映画「窓ぎわのトットちゃんについて」(ネタバレあり)

映画の「窓ぎわのトットちゃん」について書きました。
(注意)
ネタバレ満載ですので、既に見られた方か、ネタバレを気にしない方向けです。
特にアニオリ要素に言及していますので、映画未見だけど原作既読です!という方もお気をつけください。



国民服の男

国民服を着た兵隊さんと思しき人物がトットちゃんたちを注意する場面が好きだ。
彼の顔は、はっきりとは描かれない。
彼は、トットちゃんたちを立ったまま怒鳴りつけるわけではなく、ひざまずいてトットちゃんたちの目線になって話す。
どうやらお腹を空かせているようでもある。

この映画では盛んに戦時国債の広告が描かれるが、原作には戦時国債への言及はない。
顔のない彼も、戦時国債を買って国家とその戦争に貢献したことだろう。

トモエ学園の屋根に飾られているローマ風の胸像は、途中から二宮金次郎に変ってしまう。
これも原作にはない表現だが、見ようによっては極めて苛烈な表現である。

どちらも、戦争がただ為政者の専横や外部から来たものだけによって遂行されたわけではないというごく当たり前のことを語っているのだろう。
顔がない彼は私たち国民そのものかもしれない。

再び立ち上がるということ

この映画で印象的なのは、燃える校舎を前に
「今度は、どんな学校、作ろうか?」
と小林先生が言うところである。
同じ学校の再建を宣言するのではない。
小林先生の手もまた血に汚れているし、そんなことは小林先生は百も承知だろう。

軍歌を演奏することを拒否するのもまた道の一つではあるけど、だからといって戦争に参加することを逃れられるわけではない。
この映画では、トットちゃんの父が軍服を来た家族写真を映すことで父の出征が示される。
そして、ただ切符を切っているだけで何もしていない優しい駅員さんも、それから逃れることはできない。
原作にも「駅のおじさん」は登場するが、原作で出征するのはトモエ学園で用務員をしていた「良ちゃん」である。
この映画はなぜ駅員さんに変えているのか。

「今度は、どんな学校、作ろうか?」

汚れた手をなかったことにはできないが、
手が汚れていても、足が不自由でも、
手についた血を拭い去ることはできなくても、足が「健康」に治らなくても、
それでもまた立ち上がり、木に登ることができる。
というのが、この映画が訴えたいことだと思う。

ゲ謎での描き方とはまた異なる点でもあるだろう。
「大石先生が」高橋くんに大根を渡すのもアニオリである。汚れてしまった手でも、大根を差し出すことはできる。
手を汚してしまっても、明け方にやってくる電車の図書室を作ることはできるし、誰のなかにも、罪を犯してしまった人のなかにも、知はあり、知は育てることができる。

だから、小林先生は、
ガスマスクをした子どもたちの間を駆け抜け、電車を追い越して、
「私、大きくなったら、この学校の先生に、なってあげる。必ず」
というトットちゃんを抱きしめるのだ。

この映画を見た人に聞きたいと思う。
「大石先生が過ちを犯したという理由で、大石先生を死刑にしますか?」