見出し画像

【2023.05.06】無限鏡のホログラフィックなわたし

 先日「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」を訪れました。平面に新たな空間を構築する画家達の挑戦と強い意志を感じました。解説のパネルには、それまでの絵画はキャンバスの向こう側に在る空間を意識して描かれた、その空間を眺めるための「出窓」のような存在であったと記されていたように憶えています。
 ピカソや彼と同時代の画家達は、キャンバスのこちら側すなわちキャンバスの上へ別空間や構造を新たに構築するように描いて、平面を塗ることに意識をおいていた……のような解説が、前述のパネルの一文には続いていたかと思います。少し時間があいてしまったので記憶に我流の解釈が混ざりこんでいるかもしれません。
 キャンバスを境界面にして向こう側に「在る」世界を映すこと。こちら側或いは別次元の「在らざる」世界を映すこと。空間的な世界観やその捉え方の移り変わりが、時代性という背景としてあるのだろうかと思います。美術史や絵画そのものについて私は素人で、詳しくはありませんので感覚的にそう思っただけではありますが……。
 宗教画。神話や理想的な人物像。写実的な生活感。現実味のある人物像とその景色。それらをその時代の人々が平面の枠の覗き窓から眺める。次の時代の人々がその枠そのものを分解、分析、再構築して新しい世界観や物象や人物像として発生させる。この世界が内包する或いはこの世界の外へ増殖する別次元の宇宙のように。
 そんな視点の移り変わりを思うとき、ニュートン的な宇宙からアインシュタイン的な宇宙への、物質的な世界観からバーチャルリアリティ或いはホログラフィックな世界観への変容を思います。
 視点……即ち私。私はこの世界観の変容において、実際には今、何処に在るのだろう? キャンバスの枠のこちら側から私の外の世界を眺めている私なのだろうか。こちら側で生成し続けている私の内の世界そのものが私なのだろうか。外の世界のなかの私のなかの外の世界のなかの私のなかの外の世界の……無限に広がる。描く者と描かれる者。書く者と書かれる者。意味と言葉を使う者。形のないもので形のあるものに触れようとする者として。形のあるものから形のないものを知ろうとする者として。
 そんな私のことや、私と関わり私を象る世界をあぶりだしたいという衝動。その衝動は私がものを書く理由なのかなと思い始めています。絵筆をとった画家が色と形を探すように。私と世界を記述する音と言葉を私自身と対峙しながら、私と世界の境界面に探している。そんな気がするのです。それは不安を解消して安息をえたい曖昧な存在である私自身のために。




【追記】この記事のカバーに使用している画像のフォントはそれぞれ
「クレー」「マティス」「セザンヌ」といって、記事内で触れた展覧会にて展示されていた画家達の名前が冠されています。筑紫明朝で有名なフォントワークスさんのフォント。筑紫明朝含めて、いずれも私の好きなフォントです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?