映画「窓ぎわのトットちゃん」について(その2)ネタバレあり

映画「窓ぎわのトットちゃん」について(その2)を書きました。
ネタバレ満載ですので、映画未見の方はお気をつけください。
その1はこちら

小林先生の涙

この映画で小林先生は涙を見せないが、泣いているのではないかと思われる場面はある。
ひとつは「この学校の先生になる」というトットちゃんを抱きしめるところ、もうひとつは、トットちゃんたちが他の学校の生徒と争いをおこして
「トモエ学園、いい学校!」
という歌う声が聞こえてくる場面である。
小林先生は、映画で描かれる他の学校の生徒とトットちゃんたちのやりとりをどこまで見ていたのだろうか。

争いの場面

この映画で人と人との争いが直接的に描かれるのはこの場面だけである。
「ボロ学校、変なことばっかりやってる学校で、生徒がどんどん減っている」と言われ、言い合いのうちに事態は緊迫の局面(笑)を迎え、トットちゃんに投げつけられた石を泰明ちゃんは身をもってかばう。
いざ、トモエ学園側も拳を振り上げ、すわ喧嘩になろうかという時に、他の女子が「暴力はダメ」のようなことを言い、
トットちゃんが「トモエ学園、いい学校」の歌を歌い出すのだ。

これは、明らかに戦争の暗示だろう。
(原作にもこの歌を歌う場面はあるが、他の学校の生徒と対峙して喧嘩になりそうになるわけではない。)
暴力に対して、拳を振り上げることを否定し、特にトモエ学園にとって文化の象徴とも言える歌で押し返す。
あろうことか、この映画ではトットちゃんたちは、歌を歌いながらスクラムを組んで他の学校の生徒たちに向かって行くのだ。
それは昭和の学生運動を明らかに彷彿とさせ、いかさかやりすぎ感さえある。

表象のねじれ

一方で、この場面での他校の生徒の服装は、灰色や茶色でみるからに粗末であり、色とりどりでお洒落なトモエ学園の生徒たちの服装と明らかに視覚的に対比されている。
トットちゃんの日々の生活風景でもそれが描かれるが、トモエ学園の生徒は実際にも富裕層が多かったようだ。
(原作によると、同級生には東郷元帥を大叔父に持つ子もいたという)

この場面は、観客からみると表象と意味がねじれを起こしている。
観客は、貧しいものがお金持ちに打ち勝つ物語を期待するもので、その逆ではない。
この映画は、原作の多くのエピソードからなぜこれを選び、ふくらませたのか。

なぜスクラムを組むのか

この映画でトットちゃんのパパは、気の毒なほど無力だ。
軍歌の演奏を拒否はしてみるものの、自分の犬さえも守ることはできず、結局は戦争にいって人を殺すことになってしまう。
ヒヨコの死は予見できても、それに対してはなにもできない。

その姿は、スクラムを組んだ昭和の学生運動が「大学に行ける」という意味での比較的富裕な階級が主体であったこと、その結果も徒労であったことを思わせ、結局は他国での戦争の結果も享受しながら成長した戦後日本も連想させる。

その後の歴史を知る現代の私たちから見ると、トットちゃん達の組むスクラムの意味は明白であり、それは金持ちインテリの幻想の産物であって、それ故に無残に失敗してしまう運動に他ならない。

小林先生の眼

燃え上がるトモエ学園の前に立つ小林先生の瞳は燃え盛る炎を映してのことだろうか。赤く縁取られて、私には仁王の眼のように見える。
現代の私たちを睨みつけているようにも。
理想の無為を知りながら、子どもたちの前に立つ小林先生の涙は本当はなにを意味していたのだろうか。

この映画にはインテリが演奏するバイオリンの他にも音楽が登場する。
ちんどん屋は、インテリの社会から見ればはぐれものであり、
河原者の衣鉢を継ぐものであり、
リトミックのように、歩きながら、踊りながら、音楽を奏でるものたちである。

そして、お金持ちのインテリ家庭に育ち、トモエ学園の薫陶をうけたトットちゃんは、我々がよく知るようにそのちんどん屋の道を歩んでいくのだ。
黒柳徹子さんは、
「私、大きくなったら、この学校の先生に、なってあげる。必ず」
という小林先生との約束を果たしたと私は思う。