったことを正直に書きたいと思っています。

んと、誤解の無いように先に言っておきますが、私は現地にいって瓦礫の撤去をしたわけでも、避難所の方のケアをしたわけでもありません。
「現地調整要員」という、もっぱら宮城県と宮城県を支援している県、市町との事務調整、それに加えて被災地の現地調査と情報収集という、文字通り純然たる行政屋として派遣されました。
ですから、ここから先被災者の方とのふれあいとか、現地でこんなに復興のために頑張ってきたよ!的な感動的な話はみじんもありません。
先に宣言しときます。

私の派遣が決まったのが移動の前日です。
6/12(日)の夕方に大雨洪水注意報が発令。私は待機当番が当たっていたので、19時から翌朝13日(月)の朝8:30まで職場待機でした。
朝になって通常勤務の人に引き継いで帰宅、自宅で休んでいたところ16:00頃に職場からコール。
今週から被災地派遣の予定だったうちの課長がウイルス性の胃腸炎でダウン。代わりの要員を確保しろという指示。
で、上司の命令、というか、代わりに行ってくれないか?という話が私の所にやってきました。
実際に自分の目で被災地を見たいという思いが自分の中にずっとあったこともあり、二つ返事でOKしました。
夕方から再度事務所に出勤して、今週最低限やらないといけない事務仕事を片付け、簡単な引継ぎをしたあと、倒れた課長の奥様が届けてくれた書類を受け取って夜半に帰宅。
荷造りをしながら資料に目を通したり、事前の調べ物をしていたところ、気が付けば空が白んでいました。
14日(火)はどうしても外せない現場があったので、朝から現場に向かって一仕事片づけてから移動を開始。

岩手県北上市に到着したのは20時半を過ぎてたと思います。
ホテルにチェックインして、先に現地入りしていた所長と明日の打ち合わせ。
夕食がまだだったので、1人で駅前を散策がてらお店探し。
ホテルと反対側の出口付近に、岩手の地元食材を使った良さそうなビアハウスを発見したので飛び込んでみることに。
「ARIV」
  http://www.ariv.co.jp/


明日行く予定の遠野市の地ビールに地元のブランド豚である白金豚のスペアリヴのコンフィ、この季節限定のオオナルコユリのソテーなど、地元のお料理を堪能しながら、カウンター席でお店の人と情報収集も兼ねていろいろお話。

北上市は内陸部で津波は当然として、個人レベルでは震災による被害も大きくはないという印象。
停電はあったけれど、いまはすっかり日常生活にもどっているとのこと。

カウンターの隣に、店の常連さんっぽい外国人の方が1人で飲んでいたので、思い切って声をかけてみる。
名前はTonnyさん。話しかけてから彼が全く日本語が話せないことに気がつきました(汗)
もちろん私も英語は全然できません(大汗)
心の中にいる語学の堪能な友人に助けを求めつつ(汗)単語の羅列で辿々しいコミュニケーションをとりながら解ったことは、彼は某製薬会社の関係者で、震災以前から北上にはビジネスで頻繁に来ている。
今回の震災で金ヶ崎の工場が被災し、生産が2ヶ月以上止まってしまったこと、その対応で、週末にはまたアメリカに帰らなければいけないことなど。
最初は「medicine」という単語しか聞き取れなくて、薬剤師か何かで震災関連で来ているのかと思ったんですが、あたりまえだけれど普通にビジネスで日本に来ている外国人の方だっている訳ですよね。

"僕だけじゃなくて、ヨーロッパにいるメンバーもみんな日本の地震の事に心を痛めているよ。"
最後にTonnyさんはそういう意味の事を言ってくれたんだと思う。
「Thank you. Never surrender.」
もっとちゃんとお礼を言いたいけれど、出てきた単語はこれだけ。
Tonnyさんと話したいことはいっぱいあったけど、私の語学力では会話もままならない。
悔しいなぁ。

○6/15(水)
 岩手県遠野市に後方支援活動のヒアリング。
 北上市でレンタカーを借りて遠野市役所まで。
 レンタカー会社の人に話を聞くと、我々のような被災地に向かう人が多く売り上げも伸びているが、瓦礫を踏んでパンクした等の小さな事故も増えているとのこと。
 約束の時間より早く遠野市に着いたので、先に稲荷下物資センターを訪問。
 ここは、被災者の方が自分で必要な物資を、自分で選んでもっていくことができるという施設。
 最初は遠野市に避難してきた方のために解放していたものが、報道に取り上げられてから沿岸部の避難者が車でやってくるようになったとのこと。
 商業機能が回復しつつある中で、いつまでこのシステムを残すべきなのか、遠野市でも悩んでいる様子。
 車を持っていない仮設住宅に入居した高齢者など(仮設に入居すると避難所からの物資配給が受けられなくなります)本当に必要な人に物資を手配することができないか、しくみの再構築に頭を悩まされているとのこと。
 予定の時間になったので、遠野市役所(旧庁舎)の沿岸被災地後方支援室を訪問。
 遠野市の何がすごいかって、基礎自治体っていうのは自分の市区町村の住民に対して責任を負うのが基本です。
 普通なら遠野市は遠野市民の防災や安全を考えるのが本来の仕事。
 けれど、遠野市は、津波があったら遠野市よりも沿岸部に酷い被害が出ることを想定して、有事の際は最初から後方支援をするという計画をたてているんですよ。
 普段の防災訓練も自分達が避難するんじゃなくて、後方支援として自衛隊の活動拠点の受け入れ準備とかそんなメニューをやってる。
 秋田とか北東北三県まで遠野市で展開訓練をしているとのことで、これは本当に凄い。

 私の知るかぎり、地震が発生する前から「基礎自治体」でこんな事を考えているのは遠野市だけのはずです。(当時)
 みんな自分の所の住民だけでも本当に手いっぱいなのに。
 市長の考え方が先進的で、しかも自衛隊等と普段から信頼関係を作ってあったことが大きいようでした。

 あと、市長の判断で凄いと思ったことが1つ。
 遠野市は震災後、市庁舎の暖房を止めて、暖房用にストックしてあった重油、灯油を、市内の福祉施設にすべて回したそうです。
 3.11は雪が降ってたんですが、職員は防寒服を着込んで業務。
 高齢者の凍死を防ぐために市長が決断したとのこと。
 また、副市長が1件1件市内のガソリンスタンドに頭を下げて、今残ってる燃料の売買は市の指示に従ってくれと。
 福祉施設や緊急車両のみに販売して、一般には売らないで欲しいと頼んでまわったそうです。
 遠野市も2日間は停電しており、全く外部から情報のはいってこなかった中、これだけの状況判断ができる遠野市の防災レベルの高さに驚かされました。
 遠野市については書き出すとそれだけで10,000字を超えそうなので、この辺りで自粛しておきます。

 この後は、現在も支援を継続している自衛隊の第9後方支援連隊の活動拠点(遠野運動公園)へ。


 ここでは遠野市との事前連携ができていたことから、早期に支援拠点が確保でき、展開が早かったこと、現在は物資も充足していて活動内容は避難所の入浴支援が多い事など聞かせていただきました。
 忙しい中、支援拠点の内部も案内いただきました。
 実物を初めてみたぞ!野外炊具1号!! 

 拠点を出たあとは遠野市内で昼食(なんとジンギスカンが有名なんだ遠野市)
 「まるまんじんぎす館 羊丸」
 http://r.tabelog.com/iwate/A0302/A030203/3001308/

 今回は「被災地にお金を落とす」というのが私の隠れたミッションの1つ。
 もう無償で支援物資を送るフェーズからは脱却していて、復興に必要なのは健全な経済活動だと私は考えているので、極力地元のお店で外食をすると決めていました。
 ジンギスカンのお店で食べたやわらかいラム肉は臭みもなく本当に美味!!
 思わぬ所で羊分を補給した所で、R283を釜石方面へ。

 実は私は釜石市で訪ねたい場所が2つありました。

 1つは釜石市民会館。
 瓦礫の中から見つかった位牌やアルバム、写真などを公開している場所です。
 もう1つは紀州造林旧釜石工場。
 遺体の安置所として使われている場所です。

 この2カ所の訪問については、最終的に所長の許可が下りませんでした。

 現在の我々は現地の方に直接援助の手をさしのべることができる立場ではないこと、また遺族の方への配慮から許可できないとのこと。
 後から詳しく書きますが、「他人の不幸で経験値を貯めさせてもらっている我々」としては、所長の判断は正しかったと思います。
 
 この日の最後の行程、釜石漁港の現地調査へ。
 釜石漁港は例のタンカーの映像を覚えている方も多いと思いますが、100日が経過しようという現在も放置されたままです。

 釜石市内の道路については瓦礫の撤去は進んでいる方。
  ただ、地盤沈下が酷く、この日は大潮のこともあって漁港の接岸部が完全に水没していました。
 一部港近くの道路の冠水もみられましたね。

 家屋の瓦礫撤去については、三色の旗で所有者が意思表示をするルールに。
 赤はすべて撤去、黄色は瓦礫のみ撤去(家屋は残す)、緑は触らないで欲しい、という意思表示。
 旗にマジックで連絡先を記載して、撤去の立ち会いを希望する方も多いようでした。

 R283を再び北上に向かって戻り、駅前でレンタカーを返してその日の内に新幹線で仙台まで移動。
 1日で何キロ移動したか、すでにこの段階でわからなくなってきました(笑)

 ホテルにチェックイン後、所長と仙台屋で夕食。
 「仙台屋 別室」
 http://r.gnavi.co.jp/t049608/


 所長とサシ呑みは初めてだったんですが、普段聞けない話が聞けて個人的にすごく楽しかった。
 上司と飲みに行くのが苦にならない、ありがたい職場にいるなぁと感謝することしきりです。

 宿に戻ってその日の報告をまとめても、何故か全く眠くならない。
 自覚はないけれど、本人の意識できない所で気が高ぶっているんだなぁと思う。
 ホテルを出て、深夜営業しているコーヒーハウスでリラックスを試みるも、そこがボランティアさんのたまり場になっており、会話が気になって全然落ち着かない(汗)
 会話の中身は彼女たちの名誉のために伏せておくけれど、ボランティアさんにもいろんな方がいるのだなぁと。

6/16(木)
 宮城県庁にある現地事務所へ。

 先に入っていた連絡員と合流し、3名体制になります。
 この日は朝から宮城県庁を支援している11県の連絡員定例会議。
 支援側の活動状況や、現地調査の情報交換、また新たに発生した支援案件をどこの府県が受けるかの調整等、文字通りの連絡調整会議。
 今回の会議は我々が進行担当。
 別の担当者が進行をして、私が議事録作成、所長が報告者という役割分担。

 宮城県からの報告で、県内の被害算定が家屋被害を除いたもので3兆円を越えたらしい。
 試算レベルだが最終的に6兆円を越える見込みとのこと。
 また、政府の復興対策本部が20日に立ち上がること、平野副大臣、松本防災対策大臣明日から宮城県に入るなど業務連絡も多い。

 支援については各県によって随分温度差があるなぁという印象。
 すでに支援を撤退したいと考えている所があると思えば、兵庫県(関西広域連合)のようにやや過剰ともいえる支援案を持ってくる所もある。

 うちの県は知事の意向で、被災地のニーズがあれば人間の支援はどんどん送り込めというスタンス。
 人的支援と被災地での業務経験とでは等価交換以上の価値があります。
 我々は一方的に県民の税金もちだしで支援をしている訳ではありません。
 さきほども書いたけれど、もし東海・東南海地震があったときのために、今は東北の災害を支援することによって自分達の経験値を上げている訳です。
 大規模災害における職員の経験という、何事にも変えられないものを手にしているんですね。
 不謹慎な言い方をすれば、他人の不幸で自分達のレベルを上げているとも言える訳です。
 個人的には、ここで人員を撤退させる都道府県さんは非常に「もったいない」ことをするなぁと思っています。

 会議終了後はデスクワーク。
 キーボードをカチャカチャやってると、背後で突然怒鳴り声が。

 なにやら兵庫県と宮城県が激しく口論している。
 兵庫県は自分たちが持っている阪神淡路のノウハウを生かしたいという熱意がとても強くて、宮城県にいろんな進言や提案をしてる。
 宮城県は兵庫県の提案が良いことだとは百も承知なんだけど、そこまでリソースがまわらない。
 兵庫県さんの熱意は良くわかるけれど、阪神淡路とは被害の範囲が違いすぎる。
 支援に必要な時間や距離、揺れだけでなく津波によるによる被害など、前提となる条件が違いすぎて、兵庫県のイメージ通りには単純にはいかない。
 熱意はわかるけれど、被災県の宮城県をそんなふうに責めるもんじゃないと思うよ。

6/16(木)の午後からは陸前高田市へ現地調査。
 東北自動車道で仙台宮城ICから一ノ関ICまで高速を利用し、R284、R343経由で陸前高田市へ
 ループ橋を越えてR343が気仙川を越えた内陸部の辺りから、すでに津波の痕跡が。

 こんな内陸部まで津波がと驚きましたが、津波が気仙川をとんでもない勢いで遡上したのだとのこと。
 R340に入ったあたりからは、見渡す限り荒涼たる平野が広がっていました。

 ……建築物がほとんど残っていない。

 この広範囲にわたって、ビルの3F、4Fに逃げてもそれ以上の高さまで津波がきたら、そもそも「逃げ場が存在しない」

 津波がきたら高いところに逃げましょうというキャッチフレーズは、少なくとも今回この場所では役にたたなかった。
 一体どうすれば良かったんだろう? 
 私の頭では今後の都市計画で津波避難ビルを兼ねた高層建築を作るくらいしか思いつかない。

 陸前高田市は死者・行方不明者が約2,300人、これは陸前高田市の人口の10%です。(10人に1人!)
 また世帯数約8,000世帯のうち、全壊が3,600世帯。
 この状態から2ヶ月後に「震災復興計画」を打ち出している戸羽市長には本当にすごいというか、首長としての職責をきっちりと果たしてらっしゃると思う。

 少し話がそれますが、ここで私的にどうしても触れておかないといけないのが「写真」の話。
 今回の出張が決まったとき、自分のカメラを持ち込もうというのは決めていました。

 そこで今回は自分のルールとして
  ・あくまで「記録写真」として撮ること。
  ・意図的に「悲劇的な絵を切り取らない」こと。

 この2つの事を守ろうと決めていました。
 だからレンズも標準ズーム1本、モードはフルオートしか使わない。
………陸前高田市に着くまでは、そう考えていました。

 でもね、どうしても撮らずにいられなかったんですよ。

 前に地元の神社が焼失したときに写真を取りに行った時と同じで、自分ではこういう写真を撮る覚悟とか、その裏で自分が考えてる意図の嫌らしさとか認めたくないんだけど、でも撮らずにはいられないというか、物凄く自己矛盾を抱えたまま撮った写真です。
 単に「絵になるから」という理由で撮っちゃいけないことっていうのが世の中にはあって、私には悲劇的な事象を写真で固定しちゃう覚悟がないんですよ。(そういう覚悟のある人のことをジャーナリストと呼ぶのだと思う)

 この辺については自分の中で時間をかけて考えていきたいと思ってます。

 あと、この甚大な被害のスケール感を撮るためには広角レンズが欲しかったです。これは純粋に技術面として。

 この日はそんなこんなで片道130km以上の移動だったんですが、東北に来てから1日数百キロの移動が普通の感覚になってきてます(笑)
 流石に車の運転に気を使ったので、この日は近場のラーメン屋で食事をして、早めの就寝……に失敗(汗)
 近くのスタバまで歩いて、閉店直前に「ダークモカチップクリームフラペチーノ」の Grandeとかとんでもないカロリーのモノ頼んでるじゃねぇよ(汗)>儂

6/17(金)
 この日も朝からは宮城県庁でデスクワーク。
 事務連絡的な「朝会」のあと、普段は多賀城市に駐在している都道府県の連絡員が来られたので情報交換。
 この都道府県の支援もルールやルートがいくつもあって、全容を把握するだけでも実は相当困難。
 旧自治省ルールあり、姉妹都市ルートあり、それ以外の文化交流的な組織を使っての支援ありの、もうぐちゃぐちゃなんだけど、それを統一することにはあんまり意味がなくて、支援の中身と規模、支援元・支援先だけを最低限押さえてるだけというのが正直な実情。

 多賀城市には、うちからも避難所運営支援として長期派遣の職員が滞在しているんですが、その職員は現地では別の県のマネージメント下にはいっているというなかなかに複雑な構図。
 避難所に関しては、退出する人が日増しに増える中で仮設住宅入居の支援や避難所の統廃合問題など、課題が時系列に変化しつづけ途切れる様子がない。
 連絡員さんの話は、実際に避難所に入って支援している自治体と多賀城市との間で、認識のずれや必要な情報の停滞が発生しているので一度意見交換の場を持ちたいとのこと。当然了解。

 後はちょっとしたトラブルはあったけれど、午前中は平穏にデスクワーク。
 落ち着いた所で、この日の昼食は宮城県庁内にある地産地消レストラン

 ○宮城県庁舎 ごっつお十八番(※ 現在は閉店中)
 http://r.tabelog.com/miyagi/A0401/A040101/4002348/

 ここは宮城県の地元食材を使っているだけでなく、ホールスタッフに障害者雇用をしているお店。(教育はサービス業として満足に行くレベルになされてます。当然ですが。)
 県庁18階からの眺めも綺麗で、ランチもリーズナブルで美味しく近いところで思わぬ穴場を発見した気分! 

 夕方からは塩竃市に派遣しているうちの職員とのミーティング。
 時間に余裕があったので塩竃市に向かう途中、仙台市沿岸の現地調査を入れることに。
 仙台市内の状況は仙台東部道路をはさんで、明暗がくっきりと分かれています。
 津波は東部道路を越えており、西側にも被害は出てるんだけどその度合いと復旧のスピードが違う。
 東部道路から沿岸部は、瓦礫の撤去は進んでいるものの、陸前高田に近い印象の荒れ果てた荒野が広がっている。

 仙台駅前の何事もないような繁華街と比べて、同じ市内とは思えない。
 瓦礫と作業車両しか見えないこの風景と、いつもの通りネオンのきらめく国分町の繁華街、その両方がともに「今の」仙台市の姿だと言うことを覚えておかないと駄目だと思う。

 仙台市若林区にある荒浜小学校に向かう。
 ここは津波で取り残された人が、翌々日に校舎の屋上で救助された映像で有名な場所。

 からっぽになった校舎と体育館は、躯体のゆがみや損傷が目立ち、いやでも津波のエネルギーの壮絶さを想像させる。

 周囲の家屋も、基礎が残るばかり。
 時々、残っている家の基礎の上に、写真やトロフィー等が置かれている。
 きっと瓦礫撤去の際に見つかったモノを処理事業者さんが丁寧に残していってくれているのだと思う。

 その中でも、津波にあっても割れなかった瓶類を大事に置いてあるのが印象的だった。
 日焼けで変色して、すっかりラベルもお酒も色あせてしまったキウイ酒の保存瓶が、丁寧に泥を払われて置いてあるのを見たとき、3ヶ月前にはたしかにこの場所に人が住んでいたんだなぁと、やっとリアルに思えることができた。

 荒浜小学校を後にして、塩竃市へ
 ここではうちの長期派遣職員が「罹(り)災証明」の発行事務の支援を行っている。
 塩竈市に着いたのは16時前。
 予定よりも少し早かったので、市役所の前で調査にいっている職員の帰着を待っていると、私の防災服を見て1人のおじいさんが話しかけてくれました。
 あちこちからの支援に本当に感謝している。けれど俺ら塩竈の人間は恵まれてる。陸前高田やら南三陸の人達はもっと大変な目にあっていると、何度も何度も繰り返し話されていたのが印象的でした。

 塩竈市役所の別棟のプレハブに、罹災証明の支援事務所があります。
 そこにはうちだけでなく他の県や市町村からも40名近い職員が応援にきていました。
 塩竈市は私の見た印象では復興の速度が早い所です。
 逆に言うと、市役所の機能が生きているので、1件1件家屋を調査する罹災証明にこれだけの応援要請をして、受け入れる体制が整えられたのだと感じました。
 彼らの本来業務の終了を待ってミーティング開始。
 塩竈市の様子や従事している業務の内容について聞き取り。
 後発班へのアドバイスや事前に学習しておくべき内容、また現在の班員の健康状態や資機材の要望などなど、まぁ、いろいろ話しているうちにあっという間に時間が経ってしまいました。
 最後に塩竈派遣組の班長さんの案内で、すっかり復興しているように見える塩竈市が当時はどこまで浸水していたのか等の現地案内をいただき、この日の業務は終了。

 さて、6/17の夕食ですが、今回尋ねた素敵なお店はこちら
  「愚三昧 菜る海」
   http://guzanmai-narumi.com/
 このお店の看板メニューは炭焼き穴子の白焼きなんですが、前もって穴子が軽く干してあって旨味がぎゅ~~っ!てなってます!
 日本酒に恐ろしく合うメニューでした。
 この日の夕食には、1人ゲストとして仙台市で高校の先生をなさっている方とお招きしていたのですが、お土産にどうぞと、震災後の学校通信を頂戴しました。
 それは震災5日後、3月16日に先生から発信したメールに対する返信をとりまとめたもの。
 学校名は避けますが、この仙台市内にある学校は津波の被害はなく、被災したものの生徒は全員無事。
 生徒の親戚や知人に亡くなられた方はいるものの、生徒の一等親以内はほとんど無事という状況とのこと。

 メールの内容は様々ですが、生徒の生の声が綴られていました。
 これも当たり前のことですが被災の状況は人によってまちまちです。
 ライフラインが復旧している家、していない家。自宅、マンション、避難所、旅行先から戻れない、地方に疎開した、家は無事だけど2km先は瓦礫の山……。
 いろんな環境にいる生徒達のメールは正直な言葉で綴られている。
 自宅のライフラインが回復していないのに、翌日から近所の小学校にボランティアに出かける生徒。ひたすらお風呂に入れないことを気にしている生徒。
 電気が復旧したので1日中TVを見て退屈している生徒。本当に様々です。
 今回の地震の捉え方は生徒によって本当に違っている。
 捉え方も大事だけれど、それ以前に生徒自身がこの震災にまずは「向き合う」ことが大事だという話が印象深かった。

 逆に先生から、「どうしてボランティアの人達はわざわざ東北を助けに来てくれるのか?」という直球の質問をされた。
 受け入れられるか心配だったけれど、被災しなかった人が感じている「罪悪感」と「贖罪」の話をした。
 健全な精神の発想。と言われてちょっと驚いた。
 先生の終電時間ギリギリまで飲んだあと、この日はおとなしく宿に戻って就寝。
 充実した時間でした。

6/18(土)
 あの震災から丁度100日目にあたります。
 この日は各地で慰霊祭や法要が行われていました。
 また、警察・自衛隊による100日目の集中捜索が実施され、新たにご遺体も何体か発見されました。

 慰霊祭のために朝から石巻市へ。
 まずは慰霊祭の会場である石巻総合運動公園に向かいます。
 運動公園近辺の工業用地として開発された空き地には、仮設住宅が続々と建設されていました。

 特設テントに設けられた会場には喪服姿の遺族の方、また家族が行方不明者のままだけれど、気持ちの整理のために私服で来られた方、ここもまた、ひとまとめにはできない、いろんな事情をもった方々が参列している。

 松本防災対策大臣(当時の役職)が総理代理で追悼の辞。
 あんたそこで政府総力を挙げて国難に向かっていくことを約束したんじゃなかったのか
と!復興対策特命担当大臣に就任してからの言動を見て複雑な思いです。

 慰霊祭終了後、あまり時間がありませんでしたが石巻市内を少しだけ回ってきました。
 石巻市は去年9月に観光に訪ねた場所です。
 自分の知っている場所がどうなっているのかこの目で見たかった。

駅前商店街は津波の痕跡は残っていますが、復旧が進んでいました。
街中にあった石ノ森先生の彫像類も無事残っている様子。

 ただ漁港周辺はやはり「臭い」が気になります。
 これから夏場に向けて、これは厳しい問題になってくるはずです。
 そういえば避難所からの要請物品リストに「虫除け・殺虫剤」が多かったことを思い出しました。

 この日は午後から次の班員への引き継ぎがあったので急いで仙台市内へ戻ります。
 仙台駅へ車で迎えに行って、そのまま宮城県庁へ。
 ガソリンの調達方法や宮城県庁での扱いなど、この段階からすでに引き継ぎ開始。
 単純な事務手続きにはじまって多賀城の案件やらetc. 新しい班員さんもモチベーションが高くて話が早い。
 すっかり遅くなったので、ホテルにもどって一緒に夕食に行くことに。

 牛タン炭焼 利休
 http://www.gnavi.co.jp/rikyu/

 新しい班員さんが仙台は初めてとのことだったので、ベタベタに牛タン(笑)
 
 ペーパーに出来ない引継ぎをしながら、みんなで楽しく飲む。
 今日初めて会って一緒に飲む人達だけど、言葉の端々に強いモチベーションを感じる。
 会話に適度に不穏当なユーモアもあり、話をしていて気持ちがいい連中。
 なんというか、いろんな意味で環境に恵まれてるなぁと思う。 

 宿に戻ってまったりしていたら、少し大きめの余震が。
 閉じ込められないようにドアを薄く開けてTVを点ける。
 仙台市内で震度4だったらしい。これ以上の事はなさそうだったけれど、念の為に防災服を着て寝ることに。

6/19(日)
 この日は移動日。仙台から三重に戻ります。
 すでに引継ぎが終了しているので晴れて自由の身です(笑)
 お天道様が高い時間に駅前に出るのは実は初めてかもしれない。
 一見被害がないようでも、良く見るとビルの壁面にクラックが入っていたり、仙台駅の壁のタイルが剥離していたり、揺れによる被害が散見されます。
 キャスター付きのバッグで歩くとよく分かるけど、歩道も少し波打ってる。

 仙台駅に到着して「ずんだ茶寮」さんでお茶をしたあと、去年の9月に旅に来た時と同じ酒屋さんで宮城県のお酒を買い漁る。
 ここで一ノ蔵さんには大きな被害がなかったことを教えてもらって少し安心。
 それから、コロプラで尋ねた松島の「松かま」さん。
 駅前店で6月からやっと再開できたお話を聞いてこれも一安心。
 豆腐かまぼこと笹かまのセットをお土産に購入。

 宮城県では沿岸部の復興と同時に観光客を呼び戻すためのキャンペーンを張っている。
 岩手県の遠野市でも、ホテルや宿は連日満室なのに、観光産業が全く駄目になってるのが悩みだという話を聞いた。

 工事関係で仕事できている人やボランティアの方は「観光にお金を落とさない」
 私もホテルに滞在中に、ボランティアのリーダーさんの「遊びに来てるんじゃないんですよ!!」という叱咤の声を何度か聞いたけれど、昼間はしっかりボランティアに従事して、夜はしっかり遊べばいいと思うんだが、なんでそんなに過剰にストイックになるのかなぁと思う。
 今回の震災でのボランティアの特徴として、ボランティアパックという貸切バスで1週間程度のツアーを組んでこられる方が多い。
 移動に時間がかかるので、県外からの日帰りボランティアが事実上不可能だからだ。
 その時に1日だけでいいので観光日を入れるとか、無償奉仕だけでなく観光産業にもプラスになる事を考えてもらえると良いと思う。

 何度も話をするけれど、一言で被災地っていうけれど、津波でまっさらになった場所あれば、すでに普通の生活に戻っている所もある。
 ひとまとめに出来ない。
 前者は行政で支援できるけれど、ライフラインには不自由していないが、お金という経済活動の血液が循環しない場所はじわじわ弱っていく。

 もし、これから被災地に仕事やボランティアで行かれる方がいたら、是非お金を使ってきて欲しいと思う。
 それと余震等のリスクを許容できるなら、できるだけ多くの人に是非東北へ観光に行って欲しい。
 遠野市で見た山々は本当に美しかった。
 もう一度、家族とプライベートで訪ねたいと思っている。(ジンギスカンも美味しかったし(笑))

 相変わらずの殴り書き&とりとめのない話になりましたが、とりあえずこれにて派遣日誌終了です。

 こんな機会を与えてくれた職場と、あと、心配をかけたけれど快く送り出してくれた家族、周囲の理解に感謝しつつ。

 それから、今回の震災で被害に遇われ、大小に関わらず大切な人や物をなくされたかた方々の心の平穏をお祈りします。
 一刻も早い時期に元通りの復興、なんていう気休めは言いません。
 ただ、あなた方の生活と心の穏やかなることを心より願っています。

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 いやぁ、テキストが若いですねw

 さておき、わざわざ8年前のテキストを探し出して公開したのは、災害時の行政のスキームを少しでも知っていただきたと考えたからです。
 ニュース等でセンセーショナルに切り取られた情報、SNSで発せられる個々のミクロな事情、それらももちろん重要ですが、それに加えてこういったシステムの動きの一部だけでも知っていただくことが、みなさんの安心に少しでもつながれば嬉しく思います。

 悲しい記憶や悲惨な思い出は、風化させても良いし、大切に心に残しても良い。
 それは1人1人が自分の思いで決めればいいことです。
 でも、悲惨な経験から得られた教訓や災害対応のノウハウは、忘れずにつなげていかなければいけない。
 東日本大震災から8年たった今、私はそう考えています。

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