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アウトプット時の葛藤_見たまま感じたまま/体裁を整える_

  父が如来様になられた最後の出世祝いなどもあって、ここ1週間ほどバタバタしていましたが、バタバタの中でいろんな「振り返り」をやることになった。で、昨夜、土曜の夜に行っていたここ最近の、と言うか、ずっとそうだったこと、生前の父がそうだったのと同じ問題を抱えている自分の課題などについての暫定のブーツストラップというか、今の自分に関係する「振り返りの振り返り」より。


 父は生前、俳句をやっていて。私は、父のそっち方面のアウトプットが好きではなかった。中国の古典への安っぽいオマージュ的フレーズが混じるなど、体裁を整えることを重視するあまり、肝心の部分_作者の視点とか感受性などと呼ばれるもの_が霞んでしまっているので。いわゆる素人が趣味として楽しんでいる句作に、いちいち文句をつけるのもどうかとは思いつつ。
 父は認知症で施設に入っていたんですが、そこでも、認知症が進んでいく中で句作を続けていた。そのメモなどを見ていると、不思議なことに父の句は、だんだん良くなっているように思えた。何と言うか、下手な安っぽい技巧が影を潜めていくにつれ「見たまま感じたまま」が表に出てくるような。
 そのうち、五七五の定型韻律も崩れていった。父は、そのへん無視の破調を目指した人ではなかった筈だから、たぶん認知症の影響なのだろう。私は、種田山頭火の句を連想した(※山頭火は認知症だったんじゃないか、などと言いたい訳ではありません)。

 広告の仕事で、川柳のスタイルのコピーをシリーズで作ったことがある。その仕事では、当たり前だが五七五の定型を頑なに守った。そうしないと、川柳のスタイルで書いていることをわかってもらえないので、企画そのものをぶち壊すことになり、早い話ボツになるのは目に見えていたからだ。
 言うまでもなく広告コピーは、自分の「見たまま感じたまま」を書くものではない。書くものではないが、そういった要素をまったく入れてはいけないというものでもない。と言うか、多少なりともそういった要素が入っていなければうまく届かない。んじゃないかな。
 俳句なんかその尤もたるもんだろうけど、「そういった要素」を積極的に出していった方が良い場合がある。そのときどうするか。こうすれば良いのだ。というのは今は書けない(書けたとしても書かない)が、この課題、確実に以前よりもクリアに捉えることができている。


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