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『旅の効用』

ながさごだいすけ

旅行記を探しているうちに、だんだん目的が曖昧になってきた。といっても、そもそもの初めから、なんでそういう話になったのか自分でもよくわからないのだから、当然といえば当然であった。

最近読んだペール・アンデションの『旅の効用』という本のまえがきには、「人類が書き記した古代の本はどれも旅日記だ」と書かれていた。それは極端にしても、旅のことを書いた本は古来、枚挙にいとまがないのである。

旅行記が好きなのは別に今に始まったことではないので、これまでにも旅行記の類は、それこそ腐るほど読んできたような気がするのだが、今回改めて「旅行記」のことを考えると、意外に主要な旅行記をほとんど読んでいないことに気がついた、というか読んでいないような気がした。

なんとなくやっていることなので、いちいち目的を文章にしたりはしないから、なぜ今更のように集中的に旅行記を探しているのか、自分でもよくわらないのだが、ひとつだけハッキリしているのは、それが自分自身の旅行記を書く参考のためだということである。

別に旅行記の総説を書く必然性はどこにもないのだが、旅行記を書く前には総説を書けるだけの資料を収集する、というのは自然科学系(たぶん文系も一緒だろうが、専門外なのでわからない)の論文づくりの定石なのである。

論文にはもちろん自分のオリジナルデータが必要だが、それだけでは論文にならない。論文を書こうと思いたったら、まずはその分野の先行研究を網羅的に収集して、オリジナルのデータを出す余地を探しつつ、先行研究を系統立ててまとめあげる。まとめあげた部分だけを総説として発表する研究者もいるが、そうでなくても、オリジナルのデータを発表する際に、これまでの研究の歴史をイントロダクションを書くのに使い、さらにオリジナルのデータのユニークさを強調するためにディスカッションでもう一度使う。

研究者は、ときどき自発的にあるいは要請されて未開拓の分野に挑戦する(させられる)ことがあるのだが、そういう場合にも、最初にするのは先行研究の網羅的な収集である。テーマを絞り込めないときには、かなり広い範囲で文献を探すこともある。

おそらく、わたしが今やっているのは、そういうことなのだと思う。昔から旅行記の類はけっこう好きで、たとえば中学生のころにはトール・ヘイエルダールの『コン・ティキ号探検記』や『アク・アク』を読んだ記憶があるが、旅行記と意識して系統的に読んだことは一度もなかったから、いまさらのように旅行記を書くと思い立った時に、なにかよりどころのようなものを必要としたのだろう(無意識なので想像するしかない)。具体的にある土地のことを書くために必要な旅行ガイドのようなものも探したが、その手のものは今はネットで検索するほうがよさそうに思えたので、そのままになっている。

もっとも、そういう動機があると推察されるとはいえ、別に学問をやっているわけではなく、総説を書くつもりもないから、収集は行き当たりばったりだし、最初に書いたように、人類の書いた文書のかなり部分が旅行記に属するとあっては、その網羅的な収集などはなから諦めるほかないのであった。

実際のところ、わたしの経験を書くのだから、欧州に留学した人の手記がもっとも参考になると思ったが、正直に言えば、いろいろ読んでいるうちにだんだん気分が暗くなってきて、読むのが苦痛になってきたのである。買うんじゃなかったと思った本さえあった。そういうときは、わたしの理解力が足りないからだと考えることにしているのだが、この歳で足りないということは、たぶん永遠に追いつけないのだろう。そういうものは世の中にいくらでもある。

もっとも、参考にという意味では、ティファンヌ・リヴィエールの『博論日記』というバンド・デシネが、最近読んだ中ではもっとも面白く、またもっとも身につまされた。舞台はパリで主人公は文系の博士課程の学生である。自然科学とは違うが、人間関係に結構共通する部分が多くて、他人事とは思えなかった。でもこの本はさすがに旅行記とはいえないだろう。

(失われた旅行記を求めてVI)


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