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君津市坂畑の林道・古道 Part4 屋敷跡編

道中

Part1で出てきた分岐まで戻ってきました。
ここから真っ直ぐ行って大福山方面へ出たらこの旅は終わりです。
直進する道だけは地理院地図で点線ではなく直線で描かれており、途中までは舗装されたしっかりした道でした。

直進します
車も通れる
謎の小屋
近くには大型のアンテナが2本も建っていました
途中からバイカーの通り道になります
バイクが通りやすくするためと思われる工夫

原山松本家旧宅地跡

バイカー以外通らないような荒れた道を進むと忽然と蔵が現れます。ここには代々地元の有力者が住んでいたそうで、その歴史が分かる石碑が建てられています。以下書き起こし。

松本家は旧久留里藩領である君津市怒田字原山に一志、屋号を原山と言う。過去帳によれば、その歴史は江戸初期頃に始まる。それ以前は定かでなく、先祖は何処から来た何者だったかと関心は絶えず離れない。北向地蔵の戒名はじめ各所の石仏に寄進者として名が刻まれ、里見家旧臣の家柄との姻戚も多い。これらを鑑みると、里見一族とのつながりもあろか。原山では当初から松本姓を名乗り、安左衛門を襲名して明治末期まで続いた。歴代が論語を読み漢詩や和歌、酒を好み、自然をこよなく愛し、風流な生活に余念がなかったようである。
この間、医業を中心に農林業を生業とし、中でも家伝薬の蝮の妙薬は昭和三十年代頃まで処方された。遠くから訪ねる人が多かったが、血清の出現によりその役割を終えた。江戸時代には久留里藩黒田候の信任厚く、年一回巡見の際は必ず立ち寄って好物の牡丹餅を食し、暫しの休息をしたという逸話もある。ちなみに松本柳意知元は、小糸の玄々堂から来た医師で、六十代醍醐天皇の末裔だと言う。また松本家は、農家の出身ながら久留里藩士となり、出世を果たした松崎忠八宗親を輩出している。
明治に入り市町村制が施行されると、町議会議員をはじめ久留里町長という要職に携わった。地域発展のため尽力を惜しまなかったとされ、明治百年の記念品はそれを物語っている。時は流れ、日本は昭和の激動期を経て未曾有の廃墟から奇跡的にも立ち直り、高度経済成長へと発展した。時代も大きく変わり、時代の波に抗し難く、住み慣れた歴史ある原山の地を去る事となった次第。
茲に後世の伝えべく畏敬感謝の念を込めて記し置く。
令和三年四月吉日 裕記

石碑は2021年に建てられており、宅地跡の杉は伐採され雑草も刈られているようです。Part2で紹介した番所跡の石碑は2019年に建てられていたことから、古道や廃集落を記録保存する取り組みが最近はじまったことがわかります。
なお、宅地跡付近にも生活の痕跡があり、ここに集落があったことが推測できます。

宅地跡全景
石碑と野仏
荒れていたと思われる土地はつい最近整備されたようです
一段下がったところにある平地に落ちていた皿と湯呑み
建築部材
農機具

大福山方面へ

あとはもう語ることはありません。バイクで削れた道をひたすら降ると更地にでて、舗装路を登ると大福山付近の車道に出ます。

えぐれています
更地
更地にある池
鯉が泳いでいました
舗装路
車道へ

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行った日 : 2022/12/03

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