ひとりで幼稚園(3)ドラゴン怒りの金槌
幼稚園に通った記憶はもうほとんど残っていない。というより、かなり早い時期から幼稚園の記憶は断片的であった。なんでなのだろう。今まで考えたこともなかった。小学校以降の記憶も断片的ではあるが、数十秒続く短いエピソードをいくつも覚えているのだけれど。
たとえば、小学校のときの、思い出せる限り古い記憶は、二年生の時に担任の女教師に、左手に金槌を括り付けられたことだ。この記憶は数十秒も続かないが、それでも、前後の記憶を併せて一連の思い出として記憶に残っている。
教師の名前は忘れてしまったが、大柄なたぶん四十代の女教師だった。小学生だったので、三十代も四十代も区別がつかなかったが、少なくとも大学を出たての若い教師でも定年間近の五十代の教師でもなかったことは間違いない。なにかをするのにひとりで判断する自信に満ち溢れているが、二十代のように無謀というわけではない、かといって子供の個性をすべて許容できるほど老成してもいない。でなければ、あんなことをするはずもなかっただろうし、実際子供心にもそれはかなりのショックだったはずで、だから覚えているわけなのである。
実はわたしは左利きである。明治生まれの祖父はかなり気にしていたようだが、両親はそれを無理に矯正しようとはしなかった。そういうところがやはり父は教育者なのだと思う。ただ、たまたま隣の家で書道教室が開かれていたこともあり、わたしは幼稚園の頃から書道をさせられていた。
言うまでもなく、書道は右手でするものである。左手でも書道ができないことはないが、トメ、ハネといった筆の使い方は、左手ではできない。逆向きに筆を動かすとかなり奇妙な書になってしまうし、きちんと筆順に従うにしても右手と左手では支点の位置が違うので、微妙な墨の濃淡に違いが出てしまって、やはりまともな書には見えなくなる。
大阪にいるとき、書道部の学生に誘われて書道展を見に行ったことがあるが、そのときわざと左手で書いてその効果を狙ったという書を見せられて、興味深いというよりは不快感が先に立ち、後を見る気をなくして帰ってきたことがあった。
もちろん、それは興味深い実験だったかもしれないのだし、それがわからないわけでもなかったのだが、左利きであるということが一種の障害であり、右利きの人がわざわざ左手で書くということで差別を助長するかもしれない、ということに思い至らない人間が書いた書は、ひたすら不快であった。
というのも、それは書の体裁をなしていなかったからだ。少なくともわたしにはそう思えたのである。左手しか使えない自分が馬鹿にされているとしか思えなかったのである。左利きの人間がみたらそう思うだろうという想像力に欠けた人間が、それを書き、しかもそれを公開していることに無性に腹が立ったのだった。
誰だってきれいな字が書きたいと思う。だから書道を習う。それが自然ではないか。きれいな書に飽きたなら、右手できれいじゃない書を書けばいいだけのこと。結局、怒って帰ってきてしまったので、その作者には会わずじまいだったが、今思い返しても腹が立つ。お前に書を語る資格はない、と面と向かって言ってやりたい(実際には小心者なので絶対に言えない)。
ちなみに、わたしは今でも、少し大きな字を書くときには無意識のうちに右手に筆記用具を握ってしまうことがある。実際にも、大きな字であれば、左手で書くよりもよっぽど上手に書けた(経験から言うと、どうも大きな字と細かい字を動かす神経は異なるようである)。だから、書道が嫌いということは全くなくて、『とめはねっ! 鈴里高校書道部』だって愛読していたのである。
とはいえ、内容がわかればいいだけなら、別に書道なんて習う必要はない。わたしも左手で書くことになんの不都合も感じたことはなかった。思いっきり下手くそだったが、右手で書いてもわたしより下手な人間はまわりにいくらでもいた。左手で書いたから読めないなんてことはまったくなかった。識別記号としての役割は立派に果たしていた(と思う)。
だが小学二年生のときの担任は、そうは思わなかったようだ。新学期早々、わたしの左手の矯正を始めたのだった。一年生のときにはなかったことだった。一年の担任は、母の女学校時代の同級生と大学で友人だったということで(なぜか突然向こうから打ち明けられて母は驚いたという)、母の意向に反することはしたくなかったのだろう。あるいは、彼女は戦後の教育を受けた(母と同い年なら終戦時に九歳)が、おそらく二年の担任は戦前の教育を受けた(四十歳なら終戦時には二十歳)ということだったのかもしれない。
両親の意向はまったく無視されたようで、毎日毎日右手の練習をさせられたのだろうと思うが、実はそのあたりは覚えていない。今でもはっきり記憶しているのは、どうしてもわたしが左手を使うことを止めないことにしびれを切らした担任が、わたしの左手に、全体が鉄でできたタイプの金槌をひもでぐるぐる巻きにして括り付けたのである。さすがに小学二年生の腕に鉄の金槌は重すぎて、鉛筆をもつことは不可能だった。担任の思惑は成功したが、これはどうみても児童虐待そのものだった。
ここから後ももう記憶はないのだが、おぼろげに、父まで登場して教育委員会まで話がいき、以来、女教師は、二度とわたしの利き手に関して、なにかすることはなかったのは覚えている。今だったら担任も代えられていたのではないかと思うが、二年生の途中で担任が代わった記憶はないし、利き手のこと以外では、やさしい先生だったし人気もあったから、わたしもさほど気にしてはいなかったような気がする。
それでも、さすがに金槌はやり過ぎだと感じたから、いまだにあの瞬間の、怒りに顔が引きつっている担任の顔と、動かせない左手がセットで思い出されるのだろう。死ぬまで忘れないであろう記憶のひとつとして。