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私的ファッション史+いろいろ

PART2.  1973〜77年( 昭和48〜52年 )

中学校3年、高等学校期 1

中学校期を3年生から高校を一つのピリオドにしたのは、この時期が僕の中では大きく自分自身が変わった時期であったからです。
中学3年生は高校受験という一大イベントがあり、兵庫県の受験方法が他県と違う兵庫方式というスタイルでやっていました。簡単にいうと中学校でどう過ごしてきたかを内申書という形で評価し、長文読解と各科目の平均的な力を筆記試験でやるという事だったと思います。そのため、内申書での評価でだいたい進学できる高校が決まりました。
子供だったので、世の中も景気が良かったのか、悪かったのかはほとんど記憶にありませんでした。
小学校の4年生くらいからラジオの深夜放送は聴いていました。中2の頃に みんな初恋を意識し始めて、、ラジオ大阪の番組、 ”ヒットでヒットばちょんといこう” の浜村淳さんがDJの日に ”思い出は映画とともに” というコーナーがあって、テーマがニニ・ロッソの夜明けのトランペットだったと思います。そこに浜村淳さんがあの語りでリスナーの手紙を読んでいました。想いが伝えれて恋愛が始まった話とか、失恋してしまった話とか、少し悲しい話があって、、映画とのつながりで語っていきます。
当時は映画、特に洋画のブームで雑誌、” ロードショー ” や ” スクリーン ”が情報誌として人気がありました。
担任がクラスの全員に将来の夢を聞いた時に、僕は ”深夜放送のDJになりたいです。”と答えたら、” そうなんだな、、ふーん、、”と。担任には ” なんのこっちゃ???"  という感じで流されました。

蛇足ですが、その後、深夜放送、”ヤングリクエスト”を聴いていた時に
「きょーこー!じろー!」同棲時代、アクション・ミック第1巻発売 のような、、CMが、流れました。なんか、すごく甘酸っぱいような、大人の感じがして、、すぐに本屋さんに買いに行きました。もちろん、内容なんて全然知らなかったのですが。
家に帰って開いた巻頭に書かれていたこの詩

愛はいつも いくつかの過ちに満たされている 
もし 愛が美しいものなら それは 男と女が犯す この過ちの美しさに
ほかならぬであろう

そして 愛がいつも 涙で終わるものなら
それは 愛がもともと 涙の棲家だからだ
愛のくらし 同棲時代

(上村一夫著 同棲時代から引用させていただきました。)

買ってから50年経っているので、ページがはずれてきました 小自慢ですが、全部初版本です。
発売されたらすぐに買いにいっていたので。


を読んで、何かすごく感動しました。上村一夫さんの描く女性、美して、どこか影があって、、
( 因みに数年前に代官山のTSUTAYAで上村一夫さんのポップアップがあって、画集とか 缶バッジ、キャンバスのエコバッグを買いました。 )

缶バッジ

その頃、受験前の生徒へのケアとしてだったと思いますが、、担任の先生と日誌のようなものを個別にクラス全員が交換してコミュニケーションを取っていました。僕はある日、” 大学に行ったら、同棲します。それは認められない事で、傷つけ合う事になるかもしれませんが、決して不潔なものではありません。それが愛のかたちだから後悔することはないです。” と書いたら、担任の先生はコメント無しで、見たというサインだけがありました。当時は同棲というのは、良くない事だという考え方がほとんどだったからかもしれません。が、きっとDJといい、同棲といい、先生は僕とは、あまり関わり合いになりたくなかったのでは、と思います。その頃、南こうせつとかぐや姫の ” 神田川 "が流行り、作詞をされた喜多條忠さんの ” 神田川 "という本が出版され、それも買いました。もう、愛は同棲でした。

こちらも50年、僕と生きています。

蛇足、長過ぎでした。^_^;


ファッション 夜明け

中学3年期
中学校最後の1年はフォークソング、というかよしだたくろうさんの影響でヒッピーまではいかないけど、子供なりにそれっぽくしていました。
この頃からファッションが生活に入ってきました。
中学3年生の時に一緒にギターでフォークソングを歌っていた友達と洋服を買いに行きました。

YAMAHA FG-160 高いギターではなかったけれど、結構気に入ってました。ピックガードは外してるのが、カッコいいんじゃないかと思って。


Betty Smith のデニムのサファリジャケットでした。パンツはBig Johnのデニムのベルボトム、ピンクのタートル ( 母親の手編みで )、ブリーチアウトのデニムのビットのローファーというコーディネイトでした。1969年にYves Saint Laurent がサファリジャケットを発表して、ブームになっていたみたいですが、テレビで観たくらいでした。
ただ、ヒッピーのようなワイルドな感じではなく、きれいな感じに着る方が自分にフィットしたんだと思います。そして、少し大人っぽいおしゃれに憧れてたのかもしれません。決してモードなんて言葉は知りませんでしたが。

70年代のBetty Smithのサファリジャケット。多分、これだったと思います。どなたかが、オークションに出品されていて、SOLDOUTになっていましたので、画像お借りしました。


ファッション 高等学校期
 通学スタイル

石舞台古墳にて (お墓に腰掛けるな <m(__)m>)


高校に入って、金ボタンのブレザーが制服だったので、どうしても通学はIVY、アメリカン・トラッドの感じになってました。

3つボタンのジャケットだったので、アイロンで襟を無理やりおさえて、3つボタン段返りボタン1つ掛け(アメリカン・トラッド2型)にして、VANのホワイト・オックスのボタンダウントップグレーのラムウール・ベストパンツは裾幅18㎝に絞って、シューズは学校規定のブラックではなく、VANのD・ブラウン(コードバンタイプ)のコイン・ローファーか、キルト・タッセル・ローファーで通学していました。
また、REAGALからマルチカラーのMidCutのスニーカーが発売されて、運動靴というジャンルから、洋服、IVY スタイルに合う新しい感覚のものだったので、その子にもコーディネイトに参加してもらっていました。
時計は中学入学の時に買ってもらったセイコーのファイブアクタス時計バンドはコードバン(だと言われて買ったけど、コードバンが何かはよく知りませんでした。)か、リボンベルトで合わせていました。
バッグはadidasのレッドのスクエアのスポーツショルダー(エアーライナーというモデルだと復刻された時に知りました。)、荷物の多い日は
adidas のホワイトにブラックのロゴのボストンでした。ものが古すぎて画像も見つかりませんでした。
体育の授業の学校指定のジャージは、ネイビーのとても可愛くないものでした。そのため、adidasのジャージ( トラック・スーツ )を買ってもらいました。今でいうベッケン・バウアーモデルというもので、カラーはトラック・トップがホワイトにレッドの襟、袖3ストラプ、袖口、パンツはレッドにホワイトのストライプ、シューズはadidas のホワイト・キャンバスのハイカットのバッシュ(当時はバスケットシューズをそう呼んでいました。)でした。

お休みの日のファッション

高校1年期
この頃はよしだたくろうさんの歌を毎日のようにギターを弾いて歌っていました。
ファッションは拓郎さんのスタイルがすごくカッコ良くて、本物は買えないけど、雰囲気は頑張ってました。シャンブレーのブリーチアウトのウェスタン・シャツをホワイトのTシャツに羽織って、ベルボトム、シューズはコンバースのゴールドのローカットのALLSTARを合わせて。夏にはフラワープリントのTシャツにブリーチアウトしたベルボトムで。

こんな雰囲気で 
こんな雰囲気で


1年生の終わり頃ににダウン・タウン・ブギウギバンドが出てきて、その音楽、ファッションがめちゃくちゃカッコ良くてなんかすぐに影響を受けました。リーゼントに、ティアドロップ・タイプのサングラス、白のつなぎにマジックみたいなので、名前( 竜とか )入れてて、スニーカーで、なんか悪そうで、、。当時の悪ガキたちは課外学習に( 遠足 )にそろえて着てました。
この頃、発売された吉田拓郎さんのアルバム” ぷらいべと ”で、フォークソングから卒業しました。フォークソング=シンガーソングライター=主義、主張、思いを伝える、また社会に対する反発といったものから、ニューミュージックと言われるポップス色が強い、みんなが楽しめるものに変わっていきました。それはそれで好きだったんですが、何か物足りなくなりました。
もともと欲張りでいろんな音楽を聴きたくなったこともあり、そんな気持ちが、急速に拡がっていきました。
僕の中で、ファッションはいつも音楽と一緒にあるので、洋服の志向も変わっていきました。
2年生になった頃から、友人の影響もあって、ウェスタン、サーファー、ヨーロピアン、方向に移っていきました。

+いろいろ  中学3年期

 音楽
ファッションもいつも同じ感覚で動いている、それはミュージシャンのファッション、スタイルということではなくて、時代や気分を感じる要素だったからだと思います。だから、ある音楽、ミュージシャンが好きな時はぐーっとのめり込んで、また、新しい( 自分にとって、、トレンドとかはそんなに気にしていなかったし、今も気にしてないので。)ものに出会ったらそっちにまた、のめり込んでいく感じです。最近、レコードのもっている自然な音、
LP、シングル盤のジャケットのアートワーク、ライナーノーツの情報等を
知ってもらおうとInstagramにあげていますが、レコードコレクターとしではなく、その時代、その時代に感じた音楽として、です。

この頃はフォークソングに、はまっていて、深夜放送が情報源になっていました。
ナベサダとJAZZ " 、” ヤングリクエスト”、” ヤングタウン ”、” オールナイトニッポン "、” コッキーポップ ” etc 番組名とか、もう50年くらい前なので、怪しいですが、とにかくラジオをいつもそばにおいて聴いていました。
歌謡曲は苦手とかではなく、中三トリオ( 山口百恵、桜田淳子、森昌子 )は同じ歳のアイドルでしたので、もちろん聴いていましたが、お小遣いも1000円くらいだったので、少ない予算の中で、レコードを買う事はなかったです。ちなみに シングル盤400円、LP1800円でした。
当時はラジカセの時代だったので、ラジオ放送から録音するのが、普通でした。
ここから、沢山の方、グループもあるので、敬称略で失礼します。
よしだたくろう、岡林信康、泉谷しげる、井上陽水、六文銭、R.C.サクセション、古井戸、三上寛、南こうせつとかぐや姫、ガロ、チューリップ、遠藤賢治、もとまろ、、、ステキな方、グループがいっぱいで。
受験勉強をしている事にして、いつも深夜放送を聴いて楽しんでいました。

*よしだたくろう( この頃は名前がひらがな表記でした )さんはこの頃の僕には全てでした。
きままな絵日記 "というエッセイも買って、、

amazon のサイトよりお借りしました。

その頃のたくろうさんは歯に衣を着せない語り口で、、カッコ良すぎました。生き方、話し方、音楽すべてが。もちろんオールナイトニッポンも聴いていました。特に面白かった時は目がさえてしまって、3時からの” 走れ歌謡曲 ”という番組までいっていました。提供が日野自動車で、”一人じゃないんだ、日野ファミリー”というキャッチでした。多分、長距離トラックの運転手さん向けに作られていた番組だったんだと思います。因みに関西地区はオールナイトニッポン2部は放送されていませんでした。おけいさんとの結婚をオールナイトニッポンで発表したり、” 結婚しようよ ” というとても私的な歌がカッコ良くて。絶対に歌謡曲や演歌ではない音楽、若い人の音楽でした。またでヤマハにライトミュージック・コンテストに出ていたころの演奏が聴けたり、、加藤和彦さんがゲストに来たり、泉谷しげるさんが来たり、いろんな方がゲストに来て、凄い交友関係だなぁ、、って感動したり。

たくろうさんのアルバムの中で僕のベスト3の一枚です。

アルバムでは、ライブアルバム( 当時はオン・ステージ、実況録音盤とか言ってました )”ともだち” がとても好きでした。毎日、”イメージの唄 ”を聴き、歌っていました。
こんな、心に突き刺さった詩はいまだ出会った事がありません。

漫画
少年マガジン、サンデー、キングに加え、ジャンプ、チャンピオンと購読していましたが、同棲時代の影響で青年誌と言われた 漫画アクション、ビッグコミック、ヤングコミック、プレイコミック、等も読み始めていました。
漫画も大好きなので、読みまくっていましたので、僕の頭では一度に思い出せないので、ぼちぼちいきます。
タミヤの 1/35 ミリタリー・ミニチュアシリーズの影響で第二次世界大戦モノの漫画があって、僕も好きだったので、友達から借りた ”二世部隊物語”、望月三起也先生の漫画はとても感動して読みました。その時、初めて二世部隊の存在を知りました。また、望月三起也先生の描く戦車やジープ、兵士、コスチューム、マシンガン、等はタミヤのプラモデルとともにリアリティに溢れたモノでした。
また、その頃に” ワイルド 7 ”という警察という堅苦しいイメージをアメリカみたいな、カッコ良くて、めちゃ悪くて、強くて、毎週ワクワクして読みました。飛葉ちゃんの駆るHONDA CB750で、マフラーが4本で、、子供等の憧れのバイクでした。
また、少年誌の漫画も大好きでしたが、青年誌の漫画アクションに連載されていた、” 高校生無頼控 ” はすごくおもしろかったです。原作は小池一夫さんでした。70年代の漫画は結構、電子書籍で結構でていますので、興味ある方はみてください。
また、少年誌でも大人びた漫画もでてきて、漫画のタイプも劇画と言われ、写実的な描き方のものも増えてきました。
その代表が小年キングに連載されていた ”木曜日のリカ”でした。
これも小池一夫さんの原作でした。これも電子書籍で見る事ができます。

amazon のサイトよりお借りしました
















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