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よりどころがあると弱いかもしれない

興味深い話を聞きました。

相対した人が学歴を鼻にかけるタイプだった。
そしてそれに対して「この分野での経験年数は圧倒的に自分が上なのだから話を聞いてくれればいいのに」と感じた、と。

どこでも良くある話です。
自衛官の中での防大卒とたたき上げの軋轢、なんて物語を読んだことがありますし、警察でも現場と会議室、なんてドラマありましたね。

その設定はさておき、これを聞いて感じたことがあるのです。

学歴とは「偏差値」という数値です。経験年数もそれにかけてきた「時間」という数値です。
どちらも自分のよりどころがあり、それが数値なのです。

自分の自信、プライド、つまり心のよりどころが数値、なのです。
これが「資格」の人もいると思います。
なんでもよいのですが、心のよりどころが物理的ナニカである、ということはもしかして脆く弱いことなのではないかもしれない、という仮説をもちました。

だって自分のよりどころのそれを人と比較して自分の方が上か下かを考えるのですから。数値というのは大小がある以上、必ず優劣がつきます。ついてしまいます。
だれかと比較して自分の優劣を考える時点で随分自分自身には自信がありません。

この話を聞いた一番最初に浮かんだのは歌でした。

『ライオン狩りにいこうよ~』ってあれ。(ちなみにこの歌地域によって時代によって違うらしいです。これは私のいた地域の私の時代(早45年前笑)の歌詞←うろ覚え)

ライオン狩りにいこーよ。
こわーくなんかなーいさ。
槍だってもってるもーん。
鉄砲だってもってるもーん。
出典不明童謡

怖くない理由は「槍」と「鉄砲」という物理的武器があるから、です。
つまりホントは怖いし、武器がなければ負けている、という認識です。

学歴も経験年数も資格も、つまり「武器」です。
ライオンと戦うわけでもないのに、人と相対するだけなのに「武器というよりどころ」がいる、とはなんて脆くて弱いことなのか、と感じました。
ちなみにこれは人の話ではなく、私自身を振り返っても同じです。
自分の経験だったり資格だったり、私はいくつもの武器を持ち生きているのです。
私は、私自身に何の価値も感じていない、ということなのかもしれません。

ちょっと愕然とします。

武器を持たなければならないほど自分に自信がなく、この世を、人を怖く感じているのかと思うとションボリです。

ただの私、では人に愛されない、受け入れられないと感じているということは、ただの私を、私自身が愛しておらず、受け入れていない、のです。

そりゃあ人を見る時にも、物理的ナニカを見て比べますよね。
そして自分の方が上か下かでマウントを取り合うのです。
なんかもう決して仲良くなれる気がしません。

よりどころがあると、よりどころが物理的ナニカだと、この世界線から抜け出せない気がします。
そんなわけで、私はこれから「ただの私」を愛し、受け入れる模索をしてみようかなと思います。
ナニカができるから自分を愛し、受け入れるのではなく、できない自分もできる自分も同じように愛し、受け入れる。
これが当たり前にできるようになったら、随分心穏やかに人に向き合えるのではないかと考えました。

よりどころが自分自身であったら、もっと心穏やかに生きられるかもしれません。

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