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否定した未来に出会う旅。
今の自分が否定しているもの、肯定しているものというのは、
実はまったく違う意見を持っていた過去の延長線上に見つかることがある。
よかれと思って起きた事故ばっかりだ。
無自覚のナイフを振りかざしていたと気付くときの失望が一番グロテスクだから、
もう誰も傷つけたくなくて自己批判を何度もした。
そして至るのは、
「真逆だった自分がいて、それで失敗を味わったからこそ、
その苦い経験に裏付けされた哲学を持ち始める」という状態。
それは、AがBだったという理解に至るには、
A=Bという事実を"否定していた自分"期、
"肯定する自分"期、どちらも必要な時期だったということ。
そしてさらにややこしいことに、今"A=B"という事実に確信を持ったとしても、
実はそんなもん全然事実じゃなかったりして、また意見が変わることもある。
要するにもう、何が正解か分かんなくなってきた。
「誰のことも否定したくない」という言葉をスローガンかというくらい反復してきた。
でも、それについて張り切りすぎることも自意識過剰なものに思えてきた。
それは、誰も否定しないという表明をある種の免罪符のように使ったとしても、
そもそも否定する・しないということに執着する状態というのは、
否定されたくないという感情に起因する部分もあるような気がするから。
結局のところ、否定しないなんて無理。
だって今のままの自分で立ち行かなくなったときに、絶対、
それまでの"自分"と"自分と同じ意見の人たち"を否定する未来がやってくるのだから。
「否定しないなんて無理」という言葉すら
"昨日まで否定しないことを至上に考えていた自分が否定していた未来"が来たという状態である。
もう、二律背反でもダブルスタンダードでも何でもいい。
間違っているという状態にすら価値を見出したのである。
(追記:誰かが好きな趣味を否定する、というのはまた違う話だと思います。誰に何言われても好きなものは好きと言い続けたいし、理解できないからという理由で否定から入るのは良くないと思います。)
間違っていた過去があるからこそ、
「色んな角度から物事って見れるんだ」ということを知れたし、
「真逆の立場から見たら全然違ったよね」という感覚を持ち得たわけで、
回り道が最短距離になっているトリックアートを何度も見た。
だから、
「別に"間違っている状態"を目くじら立てて否定しなくていいんじゃん」
という思考に至って初めて、
「あ、これが正解不正解に執着しない状態か」ということが分かった。
アイデンティティを異論から守るために「否定しない」を理想とするのではなく、
アイデンティティを確立するために「否定すら受け入れる」(非を認める)というスタンス。
(もちろん、明らかに自分や周りが被害を受ける状況においては、防御として否定しなきゃいけない)
いつのまにか大人になっちまった。
脱皮を繰り返したとも、年輪が増えたとも言える人生。
年が明けるとどんな一年にしたいか考えるけど、
「寛容」をテーマにしよう、となんだかんだ毎年思う。
それは毎年春ごろにはそんなことを忘れて、
でもずっと大事にしなきゃいけないことだよなと思い出すから。
気付けば凝り固まる自分が何度も通用しなくなるから。
無意識下にある様々なジャッジメントにがんじがらめになってしまった私は、
"何かの結論"に期待することをやめた。
現時点で正しいかどうかは過程の話であって、
結論ではないからだ。
自分、そして他者も未だに"未完成である"という前提であれば、
正解不正解に振り分けられる清潔な世界から解き放たれて、
不潔で健康的な生活が送れるかもしれない。
だってそんな簡単に見つからないでしょう、本当の自分。