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なぜ振り返る/MISSING

 自室が散らかりきって無茶苦茶なる前に、机まわりを中心にささっと片付けたりするように。進行中の案件や雑談中に交わした口約束など、公私ともに何がどうなっているのか、とっ散らかったり絡まり縺れる前に整理確認。実務的側面だけを言えば、私が(だいたい)毎週土曜日に行なっている「振り返り」は、そんな感じ。なのに、わざわざそれを「振り返り」と呼んでいるのは、スケジュールや要件の確認とは違う目的をもってやっているからであり。
 日々「即ち興し」ながら、「他者性」を召喚しながら生きているせいか、私の日常は、ともすればスラップスティックなものになりがち。そこを、「これで良いのだ」と_自分で自分を_赦してやったり、「もっといける」と焚きつけてみたり。と、そんなところだろうか。あるいはもしかして……。
 私は「一貫性」信奉者ではないつもりだし、信念に基づいて「ブレない」などのフレーズを連発する人間を、どちらかと言うと小馬鹿にしてもきた。そのような視点で過去1週間の自分の一挙手一投足をチェックし、駄目出しするなどあり得ない。筈なんだが、年を重ねるとともに自分自身のスラップスティックな振る舞い、それが引き起こすスラップスティックな状況を良しとし、楽しむだけの強さ(またはアホさ)が減退してきてるんじゃないか。
「僕、間違ったことしてないよね」
とでも、絶対他者に確認したいのだろうか。

 村上龍(敬称略)『MISSING失われているもの』の完成形を文庫本で読んでみると、かつて、メルマガというかたちで届く最新部分を楽しみに読んでいた時と、少し印象が違った_何らかの事情で当時は後半は読んでいない_。
 雑にまとめると、それは「振り返り小説」であり「更年期小説」というか、ざっくり体力の衰え(おそらくは性欲というか精力減退を含む)に起因する様々な不調を抱える作家_どうしても作者自身を連想してしまう_が、大人になってから関わった女性や、母親との関係含む幼少期の記憶などを振り返る物語だ。
 村上龍と言えば、二十代の頃、『五分後の世界』という短編集を、コピーライターの先輩から強く勧められたことがある。これを参考に精進するようにと。収録作品はどれも、五分後に一変する状況をスラップスティックではなく緻密に描写したもの。精神世界と言うのか個人の内面の話ではなく、リアルワールドの物語で。私は、不遜な物言いになるが、リアルなフィクションを思い通りに構築する正確な文章力に圧倒された。MISSINGの印象は、それとはまったく違う。
 収拾つかなくなってきたので、私が上記作品より受け取ったメッセージをフレーズ化して〆ることにします。

「振り返れ! 強くあれ!」

7日追記:
「言葉以外のものを失う」とは、どういう状態なんか。シニフィエなきシニフィアンにまみれながら生きていくということか?




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