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心は漂う風船のような

先日、数年勤めた会社を退職した。
退職エントリと呼ぶほどのものが書けるような大層な身分ではないが、この機会は生きていくなかで早々何度も訪れない。
今、感じたことや思ったことを書き留めておくことは、今しかできない特権だから、なんとかまだ新鮮なうちに書き留めておきたい。


2月1日。
退職した翌日の午後はよく晴れていた。
冬の乾いた空に太陽は穏やかに輝き、心地よい午後の時間がゆっくりと過ぎていた。

会社のチャット通知もない!
連絡を取られることも、取ることもない!!!
もう会社を意識することは無いのだ!!!

それは自分が想像していた以上の「違和感」を産んだ。
意識をする必要が解かれた事で、社会に、会社に所属しているという事実が、今本当になくなったのだ。

現代社会の中で、今、どこにも足がついていない。
それは風の穏やかな、冬の空に、ふわふわと飛びながらも、ただ風に流されるだけの、空に漂う風船になった様だった。

人によってはこれを「自由」と呼ぶのかもしれない。

だが、俺が感じたのは「不安」であった。


12月。
退職を明らかにしていくと、腹を割って人と話す機会が増えた。
これまで話すことがなかった仕事感の話、自分の仕事がどう思われていたのか、彼や彼女がどう思っているのか。
こういった事と向き合う中で、自分がなんのために働いているのか、ということを考えることが増えていった。

俺には社会を変えたいというような理想は無い。
成し遂げたい事、天職としたい仕事、好きでたまらない何か、仕事に対するポジティブなモチベーションを自分の中には持っていない。
お金を今よりも多く稼ぎたいということがモチベーションなのかというと、そういうことでも無い。家族を養っている以上は、生きていく上で将来に対する備えも必要だし、うまいものを食べれば一般的な人間が抱く感情として幸福も感じるから、今の生活水準を維持したいという気持ちはある。そういった義務感や、生活の安全を保ちたい本能的な気持ちを背景にして、給与水準を上げていくことの必要性は持っている。

しかし、それらは揺るぎない確固たる仕事を続ける意思とはとても呼べない。
実際、俺は働く理由なんてものは、全く持ち合わせていないのではないか。

自分が働くことで得ている趣味の時間、外出をした時に感じる幸せ、家族に与える経験や教育。
アイデンティを形作るあらゆる行為は、今の環境から選んだだけの、何にも必要とされない時間を生まないための、ただの暇潰しなのではないか。

今大切だと思っているそれらは、実は無くても困らないのではないか。

ならば、俺は、なぜ仕事をしているのか、行動原理はなんなのか。

改めて考えても、高尚な結論には思い至らない。
だが、実際に仕事をしている時に、「うれしい」とか「楽しい」と、感じる瞬間は確かにある。
その時にやる気や、エネルギーが生まれているから、そこに俺の行動原理がある。

その行動原理は、退職を決意する直前、ある種の理不尽を被る事で、身をもって体感させられ、実際に辞めたことで実感となった。

俺のうれしい、楽しいの源泉は、「誰かと何かをする」ことにあった。

人と関わり何かをすると、予想できない因果が生まれる。多くの人に影響され、自分が人に影響を与えたりする。
この動きの中で発生する自身の変化や、行動の過程に楽しさがあり、それが辿り着く結果が与える影響を成果と感じていた。
自分の力が、自分の世界だけでは成し得ない大きな事に繋がっていくことが、ひとつのモチベーションだった。
そして時を重ねるごとに、影響を受ける人や事が増え、大きくなっていき、もっと大きな楽しいや嬉しいを得るために、次の段階へ進もうとしていた。

結果、それは出来ず、それが退職につながる一つの要因となったのだが、そういった感情が、俺の中で大きいモチベーションになっているということがわかったことは、これからの数十年を進む上での一つの軸を持てた体験でもあった。
この気づきを与えてくれた会社には、反面教師的な感謝をしてもよいのかもしれない。気乗りはしないが。

しかし、その考えに至ると過程でわかった事がもう一つある。
因果がわかりやすい、「自分だけで何かをする」ということが、実は大して嬉しくもないし、楽しさも「そこそこ」止まりでしか感じられない。ということだ。
自分がなにかをして、自分のためだけに結果を得るというのは、行って帰っての一本道でしかなく、あくまで自分の行為から得た感情なので、因果が単純であり、予想も容易なのだ。
だから、そこで、今の自分の価値観で嬉しいと思えることをしても、当然、嬉しいだけだから、その結果は持続性が低く、熱をすぐに失ってしまう。
簡単にいえばしらける。

どこかに所属して仕事をする限りは、俺のモチベーションは最後まで生きると思う。
だが・・・その後はどうなんだろうか?


自分は、自分だけのために働くことに興味が無い。
この事実は、冬の空で不安と結びつき、ひとつの感情を浮かび上がらせた。
『恐怖』だ。


『もし、今家族がいなかったら、こんなに無理をして働かないだろうな。』
『もし、バイトで日銭を稼ぐような暮らしでも、困らないだろうな。』

漠然とこんなことを常日頃思っていた。
この妄想の先が、今回得た行動原理の裏側、2月1日の実感にあった。

『俺は、俺のために生きることができない。』

この退職にかかわる数週間の思考と、退職の事実を経て、俺は実感してしまったのだ。

生きる希望がない、明日死んでしまっても構わない、生き続ける毎日に喜びが無い。
こんな事を言うような人たちを理解することが出来なかった。

俺は最低でも90歳までは生きたいと思っていた。
インターネットや情報技術と一緒に育ってきた。現代のテクノロジーの発展や、文化の発達をできるだけ見届け、できる限り享受していきたいという気持ちは、生きる理由を作る、自分の中ではある種の、信仰の様なものだった。
こんなに気になる未来があるのに、なぜ明日を生きる希望も無いなんて事があるのだろうか。そういう感覚だったのだ。

だが、今回、この事を考えるにつれ、実はそういった発展を享受して自分がしたいと思っていたことや、感じたい事というのは、誰かの存在があって初めて、ブーストされて満足に足るものであり、誰とも繋がりのない、自分だけになり、自分のためだけに使うようになった時、それは空虚で価値を産まないのだと、気づいてしまったのだ。

傲慢かも知れない。だが、彼や彼女を初めて理解したように思う。
俺ひとりの今日は、すでに満たされている。
明日死んでしまっても、もう悔いはないのではないだろうか。

今はまだいい。
だが、いつか、自分のためにしか生きられない時が来てしまった時。
その時、俺は生き続けられない。

この結論が薄っすらと浮かび上がり、俺に恐怖を見せ、冬の空に消えていった。


それから10日ほどが経った。

あの日感じた、「違和感」は日々日々薄れていき、今はもうほとんど無い。
これまでの自分がそうだったから、残った人たちがなんとかやっているのだろうと、思う。

代わりに増えた家族との時間に、違和感やずれは思いのほかなさそうだ。
家庭をできる限り優先してきたこの数年が、この変化を受け止めてくれているようだ。

次の職場は決まっているが、どんな仕事をしていくかは、まだ明確にならない。
実際に働き出すまであまり考えてもしょうがないだろう。モチベーションの軸は明らかだ。ズレないように歩いていけばなんとかなるはずだと思っている。

あの午後に感じた、「不安」と「恐怖」は今も時より浮かび上がってくる。
溜まっていた家の掃除をしたり、家事をしたり、出かけたり、本を読んだり、ゲームをしたり、飯を食ったり、酒をのんだり、散歩をしてみたり、ダイエットをしてみたり。からっぽになった両手で大雑把に時間を食い荒らしながら、自分がつながっているはずの何かを確かめる。そんな日々が続いている。

人からは贅沢と言われるかもしれない。
退職して得たささやかな『自由』な時間は、良くもないし、悪くもない。

まだ、心は漂う風船のようだ。

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