代々木ゼミナールの思い出

 その昔、中国には「科挙」という、とんでもなく難しい試験があった。「科挙」は官僚を採用する試験で、身分や出自を問わず誰にでもチャンスがあるという、当時の世界では非常に珍しい制度だった。

 合格すると貴族みたいな生活が待っている。「庶民の家に生まれた時点でノーチャンス」が当たり前な世界で、ペーパーテストで一発逆転が狙えるというのは夢のある話だ。それだけに夢を求めてみんな勉強するから、何度受けても全然受からないのが普通だ。

 一時は倍率が3000倍を超えることもあった。今でいうと「M-1グランプリ」で2位以内に入るのが同じぐらいの倍率だ。毎年受け続けても受からないというのも無理はない。

 結果、「科挙浪人」が大量発生したそうだ。合格する平均年齢が36歳。中には爺さんになるまで浪人を続け、そのまま人生を終えることも珍しくなかった。


 そんな時代、「科挙の勉強をひたすら続けて老人になってしまった男のもとに、突然やたら美しい女性が現れて一夜をともにする」系の悲しすぎるフィクションが大量に作られたらしい。

 俺はこの話がたまらなく好きだ。勉強ばかり続けて輝かしい青春時代もなく棒に振ってしまった人生の終わりに、なぜか美女が都合よく現れたっていいじゃないか。それぐらい願ってもいいじゃないか。

 彼らの子孫は現在の地球には存在しないと思うが、21世紀の日本の片隅で、俺は「偉大なる先輩方」の冥福を心から祈っている。

 ねぇ先輩、そっちには夢で見たような、都合の良い美女はいるかい? いてもどう接していいか分からないって? そうかい……。

 新海誠監督の映画は普通に観ても最高だが、「そういう科挙浪人の夢」だと思って見るともっとラブリーだ。

 「今から晴れるよ!」って雲を退散させる女の子が横にいるのを夢に見ながら、雨の日に独りで外を眺めていた寂しい浪人生が地球にいたのだと考えると、俺たちは決して孤独じゃない気がしてこないか?

 「夢の庭には花が満開さ」 (『素晴らしき哉、人生!』)

 科挙浪人ほど悲惨ではないが、俺も1年間、浪人を経験した。

 高3のときに受けた大学は全部落ちて、なにもかもスムーズに浪人生活に入った。兄貴が2人とも浪人していたから俺は全然何とも思わなかったが、普通は結構悩むものらしい。

 世の親御さんにはナイショだが、機会があったら1年ぐらい浪人しておくのは結構オススメだ。同級生たちが楽しそうに「チャイ語」(「中国語」という意味らしい)とか「コンパ」とか意味のわからんヘブライ語で会話してる中、学生なのか無職なのか曖昧な身分で1年間過ごすのはなんていうか非常にポップだ。

 プレッシャーと憂鬱と劣等感と背徳感の中で、よく晴れた青空の日に全てを放り出してボーっと流れる雲を見てるときの気持ちは筆舌に尽くしがたいし、数式と古典文法とターゲット1900と日本史用語がグチャグチャに混ざりあった脳を冷やしながら暮れなずむビル群を眺めて頭から足の指先まで全身が夜と溶けていく感覚もドープで良い。きっと忘れられない1年になるぜ。

 もうなにもかもが嫌になって夜中、高校の体操服を着て10km先の駅前まで自転車で走った帰り道、夜空を眺めながら草むらで立ちションしていたら警察に見つかってしばらくお話をした。

 夜の新宿中央公園で野球をやろうとして、3人しか集まらなかった。

 国会図書館まで歩いて行って、国会図書館から歩いて帰ってきた。

 みんなで手作りのトランプを作って、一度も使わなかった。

 模試の数学で0点を取って大層びっくりした。

 勉強した記憶はほとんど無いが、クソみたいな思い出がたくさん増えた。浪人生というのはちょっとおかしくなってるから、後で考えると意味のわからない行動を取ってしまいがちだ。

 よくゲームで「お前さっきから何してんの?」という行動を取ってるNPCがいるが、あれは浪人生なんだと思う。やさしくしてやってくれ。

 俺が浪人していたのは「代々木ゼミナール」という予備校で、「三大予備校」と呼ばれる一角だった。「駿台」と「河合塾」がもう二つだ。

 暇だったから近所の河合塾に遊びに行ったときに、「授業前に全員が座っている」ことにびっくりした。代ゼミでは授業前に座ってる方がレアだったのだ。

 センター試験の翌日に自習室に行ったら入口の前で「花いちもんめ」をやってる集団がいたぐらいふざけた予備校である。俺は大好きだったが、真剣に勉強をしたい人にとっては嫌だっただろうな。

 当時は有名な「二浪の人」がいて、俺が高校生の頃から「二浪」だったから実際には三浪だったんだと思う。その「二浪の人」が敬語で話しかけてる浪人生がいたから、おそらく四年生がいたことになる。あの人はどうなったのだろう。「さすがに医学部を目指してるのでは」という説があったが、年数から言ってるだけの憶測だった。

 代ゼミの自習室に入るには「学生証」が必要なのだが忘れるときもある。そういうときは事務室に寄って「学籍番号」と「名前」「生年月日」を所定の紙に書いて渡すと、照合して仮の学生証を発行してもらえる。

 あるとき、学生証を忘れて事務室に寄った。受付はものすごく綺麗なお姉さんだ。浪人生活が始まってから数ヶ月、異性と一言も会話してないからそれだけでドキドキである。

 「が、学生証を忘れてしまったんですが」

 「そしたらこの紙に学籍番号と名前と生年月日を書いてもらえますか?」

 うぉぉぉ、刺激的だぜ〜。久しぶりに異性と会話しちまったよ。学生証忘れてよかった〜。必要事項を記入してお姉さんに渡す。

 「じゃあ照合してきますね!」

 うぉぉぉ、刺激的だぜ〜。照合しちゃってくれ。ついでに夜の学生証も発行しちゃうかい? ええ? まったく。

 そうこうしてるとお姉さんが帰ってきた。なぜか満面の笑みだ。可愛いなあ。

 「俺さん誕生日、8月13日なんですね!」

 「え? は、はい。そうです」

 「私も8月13日なんですよ〜!」

 「!!!!」

 突如、まったく想定してなかった発言が飛び出してきた。
 それがどうしたんだよ。いや、ちょっと待て。せっかくお姉さんが用意してくれた雑談だぞ。なんか気の利いた一言は無いか!?
 誕生日が同じ? なんて返せばいいの??
 テンパりまくった俺は、こう返答するので精一杯だった。

 「あ、ありがとうございます」

 「??」

 ありがとうございますでは絶対ねえな! ありがとうございますってなんだよ。
 ほら、「??」ってなっちゃってるじゃねえかよ〜。なんだよぉ。

 俺は逃げるようにその場を去った。


 俺が何に感謝したのか。今でもさっぱりわからない。でもこの場合、正しい返答ってあるのか? 「ありがとうございます」でないことだけは確かだが。

 たくさんの思い出をくれた代々木ゼミナールには感謝したい。ありがとうございました。また生まれ変わっても代ゼミに入りたいぐらい大好きな母校だ。楽しかったなぁ。

 今となっては良い思い出である。

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