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その怒りは何を産み。何を失うか。

私は普段あまり怒ったりする人間ではない。
人からも言われるし、自身もそう思っているタイプの人間だ。
怒るという行為自体が生産的ではなく、基本的にはその時点に至る前になんらか解決や落とし所を探るのが大人の所作だと思っている。

ただ、全く怒らないかというとそうではない。
仕事で対価に対して見合わない行動が是正されないとき、倫理から外れていると思う時、そして子に関わる時だ。
最後のパターンはいつもその後、後悔を残す。

今日は怒ってしまった。

怒るという行為自体は、おそらく本能によってこの体と精神に実装された機能だから、それ自体をなくすことはおそらくできない。ただ、現代において怒るという行為はなんの意味があるのだろうか。
普段使わない喉と体の違和感、心を侵していく後悔と罪悪感。
逃れられない神経からのフィードバックにたいして、自身を正当化しようとするエゴが、思考のマニ車を回し始める。

この怒りは何を産み、何を失っているのだろうか。

怒る行為はとどのつまり折り合いがつかなかった果ての実力行使に過ぎない。
自身を顧みると、実のところ常に『怒り』による実力行使の発動は、対話の中の一選択肢として想定しているように思う。

『この一線を超えたら許さない。』『この提案が受け入れられなかったら、この感情は抑えられない。』『あの時の否を引き合いにこう罵ってやろう。』

こういった、ある種暴力的で、野性的な行為を選択肢として頭に想定し、一方でそれを抑えることで冷静さを得ようとしているように思う。
そして、多くの大人との会話では、その選択肢が行使されることはなく、その前段階で、相手の妥協を引き出すか、もしくは自身の妥協によって対話は収束していく。

抑えられた怒りが冷静さを産み、怒らない事で、自身の主張は妥協という形で失われている。

つまりは、妥協なのか。

大人になるための階段のひとつとして、『妥協すること』というものがある。
それは時に和と表現されたり、折衷案という名前がついたりする。これを使えるのは一つの大人の定義として、さほど間違ってはいないような気がする。

そして、子供は妥協を知らない。だから、大人の価値観との差は埋まらず、私は怒りの放出に至るのだ。おそらく。

ただ、一方で。
その妥協しない姿勢は決して悪ではない。むしろ美徳ですらあるとも私は思っている。
妥協をしない、自身の考えを主張する。それは心豊かに、一人の人間として生きる、柱になる『こだわり』を生むのではないだろうか。

そう。だからこの純粋で、妥協を知らないものに対して、本当は問うて、語って、世の理を伝えていきたいと、そう、思っているのに・・・野蛮な実力行使に至ってしまう。

怒りが放出された時、何か産んでいるだろうか?
結局何も産んではいない。対話の失敗という状況をただひっくり返しているだけだ。そしてその後に生まれる状況は、仮に対話を再開したとしても、そこに価値は産まない。

この思考に結論は出ない。結論によって生産的な自身の思考の改善も産まない。

だが、いま時点での一つ結論を置くとすれば、怒りは何も産まないということだ。対話の失敗というある種の『敗北』を感情の発出でその瞬間、一時的に吹き飛ばすだけなのだ。

そして失うのは相手の信頼。だろうか。
想像の仮定でしか結論を置けないのは、怒る行為自体は自身としては特に失うものはないからだ。
怒りは一方的に発露されるものだから、何かを失うとしたらそれは、それを受けた側におきる現象に起因するのではないだろうか。

こうなると、この怒りによって失われるもの。も、結論は出ない。

ただ、ただ、本当に無理やり失われているものを考えれば、建設的な対話の『時間』これだけは間違いなく損なわれていると言えるだろう。

金持ち喧嘩せず。形を変えれば賢い人間は喧嘩をしない。ということだろう。

俺は対話ができる人間で、やはりありたいと思う。
そしてこういう事をなんとか、子にも伝えたいとも思う。

もしかしたらただのエゴかもしれない。そして自分の思考は正解ではないかもしれない。
難しい。本当に難しいことばかりだ。諦めて怒ってしまったほうがどんなに楽か。
でも、それでも、対話をするということを最優先にしていきたい。
俺は、そうありたい。

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