表現とことばの向こう側 #表現とこころ賞
多分僕は「表現」というものをとても身近に感じている。
それは文章や絵、音楽、映画だけとは考えていない。
日常の会話など、特に「ことば」に表現というものを感じている。
15歳からギターを弾いている。
元々僕は音楽が嫌いだった。
それは学校教育における音楽が嫌いということだ。
ポップスやロックと呼ばれる自由な音楽に出会った僕はとても心惹かれた。
僕は今日まで15年ほどギターを弾いているが、今でも自分をリスナーだと認識している。
元々リスナーから始まったというのもあるし、今でもいろんな表現の音楽を聴くことが好きだ。だから僕自身はプレイヤーではなくあくまでリスナーだと解釈している。
昨年はデザイナーを名乗って活動した期間があった。
同時に、その頃の僕をアーティストと表現する人とも出会った。
アーティストとデザイナーというよくある議論をするつもりはない。
ただ僕自身はデザイナーということばがとても好きだ。
先日出会った男性がこんなことを言っていた。
「売れたらデザイナー。売れないとアーティスト。」
まぁ偏った意見だと思うから決して同意はしない。
だがここに着想のヒントがあった。
「売れる」ということば。
かなり偏った表現なのでこれを分解して、定義づける
【売れる=多くの人に届く】
とする。
では届けるとはなんなのか。
今回はそんな話をしようと思う。
表現とは?
僕は表現というのは誰かに伝えたいという意思のようなものだと考えている。
自分の気持ちや感情。
知識や学び。
音楽や絵画などの芸術。
そのすべてに自分、概念、モノ、他者などを知って欲しいという感情が発露であると考えている。
僕は働くことも表現とつながっていると思っている。
例えば物を売るという行為。
これは自分を通して、価値やモノを提供する行為だ。
だから僕は売るという行為も表現の1つであると考える。
このように僕は表現ということばをかなり大きく捉えている、
あなたが気持ちを伝えれば表現だし、
あなたが何かを紙に書けばそれも表現だ。
ことばについて
僕はカウンセリングの仕事をしている。
ことばがとても身近な職業だ。
相手の話を聞くことも、
自らのことばを投げかけることも。
全てに注意がいく。
なので、日常でもことばが大変気にかかる。
接客、会話、メール、SNS・・・
世界はことばでできている。
心ないことばを投げかけられ、傷つくこともある。
何気ない一言で心が癒され涙することもある。
僕はそうやってことばを身近に思い、大切にしようとしている。
表現とことばの向こう側
表現とことばは常に手を取り合っている。
僕たちは自分の意思を伝えるためにことばを生み出した。
そしてやりとりを重ねるうちに、そのやりとりにすらことばをつけた。
それが表現だ。
最初に音楽の話をした。
音楽とはどこまで行っても聴く人のものだと思う。
決して、作る側のエゴを押し付けてはならないと考えている。
悲しいかな表現とは、自分が世界に発した瞬間に自分だけのものではなくなる。
ことばも同じだ。
あなたの口から出た途端。
あなたが何かに書いた途端。
そのことばは自分だけのモノではなくなる。
その上、言った、書いたという責任だけはあなたの元に残る。
これは芸術も一緒。
僕にとっての「ことば」と「表現」はある種の残酷さを孕んでいる。
でも僕は決してことばで表現することをやめない。
なぜならこれまで僕はたくさんの「ことば」と「表現」に助けられたから。
たくさんのことばに救われて、
たくさんの表現を重ねて、
僕は人のぬくもりを知った。
そして僕自身もたくさんのことばと表現を通して人に触れ合った。
周りには表現を諦めた人がたくさんいる。
でも僕は諦めない。
表現とことばの可能性をどこまでも信じているから。
自分のペースでいい。
表現とは関わることだから。
無理しなくていい。
ことばとはとても温かく、でも激しいものだから。
居心地のいい表現。
素直なことば。
そんな当たり前のことを心がけていきたいと思う。
なぜか。
その表現の向こう側にある「こころ」を僕は知りたいから。
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