人間じゃ。

介護の仕事をやってきて、つくづく思うことがある。

「人を人として見ないと、変なことになる」と。

たとえばヘルパーやケアマネジャーの研修とかでも
「病気や障がいだけでなく、『全人的』にその人を見なさい」
みたいに教えられてきた。
「ノーマライゼーション」という考えも、20数年前に教わった。

20代の頃、「全人的」って、どういうことだろうなあ??
と首をひねってた。

たとえば、認知症についての知識を勉強すればするほど
「自分は認知症について知ってる」という「自分」の部分が大きくなって
だんだんと相手(人)を見なくなっていくって、あると思うのね。

教科書に載っている「事例」「症状」「対応方法」を
そのまま当てはめてもうまくいかないことも多いし
それを相手に合わせてアレンジしていくのが
人を相手にする仕事のクリエイティブな部分とも思うし。

これは自戒も込めて・・

認知症を患っていても、その人は「認知症だけの人」ではないし
発達障害の診断を受けても、その人は「発達障害だけの人」ではない。

個性、特性、いろいろな言い方はあると思うけど
「ただ、人間」。

こう言っていて「当たり前だろ」って笑ってしまうくらい普通のことが
実は街で体現されていないことが、多様性を掲げないといけない理由。

関西人でも、面白い人とそうでない人がいる。

茨城の人でも納豆が大嫌いな人もいる(笑)

「この人は、この状態だからこうだろうな」
というラベルを貼るのは、なんでだろう?

偏見は無知なり。
自分もいろいろ偏見を持っているから、まだまだ無知なんだろう。

個人的には、知識は入れれば入れるほど
意識的に、ある意味「手放して」いくぐらいがちょうどいいと思う。

知識にしがみつけば、「人」を「人として」見られなくなりがち。
人間、人間。
みんな違う、個体。

どこまでいっても、人間。

介護も、子育ても、会社のチーム作りも
教科書通りにはいかない。
いかないんだけど、何か参考になるものが欲しい。
何か、相手の助けになる方法が欲しい。
だから、勉強する。
勉強すると、それにかけた時間とか労力もあるから
無駄にしたくない、としがみつきたくなる。
しがみつくと、人が見えなくなることがある。
自分は、相手を人間として見たい。

だから、知識を手放す(そんな無いけど)。

本当に理解した知識は、身体に沁み込んでるから
手放したって、安心だ。


どうして自分は多様性とか言い出したんだっけ??と
ふと思って、少し書いてみました(ಠ ਊ ಠ)

…痛風が「贅沢病」という偏見も
ぜひ、なくなってほしい( ・ั﹏・ั)



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