洪大容著 夫馬進訳『乾浄筆譚―朝鮮燕行使の北京筆談録』(東洋文庫、2017)

 この本はとにかくめちゃくちゃおもしろいのである。こんなおもしろい本が世にあまり知られていないのはあまりにも惜しい。絶対読んでほしい。とにかくおもしろいから、という気持ちで感想文を書く。

 これは、朝鮮時代後期である1766年に、知識人である洪大容(ホンテヨン)が清への朝貢使節の一員として中国の北京へ赴き、そこで中国人知識人と交流した記録である。
 洪大容は所謂「実学派」「北学派」と呼ばれる朝鮮後期の革新的知識人の一人として名高い。「実学派」とは儒教の教義論争とあいまった過酷な政争に明け暮れる宮廷から距離を置き、西洋の科学や清朝の新しい学問を取り入れることを提案した人々である。ドラマ「トキメキ☆成均館スキャンダル」に先生として登場していた丁若鏞もその一人である。
 1766年とはどんな時代であるか。中国は満州人の清王朝に支配されて既に100年以上経っていた。朝鮮王朝も1637年の丙子の乱で当時の朝鮮王・仁祖が清に服属を誓わされて以降清に朝貢していた。日本は江戸幕府・将軍徳川家治の治世である。ちなみに西洋はというと、23年後の1789年にフランス革命が起こるが、1766年はまだそんなことが起こるとは誰も知らない。結婚前のマリー・アントワネットがオーストリア宮廷で少女時代を過ごしている、そんな世界である。

 当時、朝鮮王朝の知識人達は、清に支配された中国を蛮族に支配された土地と見ており、もはや中国は「中華」ではない、という認識を持っていた。「中華」とは単純に中国を指すのではなく、「中華文明」なのである。
 冊封体制とは、圧倒的な文明をもつ中国に対して、周辺諸国がその文明を慕って朝貢し冊封を受け、「お前を○○の王に任ずる」と中国に認めてもらう、中国の皇帝と周辺諸国の王が疑似的に君臣関係となる、というものである。(日本は室町時代の足利義満が「日本国王」として冊封を受けているが、17世紀以降はこの体制に正式には参加していない。)
 中国への朝貢は、中国が周辺諸民族にとって圧倒的・絶対的な文明の地である「中華」であるからこそ行われるものであった。だが、明を倒して清を建国したのは満州人。周辺諸国からすれば、自分たちと同じ、もしくはそれ以下の「野蛮人」なので、中華と慕って従うには納得がいかない。そんな満州人に武力で制圧され朝貢を強いられ、おまけに豊臣秀吉の侵略の際に援軍を送ってくれた救国の大恩ある真の中華・明まで滅ぼされてしまった朝鮮王朝の人々の忸怩たる思いや、並大抵のものではなかった。
 例えばであるが、豊臣秀吉は名目上打倒明を標榜して朝鮮半島に出兵した。結果はご存じのとおりであるが、朝鮮の宗主国として援軍を派遣した明は対日戦争でかなりダメージを負った。日本に勝ちはしたものの弱っていたところに満州人が攻めてきて、明はついに滅んだ。ということは、順序が逆になっていたらどうなっていただろう? とふと歴史のifを考えたくなる。もし、秀吉の出兵が成功して日本が中国を支配することになったら? 日本が北京を占領して、周辺諸民族に「わが国へ朝貢しろ」などと言ってきたらと考えると「は? 何言ってんだこいつ」と思われた状況も想像できる。
 しかも満州人は中国を支配すると、辮髪を漢民族に強制した。今や「中国人の髪型」と思われている辮髪であるが、もともとは北方民族の髪型であった。当時、辮髪を拒否するものは死刑とまでなったというから相当である。これも、秀吉が中国を支配して中国人に月代と裃を強制する、とifを考えてみるとすごさが理解できる。まかり間違っていればこちらが実現してしまっていたかもしれない。辮髪にしても月代にしてもだいぶインパクトある髪型である。いきなりあれをしろと言われるのは現代の感覚でも結構厳しいものがあるよなあと思う。
 幸い(?)朝鮮や琉球・ベトナムなどの朝貢国は、辮髪や満州人の服装を強要されることはなかった。そこで朝鮮は、明の遺風を堅持した。明風の服装や髪型を固く守り続け、儒教のなかでも宋代の朱子学を最高のものとして信奉し続けた。もはや夷狄に支配され蛮族の風習に染まり、儒教も朱子学以外の陽明学や考証学が幅をきかせている中国は中華ではない。中華文明を維持し続ける朝鮮こそが中華の地である。1766年の朝鮮王朝の知識人の人々は、そのような認識を持つようになっていた。「小中華思想」と言われる。

 そんな1766年の世界、洪大容は朝貢使節の一員として北京へ向かった。 

 解説で訳者の夫馬先生も書いているが、上記のような状況なので、朝鮮以外にも、琉球やベトナム(越南)も中国へ使者を送っている。日本も冊封を受けている当時は使者を送っていた。また日本へやってきた朝鮮通信使が日本について書いた記録もある。東アジアにおいて使節として異国へ赴いた知識人達が、現地の様子や現地人と交流した記録はたくさんあるが、なかでもこの本は特におもしろく、そしてまた他にない「奇書」である、と夫馬先生は述べている。それは、ひとえに著者・洪大容の人によるという。
 上記の通り、朝鮮の知識人達はもはや蛮族に支配された中国人など知り合う価値もないと考えていたので、現地でも中国人との接触を避けていた。しかし洪大容は違った。中国へ赴き、そこで現地の人達と心から語り合ってみたい、その野望を胸に北京へ向かった。既に目標からして異なっていたのである。
 果たしてその野望は偶然叶うことになった。使節団の一人が市場に眼鏡を買いに行ったがなかなかよいものがない。そこで市場にたまたま来ていた眼鏡をかけた中国人に、その眼鏡を売ってくれないかと声をかけたのである。それが、浙江省から科挙の試験を受けるために北京へ上京してきていた、厳誠・潘庭筠との出会いに繋がることになった。

 偶然出会った洪大容と厳誠達だが、眼鏡のお礼に贈り物や手紙をやりとりした後、実際に会ってお話することになる。洪大容と金在行は中国語は喋れない。しかし彼らはともに知識人であるので、漢文の筆談によってまるで喋るがごとく饒舌に会話することができた。
 本書を読むと、彼らが本当に心から楽しんで会話をしていることが伝わってくる。数度目の訪問からは陸飛という人物も加わり、議論はさらに白熱する。議題は中国と朝鮮の風俗の違いなども上がるが、儒教の教義や経典に関する解釈議論が主なものだ。たまたま声をかけた厳誠達であったが、なんと彼らは科挙の地方予選である浙江省の郷試でトップレベルの成績を収めた人々であった。洪大容ももちろん王朝知識人として儒教の理解は抜群である。
 洪大容は当然朝鮮王朝で正統とされる朱子学を信奉しているが、一方中国人である厳誠達は、朱子学一辺倒という訳ではなかった。陽明学や当時流行していた考証学も嗜んでいるが、特別これと決めた学派は無い。また、仏教に対する姿勢も異なっており、洪大容は朱子学を信奉しているので当然仏教など断じて許さんという立場であるが、厳誠は仏教に傾倒している。
 朱子学と陽明学の違いについては私もなかなか理解できない。思想は本当に難しい。私個人としては、「性即理」を掲げる朱子学が自律を重視し非常に禁欲的な実践を求めるのに対し、「心即理」をかかげる陽明学は、自身の感情や情をそこまで排除しないという印象を受けている。小島毅先生の『朱子学と陽明学』を読んだ際、朱熹と王陽明の人間性の違いに着目していたのが非常に印象深かった。朱熹はどうもよく言えば論理的、悪く言えば融通がきかない人間でお付き合いをするには難しいところもあったらしいのだが、王陽明は講話がおもしろいタイプの人であったらしい。
 朱子学の教義をまさにその身で実践するところの洪大容は、時々厳誠達を責める。それは読んでいる私ですらハラハラしてくるレベルである。曰く、中国人は蛮族である満州人の髪型と服装に染まり、朱子学を重要視せず、仏教に頼ったりしている、と。厳誠達が感激して涙を流したりすると、これまた「情に流され過ぎ」と叱る。また、潘庭筠は妻が詩をつくれることを自慢するのだが、洪大容は女性は自室で自分磨きをするのが一番で、詩作をするなど分不相応だと難色を示し、潘庭筠を好色だと非難する。(※当時詩作は男性知識人に必須の教養であった。なお、潘庭筠はかなりの美男子であったらしい。)さらに、潘庭筠は満州人の男色相手がおりその男とともに朝帰りした日があったのだが、この部分などは本に編集する際に削除している。(※それにしても、当時中国には男色が存在し知識人がこれを嗜んでも特に非難されるものではなかったらしいことを初めて知った。潘庭筠の男色相手は満州人の官僚と書かれていたので、日本の陰間のような専業の男娼ではなかったことがわかる。男色は朝鮮では基本的に「ありえない」ことであったようだ。)
 夫馬先生は、洪大容の正論殴りを「いじめ」と言っている。もはや中国では失われた「中華文明」を自負する洪大容としては、その自分の正しさが正しくあればあるほどに、満州人の支配を受け入れて暮らしている厳誠達中国人の不甲斐なさが目についたのだろう。
 髪型や服装は、実際に清朝に支配されている中国人にはどうしようもできないことであった。本の中で、洪大容が清の支配について筆談すると、厳誠達は血相を変えてその部分を墨で塗りつぶしたり、紙を細かく破いてなんと飲み込んでしまったりする。証拠が残らないようにするためで、万が一清朝に反抗的な発言がばれれば命の危険があるからであった。清朝の支配下において、彼らはその支配に言及することすら禁忌であり、外国人である洪大容と違って、厳誠達にとっては本当に命がけだったのである。
 逆に、明朝の冠と衣服を身にまとい、朱子学の教義を厳格に守り教義に則って自身の感情の発露を抑える、そんな洪大容の姿は、中国人の厳誠達の目には非常に古めかしく映ったようである。洪大容は外国人というよりまるではるか宋朝からタイムスリップしてきた古代の知識人のようだったのだ。

 洪大容が北京に滞在している間、彼らは何度も互いに訪問し、訪問できないときは手紙をやりとりしてしきりに熱く議論を交わした。現代の私達には知るのが難しい、現代の飾り気のない「普通の」中国・朝鮮の知識人の姿がそこに映し出される。文面から溢れ出る熱い想いを、夫馬先生は「ラブレター」と評している。

 そして一か月に及ぶ交流は終わり、洪大容は使節団とともに朝鮮に帰国した。もう二度と会うことは叶わない彼らは非常に別れを惜しんだ。帰国後も幾度か手紙のやり取りをしている。
 しかし彼らの出会いから一年後、厳誠が病死してしまった。それを知った洪大容は厳誠の兄に遺稿集を送ってほしいと頼む。兄は快諾して、潘庭筠に手紙・肖像画とともに潘庭筠に転送を頼んだ。ところが、そのころ既に中央官庁で職を得ていた潘庭筠は、清朝の漢人弾圧を恐れて洪大容との交流を拒絶してしまっていた。
 八年後になって、北京に朝貢使節として赴いた人物の手により、ようやく厳誠の遺稿集と肖像画・手紙が洪大容の手元に届いた。
 洪大容はこれを見て、お返しにこの『乾浄筆譚』を中国へ送った。しかし、中国でこの書が読まれた記録は無いという。清朝の支配を非難する調子のあるこの書は、清朝支配下の中国ではあまりにも危険な書物であったのだ。

 この本は、近世東アジアの風景を鮮やかに現代の私達の前に見せてくれる。それにしても、近世において中国・朝鮮・日本はこれほどに遠く離れ、互いにほとんど交流することなく激動の近代を迎えることになったのかと思うと、なんともいえない気持ちになる。ヨーロッパの各国が互いに王族が通婚するような状況であったのとはあまりにも違う状況だなと思う。また、中国での満州族の支配は、100年を経てもやはり支配下の漢人には非常に厳しいものであったことがわかる。近世の中国・朝鮮・日本は互いが互いを微妙に見下しながら存在していた。それは現代までずっとずっと根深く続いている。
 しかし同時にまた、この本から立ち上ってくる熱い「ラブレター」のような感情もまた実在し、涙を流して交流した人々がいたことも実在したことを知ることもできる。やはりこの本はあまりにも「奇書」なのである。

 ところで夫馬先生の訳がとにかく軽妙で、それもまたこの本の大きな魅力である。漢文の訳というと堅苦しくて読み進めるのが難しいのだが、この本では堂々とカタカナが使われている。贈り物は「プレゼント」だし、酒盛りのシーンでは飲みすぎを注意する際「ピッチが速すぎますよ」という発言もある。この軽妙自在な訳が、天下の奇書をさらにおもしろくしている。本当におもしろい本である。



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