IMJものがたり20 〜29(本編)
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IMJものがたり20 〜29(本編)

かしのたかひと

20  株式上場(前編) ちゃぶ台をひっくり返したのは誰?

 私は、財務や経理に強くなかったが、強力に支えてくれる布陣がIMJには揃っていた。
 副社長の玄さんは、ジョージ・ワシントン大学経営大学院でMBAを取得し、メリルリンチ証券、ドイツ証券という経歴の持ち主(テニスの腕前も相当強かったらしく、高校から米国へテニス留学し、留学生の中には松岡修三さんや伊達公子さんらがいて、アガシとも試合をしていたらしい)。
 経理の責任者は生島ヒロシ似の公認会計士の斎藤さん、CFOには証券会社から転職してきた中村さん、名アナリストだった藤根さんが持ち株会社にいて、あらゆる角度からファイナンスについて私に教えてくれた。
IT株式市場を最初に牽引したのはヤフー(日本法人)。1997年11月に店頭市場(現在のジャスダック市場)で株式公開し、初値が200万円(額面5万円)だったのに対し、1年余り後の1999年1月に1,000万円を突破、それから1年後の2000年1月にはなんと1億円の大台乗せとなり、さらに2月には1億6,000万円まで上昇する。
サイバーエージェントが起業2年目で上場したのは2000年3月。公募価格は1株1500万円、1520万円で上場、225億円もの金額を調達した。 

楽天が上場したのは2000年4月。公募価格は3,300万円で、調達資金が495億円。初値は、公募価格を40%も下回る1,990万円と大幅なディスカウントで始まり、直後に1,190万円の安値をつけ先行きが懸念されたが、その後午後に入り切り返し、終値は3,000万円。
この頃、既に米国の株価が2000年3月をピークに下落に転じ、景気全体も徐々に下向き始めていた。この米国の影響を受けて日経平均株価も2000年4月から下落基調をたどり始め、結局、ITバブルはわずか1年余りで終わりを告げ、不況に逆戻りしていく。

このITバブル崩壊によって、サイバーエージェントの株価は10分の1になり、手元現金が160億円もあるのに、時価総額は80億円まで下落する。  
このあたりの苦労や生々しい話をテレビ東京のドラマ「ネット興亡記」で放送していたので見られた方も多いと思う(見逃した方はParaviでご覧ください:笑)
その後も日本企業の株価は下がり続け、2003年には日経平均株価が7,600円台まで落ち込み、バブル崩壊後の最安値を更新する。
このように、2000年4月に日本のITバブルが崩壊し、その半年後に私はIMJの社長に就任する。株式市場は「右肩下がりのお先真っ暗」な状況だった。リクルートのフレックス定年制の退職金3000万円を諦めて、予定より6ヶ月早く社長に就任することにしたのは、さらに6ヶ月待つと株式市場もIMJもどうなるか全くわからなくなるので、人任せにしないで火中の栗を拾い、自分自身でなんとかしたいと思ったのだ。

そして、2001年4月、主幹事の外資系証券会社と最後の詰めの会議。
証券市場の先行きの暗さを理由に、予定していた公募価格では買い手が付かない可能性があるので、公募価格を約半値に下げ、公募株数を2倍売り出すよう私たちに通達してきた。半値に下げた株価で上場すれば、それまでに第三者割当増資に応じてくれた既存株主に減損が生じる。しかも公募株数を倍にすると主要株主の比率が大きく変わり、今後の資本政策にも影響を及ぼすのは必至。
「まさかここで株式上場を止めるわけにはいかない」という我々に逃げ場がないのを見越して足元をみてきたとしか私には思えなかった。これまで管理本部は朝から深夜まで上場資料を作成し、この日のために頑張ってきた。事業部メンバーも上場直前期の業績をコミットメント通り達成するため、数字を積み重ねてきた。
その努力を無にして良いわけがない。
しかし、株主にとっても社員にとっても株式公開は大きな登竜門であり、節目であるのは間違いないが、ゴールではない。
中途半端な形で、悔いが残る形で、「株式公開」だけに拘るのは本質を外している。
たくさんのメンバーの悲しむ顔が思い浮かんだが、私は心を決めて先方に告げた。
「御社提案の形で上場するのは、IMJの将来にとって良くないと思いますので、御社と組んで株式公開をするのを辞めたいと思います。誠に申し訳ありません」

私は、株式公開直前でちゃぶ台をひっくり返し、IMJの上場を白紙に戻した。

メンバーにも申し訳なかったし、自分で決めたくせに私自身も落ち込んだ。むしゃくしゃした気持ちをどこにぶつけていいかわからなかった。
しかし、「今までの努力が水の泡」というムードになると、どんどん最悪になる。せめて経営者の私が「もっと良い形でやり直せばいいだけ。大丈夫、IMJならやれる」と前向きなメッセージを出し続けなければいけない。

そのために、自分自身の気持ちを前向きに変える「何か」が必要だった。
すぐ実現できて、気持ちがワクワクする「何か」。

今、考えると、とても子供っぽい解決策だし、よくそれで気分が変わったと思うのだが、私は気分転換に昔から一度は乗ってみたいと思っていたポルシェ911カレラを購入した(笑)。
「サーキットの狼」の早瀬左近が乗っていたあのモデル。もちろん中古。
気分は一気にハイテンションになった。この時38歳。単純過ぎて笑える。

このポルシェ、妻との初デートでエンストするわ、夏の旅行でエアコンが壊れるわ、高速道路でドアミラーが落ちるわ、いろいろ難儀したが(笑)、「欲しいものを買うことでストレス発散できることもある」を教えてくれた貴重な経験。

ともかく、2001年5月、IMJの株式公開は一旦白紙に戻ってしまったのである。
(後編に続く)


21 株式公開IPO(後編)アメリカ同時多発テロ勃発

私のちゃぶ台返しで主幹事証券会社を断ったので、一からIMJの上場を担当してくれる証券会社を探さなければならなかった。
しかし、野村証券や大和証券など大手証券会社は軒並み腰を引き気味。
 無理もない。大手証券会社の顧客はITバブル崩壊で大損をしている人が多く、そこに「ITベンチャーの新規公開株」の話を持っていっても「寝ぼけたことを言う前に、この損失を取り返してくれ」と追い返されるのが関の山。

 そんな我々に救いの手を差し伸べてくれたのが、ドイツ系のコメルツ証券。日本での事業基盤が大きくなかったので、IPO銘柄を主幹事として扱うことが少なく、彼らにとっても良いビジネスチャンスになりそうだし、何よりIMJを大事に扱ってくれそうな雰囲気があった。
 そのコメルツ証券に加えて、IPO銘柄の取り扱いで存在感を出していた新光証券(現みずほ証券)が副幹事に入り、上場に向けて再スタートを切ることになる。

 この体制に決めた大きな理由の一つは、地方証券会社とのネットワークがあったこと。福岡の前田証券(現FFG証券)、沖縄の沖縄証券(現おきぎん証券)、香川の香川証券、石川の今村証券など、地方の顧客を保有する地場証券会社を中心に新規公開株を販売していく戦略を取ったのだ。

 まだネット証券も松井証券とマネックスくらいしかなかったので、地方顧客はIPO銘柄を購入する機会が少なく、かつITベンチャー株など買ったことがない方も多かった。
 つまり、ITバブル崩壊で痛手を被っていない顧客が地方には多く存在しているので、そこを中心にセールスをかけようという戦略が面白いと思ったのである。

 そして、ロードショーが始まる。
ロードショーとは、機関投資家向けの会社説明会で、新規公開時の募集又は売出し価格の需給の動向について判断するためのもの。発行会社(IMJ)にとっても証券会社にとっても極めて重要な機会となる。このロードショーの結果が上場時の株価に重要な影響を与えるからだ。

毎日、4社ないし5社の機関投資家にIMJの事業戦略やビジョンを語る。基本的には同じ話を何度も繰り返すので、話す方は飽きてくる。が、聞く方は初めてだから手を抜くわけにはいかない。だから毎回、「今度は少し笑いを取ろう」とか「比較対象企業を明確にしてコントラストを際立たせよう」などテーマを決めて、数をこなして行った。

 ところが突然、ロードショーの途中で経験した事のない激痛が背中に走り、汗が吹き出した。立っていることもままならない。この大事な時に次の投資家とのアポイントをキャンセルするわけにもいかない。

「樫野さん、効くかどうか分かりませんが、これ飲んでみてください」
女性社員が差し出したのは生理痛の薬。
「マジ?」と思ったが、藁にもすがる思いでそれを飲むと、少しの間だが痛みが和らぐ。
医者に駆け込んだ診断結果は尿路結石。入院するわけにもいかず、水を大量に飲み、生理痛の薬を飲んでロードショーを続けた。
そして、その夜。ベッドで痛みにのたうち回った後、血尿とともに5ミリ程度の石がコロっと出て、私は痛みから開放された。

余談だが、選挙の街頭演説をしている時に「株式上場のロードショーと似ているなぁ」と思ったことがある。
毎回同じ演説内容だとしても、聴衆は変わる。毎回アレンジを加えながら新鮮な気持ちで演説しないと心に届かない。来る日も来る日も朝から晩まで演説できたのは、このロードショーの経験が役に立っていたのかもしれない。

そして、地方証券会社のもとへも駆けつけた。
企業説明会に集まってくれた個人客はお年寄りばかり。私がインターネットの可能性や事業戦略を語っても、カタカタ言葉をどれだけ理解してくれていたかというと心許ない(笑)。

説明会での質疑応答も
「東京の社長さんがわざわざこんな地方に来てくれてありがとうね。」
「うちの息子と同い年だから応援するわ」
とIMJについての質問はほとんどなかったが(笑)、この方々はきっとIMJを応援してくれるという確信めいたものを感じた。

こうしたところも選挙に似ていて、政策云々より「娘が同じ中学校だった」とか、「お母さんと仲良くしているのよ〜」という方が強力に応援してくれる。
やはり、人は「理屈より感情」だなぁと思う。

こうして、地方証券会社とその濃い顧客に支えられ、IMJが希望する公募価格を値下げすることなく、上場準備は進んでいった。

株式上場を1週間後に控えた9月11日。
仕事を終えた私と玄副社長は、恵比寿ガーデンプレイス近くのオープンレストランで「いよいよですね」「よく、ここまで辿り着いたね」「ちゃぶ台返しした時はどうなるかと思いましたよ」などと言いながら、軽くビールを飲んでいた。

そこに一本の電話が玄さんにかかってきて、みるみる玄さんの顔が強張る。

「樫野さん、アメリカでテロが起きたというニュースが流れているみたい」
最初は事の大きさがわからなかったが、ワールドトレードセンターに旅客機が突っ込む映像を見て、とんでもないことが起きたことを実感する。
即座に関係各方面から情報収集すると、アメリカ証券市場はストップ。ナスダック市場も閉鎖。それに合わせて日本のヘラクレス市場(ナスダックジャパンがヘラクレスに名称変更し、現在はジャスダック市場)も閉鎖するという。

 上場1週間前で、またしてもIMJの株式上場に暗雲が立ち込める。
 翌日から証券会社と連日の会議。とにかくヘラクレスがオープンしないと上場はできない。いつオープンするかもわからない。オープンしたとしても株式市場は不透明感から株価が付くかどうか、どちらかというと大幅に下落して始まり、公募価格割れする可能性が高い、など不安定要素ばかりだ。

株式市場の不透明感から上場延期をする企業も相次いだ。毎日のように新規上場延期のニュースが新聞紙上を賑わせている。
「樫野さん、IMJはどうしますか?延期の発表をしますか?」
経営幹部からも証券会社からも意思決定を迫られる。
 1週間後の7月18日に、日本の株式市場がオープンするという情報も飛び込んでくる。
 
私は決断した。
今回は証券市場が土砂降りでも行く。公募価格も発行株数も我々の考え通りに進めてきた。仮に初値が公募価格を割ったとしても、それは瞬間的なこと。業績を上げ、会社が成長すれば、いずれ株価は上昇する。株式上場はゴールではない。そこからどう企業を成長させていくかという新しいレースの入り口に立っただけ。
それにIMJには我々の上場を心待ちにしている地方の顧客もいる。きっとあの潜在株主がIMJの上場を支えてくれるに違いない。
それを信じて進もうとみんなに告げた。

7月17日、アメリカのナスダックが市場再開。そして日本時間7月18日ヘラクレス市場がアメリカ同時多発テロ後、ようやく再開した。
大阪証券取引所のフロアで初値が付くのを見守る。
「初値付きました。175000円です!」
公募価格18万円を2.77%下回る結果となったが、この環境下で上出来の滑り出しだと私は思った。やはり地方の方々がIMJの株価を支えてくれたような気がした。あの時、話したおじいさん、おばあさんの笑顔が思い浮かんだ。

調達額は5億3100万円。サイバーエージェントの225億円、楽天の495億円の資金調達に比べると50分の1、100分の1の金額でしかないので、
その後の事業投資やM&A戦略は「キャッシュが少ない前提」で考えなければならないのだが、「小さく産んで大きく育てる」そんな気持ちだった。

ちなみに、ナスダックジャパンがヘラクレスに名称変更する際、新ロゴのコンペがあり、そのデザインを勝ち取ったのはIMJ。
私は、IMJがデザインしたロゴの上場記念盾を授与されたのである。

 上場後は四半期ごとに、上場を支えてくれた地方証券会社に挨拶に行き、会社の近況を報告する説明会を開いた。

終了後は、必ず宴会。地場証券の社長が地域一押しの店に連れて行ってくれて、美味しいお酒を飲む。
ある証券会社では270度海が見える別荘に招待してくれた。5時になると仕事を終えた社員が続々と集まり、「魚を釣って来たので食べてください」と新鮮な刺身を食べさせてもらったり、私に同行していた独身のCFOに「良い女性がいるのでお見合いしませんか?」などという話で大いに盛り上がった。

四半期ごとにガラゴロ(車輪のついた旅行鞄)を引いて、地方行脚する私たちはどこか演歌歌手のようで、お年寄りに人気の氷川きよし状態だった(笑)。

株式上場から8年後、私は選挙に立候補し、地元のお寺周辺で街頭演説。お年寄りに囲まれ、握手攻めにあい、前にもこういう経験をしたなぁと思い出していた。
自分では意識してなかったが、たぶん、そういうのが好きなのかもしれない(笑)。


22  副社長秘書

これは完全に余談になるが、副社長秘書、つまり後の私の妻について少しだけ書いておきたい。

私がIMJ社長に就任した直後、新社長、新副社長共に秘書が必要ということで、2対2のグループ面接のような場が設けられた。

その面接時、「最後に何か質問はありますか?」と聞いた私に対して、
「社長は社員教育について、どういう方針、考えをお持ちか聞かせてください」と、
真っ直ぐ私を射抜くような眼差しで質問したのが彼女だった。

私は、
「企業は人が財産、組織を構成する人で全て決まることを私はリクルートで学んできたし、それを実感してきたので、IMJで一緒に働くメンバーが最高に輝き、成長し、共に喜べるような風土をつくっていきたいと思っています。
場合によっては社長より給与の高いスーパークリエイターがいても良いし、従来の古い慣習に捉われずに、早くから仕事を任せ、実践の中で力をつけていってもらいたいと思っています」と答えた。

この時の彼女のド直球の質問がとても印象に残った。
ワンストライク!

結果、彼女を副社長秘書として、もう一人の女性を社長秘書として採用したので、その後はそんなに話す機会が多かったわけではない。
が、現場と馴染んで仲良くしている様子や、時々トイレで寝ているなんて噂を聞いて、その天真爛漫なキャラクターは異彩を放っていた。

私はもともと「共働き歓迎派」だったのだが、株式上場し、経営者として目が回るような忙しさの中、結婚しても家事の分担をする余裕がないことに気づいていく。

「結婚するなら、私が仕事を頑張る環境をしっかりサポートしてくれるパートナー、つまり家をしっかり守ってくれるタイプが良い」と考え方が変わっていったのだ。

しかし、社員には「社内恋愛OK」と言っていたものの、社長が社内の女性と付き合うのは「ベンチャーあるある」で社内の空気をブチ壊す可能性があるので「ご法度」と自分でルール化していた。万が一、付き合ってしまったら、古い表現だが「責任を取って結婚する」と決めていた。

それからしばらくして、株式公開の怒涛のIRでヘロヘロになっていた私に、細かなフォローやねぎらいの言葉をかけてくれた彼女と徐々に距離は縮まり、初めて三軒茶屋で食事をすることになった。

社内の話で盛り上がり、楽しい時間を過ごしたが、あっという間に帰らないとヤバイ時間。明日の朝も早い。

帰る方向が違うので、タクシーを止め、彼女を先に乗せて見送ろうとする私。
すると、彼女はクルっと振り返り、突然私の頬にキスをした。
いきなりの先制攻撃。

一瞬、呆然とする私。
冷やかし気味に遠巻きにみている酔っ払いの群衆。

それを尻目に「おやすみなさい」と言って、彼女が乗ったタクシーは走り去っていく。
ズドンと心にまたもや直球を投げられたのだ。
ツーストライク!


バツイチだった私は、40歳を前に再婚するかどうか決めかねていた。
なんとなく結婚に対して、腰が引けていたのだ。
成功イメージが湧かない。
でも、この歳ですぐに子供ができても、成人するときには私は還暦。
そんなに猶予期間がないこともわかっている。

よく男性同士の会話であるように、子供の運動会で同級生のパパに負けたくない。
いや、無様な姿を見せたくない(笑)。

そんなことを考えながら決断できない私に対して、彼女はこう言った。
「私が絶対、樫野さんを幸せにしてあげる」

ドスン。
スリーストライク、バッターアウト。

思い描いていたシナリオとは違ったけど、
こういう決め方もありかなと思った。

背中を強烈に押してくれた彼女に今はとても感謝している。


23 イノベーションのジレンマを自ら仕掛ける

 2002年、クレイトン・クリステンセンの「イノベーションのジレンマ」が話題になっていた。破壊的イノベーションによって、それまでの勝ちパターンが崩れる危機にどう対策を打つか考えなければならない。

 その危機とは、価格破壊が起こること、もう一つは技術革新が起こること、そして業界の構造変換が起こること。
 恐れていて足が止まったら意味がない。そんなの大したことないと軽く見たら足元を救われる。

自社サービスを脅かす脅威への対応は、まず自らそれを手がけてみて脅威の本質を理解し、本当に脅威となるかどうか肌で感じてみるというスタンスに決めた。

 最初に打って出たのは韓国進出。
 ウェブサイト構築の人件費が日本の半額もしくは3分の1程度、いわゆる海外の安い人件費の工場に仕事を奪われていく脅威に対して、IMJコリアという韓国現地法人を設立し、IMJより安い人件費でアウトソーシングを始める。

 技術についても韓国は日本よりブロードバンド環境の普及が早く、オンラインゲームがいち早くブームになっていた。このネット環境を武器に新しい動画サービスやコミュニケーションサービスが日本より数歩進んで展開されており、近い将来日本にやってくるのは間違いないと思われた。
実際、2003年からYAHOO!BBがADSLモデムを大量に無料配布し、一気にブロードバンド環境が日本に整い、静的ホームページやネットサービスが動的に進化していくことになる。

こうした脅威を取り込み、自社のものにするために設立したのがIMJコリア。社長には山っ気、色気、商売っ気満点の権さん(愛されキャラの権社長をみんな『コンちゃん』)と呼んでいた』)が就任。
 事業はまぁまぁ順調に進み、大儲けはしなかったが、大きな赤字も出さず、戦略意図を考えると意味ある打ち手だったと思う。
 
価格破壊については日本ローカルのマーケティングと日本人向けのクリエイティブを強化すれば脅威にならないことがわかり、下層レイヤーの業務を人件費の安い海外に発注することでIMJ自身の利益率が高くなることも実感する。
 
日本のモノづくり企業がこれまで進めてきた戦略を我々も粛々と進めるべく、韓国の次に更に人件費の安いベトナムにも現地法人IMJベトナムを設立した。

 タイに進出するかベトナムに進出するかで迷ったが、真面目で親日、人件費もタイより少し安く、日本のIT企業誘致に熱心で、設立後3年間は法人税ゼロ(記憶が不確か)のような優遇施策もあったので、ベトナムに決定。社内で責任者を募集し現地に派遣、経営経験を積ませる意味も込めて新卒エース廣田和也くんを社長にした。
 問題点といえば、派遣した若手責任者がベトナムの居心地が良すぎて(?)、現地でベトナム人と結婚し、帰って来ないケースが何度かあった(笑)。
さすが、人口構成で若い世代が多いと国のエネルギー量が違う。
私も役員会で何度か訪れたが、エビを食べすぎて湿疹が出て、しばらくエビが食べられなくなった苦い思い出の方が強いが(笑)。

 IT人材派遣のデジタルスケープともジョインベンチャーを設立し、「派遣人材によるIT制作請負会社」で日本一価格の安い企業にトライしたのがウェブ・ワーカーズ(WW)。経産省にいた大久保さんをスカウトし、社長就任してもらう。

 そうしているうちに、今度は「パワーポイントで作った資料がそのままウェブサイトに変換できるパッケージソフト」が開発され、「これが普及するとIMJの仕事が無くなるかもしれない」と技術革新の脅威を感じ、すぐさまその販売ライセンスを取得、自らセールスしてみる。
今では、普通にフリーソフトや低価格で、誰でもホームページが作れるようになっているが、常に世界からやってくる新しいテクノロジーの脅威を身近に感じながら経営をしていた。

その後、外資系SIPSのフロンテッジ・レーザーフィッシュをM&Aする。
彼らはIMJの2倍以上の提供価格でコンサルティングも含めた上位レイヤーの構築業務を手掛けていたので、そのノウハウの吸収と弱点の把握という狙いだ。

結果的に、IMJはこうして自社グループの中に、機能別・目的別・顧客別・価格別のサービスラインナップを揃えていき、どんな顧客要望にも応えられる体制を構築が出来上がっていく。


24 「00の不時着」はハッピーエンドか?

IMJが韓国進出してから2年、2003年の日本は「冬のソナタ」に沸いていた。
実家に帰った時、母がヨン様のポスターを貼っているのを見て驚いたこともある。

IMJが、IT&エンタテインメントを事業領域としていたので、IMJコリアがエンタテイメント事業に乗り出すのは自然な流れとも思えた。

次々とヒットする韓流ドラマのビジネスチャンスを逃す手はないと、
IMJコリア権社長の人柄と人脈で、韓流ドラマの日本ライセンスを取得し、
エイベックスと組んでビジネスは進み、IT事業以上の利益を生んでいった。

その流れで出会ったのが韓国トップクラスのCM制作会社イエロープロダクション。社長のオ・ミンホさんはクリエイターとしても数々の受賞をしているプレイング・経営者だった。

そのオさんがドラマや映画制作に進出するという話から
IMJとの資本提携に発展。4億円の出資により、イエロープロダクションはIMJの持分法適用会社となり、IMJグループ入りする。

しばらくはCM、ドラマ、映画と順調な事業状態だったが、
ある時、イエローと韓国のIT企業との合併話が浮上。
このIT企業は韓国コスダック市場に上場していたので、それなりの投資が必要なエンタメ事業を進めていく上では資金調達がしやすくなるというメリットに加え、合併するとIMJに株式含み益が発生する。

デメリットは、株主としての比率が下がるため子会社マネジメントのコントロールがしづらくなる。

よくも悪くもイエローはオ社長ありきの企業なので、
彼の気持ちが離れてしまうと企業価値を失うと考え、合併を承認した。

すると、合併会社の株価は上昇。IMJが出資した4億円は30億円の株式価値にまで値上がりし、含み益は26億円にもなっていた。

ここまでは、ハッピーな話。だが、世の中そんなに甘くない。

イエローは調達した資金で、大型の映画やドラマへの投資を加速する。
特に、日本でも大ブームの「愛の不時着」に出演しているソン・イェジンの代表作でもある「私の頭の中の消しゴム」に関わった縁もあり、ソン・イェジン作品にのめり込むように投資が続く。

私もソン・イェジンに会いました。
確かに、とびきりの美人でした(笑)。
のめり込む気持ちも理解できます。
しかし、冷静なビジネス判断がもう少し欲しかった(笑)。

IT企業との合併により、IMJのイエローに対する株式比率は下がっていたので、
ストップさせるだけの強制力がない。

そこへ、追い討ちを描けるように、
韓国IT業界のミニクラッシュが起こり、あれよあれよという間に株価が暴落していく。

30億円あった株式価値は1億円程度まで下がり、
4億円出資していたIMJは3億円の特別損失を出さざるを得なくなった。

そして残念ながら資本提携を一旦解消。
「愛の不時着」はハッピーエンドのようだが、
「株の不時着」はハッピーな結末にはならなかった。

その後も、IMJグループのモバイル&ゲームスタジオがPCオンラインゲームの共同開発をしたり、IMJエンタテインメントが日韓合作映画「ノーボーイズ、ノークライ」などを制作したりして、韓国とは細々とビジネスを継続。

私の頭の中では、消しゴムで消せない思い出になっている。


25 局地分散と「スープが冷めない距離」

新型コロナウィルスによって、人々の働き方は大きく変わろうとしている、
中でもオフィスのあり方はリモートワークを中心に激変中だ。

コロナじゃなくても、こうした変化をもっと先取りしたかったというのが
私の頭の中には常にあったが、リスク管理上実行するまでには至らなかった。

顧客の重要情報を預かるウェブ制作の実務を自宅で行うのは次のようなリスクが伴う。
自宅パソコンのセキュリティは大丈夫か?
作業場所となる自宅と会社をすべての社員に対して専用回線でつなぐわけにはいかないので、情報漏洩の危険は常につきまとう。

また、そんなことは起こらないと信じたいが、社員の意図的な情報売買の危険性。どこかの会社の社員がライバル企業に機密事項を売買していたニュースがあったが、
会社の規模が大きくなればなるほど、その危険性は高まる。
そうしたリスクを考えて、なかなかリモートワークには踏み切れなかった。

一方で、オフィス賃料の負担は大きくなるばかり。
坪3万円のオフィスを借りると、一人当たり2坪の占有面積としても@6万円。
1000人従業員がいれば月額6000万円、年間7億2000万円の家賃を支払っている。

これだけの家賃を支払っていても、実際に使っているのは、24時間のうち10時間程度。残りの時間は誰も使用していない。

使用している10時間も全社員がいるわけではなく、営業に出ているものもいれば、
打ち合わせで先方に訪問しているケースもある。
感覚値では社員の7〜8割くらいしかオフィスにいないのではないだろうか。

そうすると、24時間のうち10時間は約41%、その8割は役33%程度。
つまりオフィス代の3分の2=4億8000万円は空気に支払っているようなものだ。

ここを削ることができれば、もっと社員の給与を上げることができる。
そう思っていた。

もうひとつの大きな懸念は不景気への備えだ。
当時はイケイケのIMJだが、そのうち失速する時がくるかもしれない。
大きな不景気がやってきて、規模縮小を余儀なくされることもある。

その時に、大きなオフィスは足かせになる。
ワンフロアを丸ごと借りると、すべて見通せてコミュニケーションも円滑になるとは思うが、縮小する場合に一部だけ返却するのは難しい。どうしても余剰面積を借り続けなければならない。

そこで考えたのが、数フロアが空いている小さなビルを1フロアずつ借りていく戦略だ。規模拡大に合わせて、借りるフロア数を増やしていけば良い。

手狭になり、拡張フロアが空いていない恵比寿ガーデンプレイスから移転する時の候補地は六本木か五反田。

イメージで考えると間違いなく「ヒルズ族」が生息し、IT業界のオフィスが集約しつつある六本木だが、私は今後の規模拡大、規模縮小の両方を考え、五反田の小さなビルを選んだ。

移転当初は3フロアを借りた。それが4フロアになり、5フロアになり、6フロアになる。
もうこのビルの空きフロアが望めなくなった時は、この本社近くの小さなビルをまた借りた。そこへグループ会社が入居する。

そうして借りたビルが1本、2本、3本と増える。
IMJグループが五反田の街を占拠するように陣地取りをしていく感覚。
ランチの時など、あちこちで社員を見かけるのも楽しい瞬間だった。

この時、大株主のCCC本社は恵比寿ガーデンプレイス。
IMJが恵比寿ガーデンプレイスにいた時は、何かあるとエレベーターで行けるので、「呼び出される」確率が高い。

恵比寿と五反田は山手線で2駅。タクシーで10分の距離。
「味噌汁(スープ?)が冷めない距離」じゃないが、大株主との距離も
適度に離れている方が心地よく過ごせる(笑)。


26  ネット広告事業進出

 ウェブサイト構築やモバイルサイト構築については、強い組織が出来つつあった。
 また分析ツールに関しては、クリックトラックスやサイトカタリストなどの新しいツールが世界でドンドン開発されてくるので自社開発は止め、「様々な世界の最新ツールを担ぎ、顧客に選んでもらう」というスタンスにシフトしていた。
 こうして「つくる」と「計る」の事業領域は整っていたが、この先の成長を考えるとユーザー集客をするネット広告事業、「集める」事業領域が不可欠だと思うようになっていた。
 
この頃、営業組織強化のためリクルートから渥美さんが役員としてジョインし、初めての役員合宿が石川県の「法師」という1300年前にできた北陸最古の温泉旅館で行われた。
この法師は太場常務の紹介で行き始めたのが、一年に一度オフィスを離れ、非日常空間で役員同士が忌憚のない議論をする場は普段ネット空間に張り付いている我々にとって、とても大切な場となった。
こういうきっかけで、「IMJの役員合宿は温泉宿でやる」という秋の恒例行事となり、グループ数が増え、役員の人数も100人を超えるようになってからは熱海温泉に場所を変え、あの大宴会に繋がっていく。
しかし、法師で食べた「白魚の踊り食い」の感触はいまだに忘れられない(笑)。

さて、その法師でに3ヶ年計画ディスカッション。
ウェブ事業とモバイル事業は上場後、売上7億円が翌年20億円、その翌年30億円、そして今期40億円と順調に成長していた。
 この事業領域は副社長の村上さんと常務の太場さんの2人に任せれば、まだまだ成長できる。
 私はここで「集める」事業=ネット広告事業に進出したいという考えを他の役員に話した。村上副社長も太場常務も自身の管掌事業の数字コミットメントで一杯一杯な感じで、私の考えに賛成はしてくれるが、その事業を担当してくれようとはしない(笑)。

 その時に目が合ったのが渥美さん。
「渥美さん、お願いできますか?僕も手伝いますから」
一瞬怯んだようにも見えたが(笑)、「わかりました。やりますよ」と即決で担当役員を引き受けてくれた。
「じゃ、目標はとりあえず3年で売上20億円!」
「えっ?それは・・・」
「大丈夫、大丈夫、なんとかしましょ」
ネット広告市場の成長率を考えると、そのくらいの数字を作らないと存在感を示せないし、業界シェアを取っていけない。
各論の戦略は別途ゆっくり考えるとして、IMJとして着手すべき領域に進出する意思決定をし、担当役員を決めることが一番大事。そう「誰がやるか」で結果は全然違う。すべてはここが起点。IMJは大きな一歩を踏み出したのだ。


27 あれが最大の判断ミスか?  

ネット広告事業に乗り出すことを決めたものの、戦略を間違えると勝てるわけがない。 ヤフーなどのバナー広告やメール広告は、サイバーエージェントやオプト、セプテーニなどが先行していて、後発で参入しても勝つのはかなり難しい。それにIMJはどちらかというと農耕系なので、営業体質のメンバーが多いわけでもない。

 ちょうどタイミング良く、時代は従来のネット広告から、グーグルの台頭によって検索エンジン経由のユーザー集客にトレンドが移行しつつあった。
大企業のウェブサイトを数多く構築しているIMJなら、検索エンジンに上位表位されやすいサイトを構築できるのでSEOから参入し、検索エンジン広告(SEM)は勝機があると思った。さらに、IMJ顧客ネットワークを活かしたアフィリエイト広告にもチャンスがあると考えた。
つまり、主力事業に紐づいてSEOを進めながら、リスティング広告とアフィリエイトで攻めていこうという戦略である。

取締役の渥美さんと現在電通サイエンスジャムの代表をしている神谷くんを中心にネット広告事業部が組織され、既存顧客を中心に営業を展開。リスティング事業は半期ごとに売上が倍々で伸びていった。

一方のアフィリエイト事業について、草分け的存在だったファンコミュニケーションズ(A8ネットを運営)の柳澤社長に相談に行った際、アメリカでSNSという新しいサービスが流行り始めていると聞き、ファン社とIMJが提携して共同開発する方向に舵を切ることにした。

そして2004年、GREEとミクシィより少し遅れて、IMJのフレンドマップがオープンした。

 最初はイケイケドンドンで進めていたが、ある段階で岐路に立つことになる。それは社内リソースの問題。
 ネット広告事業部は、検索エンジン広告事業とSNSという自社媒体事業の2つを同時並行で手掛けていた。片方の検索エンジン事業は倍々で売上が伸びている。もう片方のSNSは今のように広告モデルがまだ実装されておらず、会員が伸びれば伸びるだけ赤字が増える。

 現場は当然、目に見えて数字が上がるSEMを中心にしたい。SNSはマネタイズの方法が確立されていない上に、国内3位。
この頃、GREEの会員数が最も多く、約3万人、2位がミクシィの2万人、3位がIMJの1万人だったと記憶している。
 上位2社に追いつけるのか?という不安や社内リソースを検索エンジン広告に集中させたいという要望に押されて、私はひとつの約束をした。
「SNS事業を任せる人材を新たに採用できたら、事業部を分割して両方進める。もし採れなかったらSNS事業から撤退する」
 そして、その採用は自ら動くつもりだった。メディア事業を切り盛りできる人材、雑誌の編集長からネット業界に転身したような人物。もちろんアテもあったし、一本釣りするつもりだった。
 転職活動をしていた彼の選択肢は2社。IMJか、もう1社か。
 リクルートの採用で鍛えられた私は勝てると思っていた。
が、彼はもう1社を選んだ。

彼がIMJを断って、転職した会社は・・・なんと、IMJの大株主である増田宗昭社長率いるカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)だったのだ。
レンタルビデオ会員1856万人のデータベースを持ち、TSUTAYAオンラインに750万人以上のネットユーザーを持つ企業資産に魅力を感じたのも無理はない。

私は約束通り、IMJのSNS「フレンドマップ」撤退を決めた。
 
この頃、米国では、会員数が1000万人を超える「Friendster」を筆頭に、「Orkut」「LinkedIn」など数百万人規模のSNSが乱立していたが(フェイスブックはまだそこまで頭角を表していなかった)、国内SNSは我々同様、撤退が相次いでいた。

唯一、50万ユーザーを突破したmixiの一人勝ちの構図になりつつあり、ユーザー数2位のGREEも成長が鈍化し、約16万ユーザーにとどまっていた。

 その後、2010年にmixiのユーザー数は2000万人を超える。
今考えると、立ち上げ当初の数万人のユーザー数の差によって「ライバルの背中が遠い」なんて思う必要は全くなかったし、そのミクシィでさえフェイスブックに追い越され、ゲーム事業に軸足を移すようになる。

 結果的に、検索エンジン広告事業の成長により、役員合宿で決めた「新規事業として、ネット広告事業を3年後に売上20億円にする」は達成できたので、
あの時の選択と集中は正しかったのかもしれない。
 
が、いまだにあの意思決定で良かったのかと思い出すことがある。

あの時、フレンドマップを続けていたら・・・
いや、続けていても結局Facebookにやられていたか・・・(笑)。

 数少ない「たられば」の思い出だ。


28 CCCグループ入りによって生まれたC4

SNS事業は撤退したが、ネット広告事業の大きな可能性を諦めたわけではない。
アマゾンのオススメ情報やロングテイルによる売上拡大、Googleの少額課金がちりも積もれば山となる広告スタイルは、これまでの広告ビジネスを根底からひっくり返すかもしれないと思っていた。

SNS事業の責任者として採用しようとした人材がCCCに採られた理由は、CCCが持つ1856万人の顧客データベースの魅力。誰にどんな志向があり、何を買ったかという購買データを利用すれば、マッチングの確率が上がり、今でいうAIやビッグデータの先駆けのようなビジネス展開が可能になると思っていた。

2005年6月の株主総会で、私はCCCの社外取締役に就任していたので、このデータベースをIMJで利用させてもらおうと、思い切ってCCCの増田宗昭社長に相談に行った。

「増田さん、CCCのデータベースをIMJに使わせてください。」
「アカン、それはCCCの一番大事な事業資産や」
「では、IMJとCCCでジョイントベンチャーを設立して、その会社で広告ビジネスをやらせてください」
「どうしても使いたいなら条件がある。そのジョイントベンチャーの社長を樫野自身がやること。もうひとつはIMJがCCCの連結子会社になること。」

この時点で、IMJの筆頭株主は個人としての増田さんだったから、私から言わせれば増田さんがIMJ株を持っていようと、CCCが持っていようと同じことのようにも思ったが、CCCという会社の重要資産を利用するには会社として連結グループに入れて守らねばならないという「筋」ではある。

「わかりました。では、その条件を受けますので、ジョイントベンチャーはIMJの子会社にさせてくださいね。広告業界のリモデルを必ずやりますから、楽しみにしていてください。笑)」

2005年11月8日、 TSUTAYAなどを手がけるカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)は、ウェブサイト制作関連の学校を運営するデジタルハリウッド(デジハリ)と、その関連会社であるウェブサイト制作会社のIMJ、および人材派遣会社のデジタルスケープの3社を連結子会社にした。

 デジハリの株式54.2%、IMJの株式45.1%、デジタルスケープの株式49.7%を取得する。IMJについては以前よりCCCグループが保有している株式とあわせ55.0%を持つことになる。3社の株式取得にかかる金額は約160億円、この時のIMJの時価総額は約300億円だったので、100億円以上のお金がCCCには必要になる。そのため、CCCは、増田さん及びマスダアンドパートナーズ(増田さんの持株会社)を引受先とする105億3000万円の第三者割当増資を行った。

そして、IMJとCCCのジョイントベンチャーをCCCコミュニケーションズ(略称C4)と名付けて、IMJの社長と兼務就任した。

これで、CCC会員1856万人のデータベースを使ったリコメンドビジネスに本格的に進出。CCCにいる精鋭に加え、IMJメンバーもジョインし、両社のハイブリッド事業が始まって行く。

さらに、それだけでなく渋谷TSUTAYAの屋外ビジョンなど1160店舗を使った販売促進アイテムも全てC4で扱うことになり、大きな事業チャンスに突入して行く。

実は、CCCがIMJだけでなく、デジハリやデジタルスケープを同時に子会社にしたのは、デジタルコンテンツへの対応を強化するため。今後は、携帯電話の高機能化、映像機能を強化したPCの登場、Blu-rayやHD DVDなどの次世代光ディスクの登場、デジタルテレビ放送の普及の4点への対応が鍵になる。

IMJを通じてデジタルコンテンツ関連ソリューションへの参入を図り、デジハリとデジタルスケープについては、今後不足するとみられる人材を確保するのを目的としていた。

テレビがネット化していくと、レンタルビデオが衰退するのは目に見えている。現在のアマゾンプライムビデオやネットフリックスのようなサービスを立ち上げていかねばならないのも十分意識したグループ入りだった。


29   CCCのひとつ上を行くBBB

 今や、「テレビを付ける」=「地上波を見る」とは限らない。
テレビのスイッチを付けて、最初に見る映像がYouTubeだったり、アマゾンプライムビデオだったり、ネットフリックスだったりする若者も多い。
 パソコン、ケータイ(スマホ)の次の「テレビ」というプラットフォームの覇権を誰が握るかが勝負の分かれ目だ。

マスメディアの覇者が新聞からテレビに移っていった時に、テレビを制した電通が博報堂を超えて行ったように、ネットにつながったテレビの覇権を握った企業が電通を超えていく可能性がある。
映像、音楽、スポーツ、ゲーム。様々なコンテンツをマルチユースし、PC、スマホ、テレビなどマルチプラットフォームに配信していく時代を制するためにIMJも動き始めた。

 今でこそ、誰もが知るネットフリックスだが、創業は1998年に初めてウェブサイトによるDVDレンタルサービスを開始。
私がIMJ社長に就任した2000年当時はアメリカ国内の会員数は60万人と、TSUTAYAの1856万人に比べると小さなものだった。

2004年頃、まだ日本国内は映像がサクサク見れる環境にはなく、NTTやKDDI、ソフトバンク、有線ブロードネットワークスなどがセットトップボックスというお弁当箱のようなハードウェアをテレビに接続し、映像配信サービスをスタートしたばかりだった。
 IMJには、この映像配信サービスにおけるグラフィックユーザーインターフェースの制作や、デジタルライツマネジメント、フロントエンドとバックエンドを繋ぎこむシステムソリューションのプロフェッショナル・チーム福崎があった。
 このチーム福崎の力は業界トップクラスで、市場はまだ小さいものの配信事業者のほとんどを顧客としていた。 
 このソリューションをテコにしながら、映像配信マーケットの主要プレイヤーになるための参入戦略を考え抜いた。
 BtoC戦場に打って出るのは、一か八かの戦いになるし、大きな資本が必要となる。いくらバックにCCCが付いているとしてもベンチャーのIMJでは勝率が低そうだ。
 そこで選んだ立ち位置は「コンテンツアグリゲーター」。平たくいうとコンテンツの卸問屋だ。出版業界でいう日販・トーハンの立ち位置を狙おうという戦略である。

 IMJエンタテインメントが制作する映画作品のネット配信権は粛々と獲得していたが、それだけでは到底足りない。
一気にNO .1アグリゲーターのポジションを獲り、全ての映像配信プラットフォームにもコンテンツを提供し、他社が参入する気をなくすくらいの圧倒的パワーとスピードが必要だ。

 そのためにはIMJ単独では無理。大手とタッグを組むための事業計画を作成し、出資をお願いしに回った。
事業内容は、インターネット配信ビジネスに対応した映像や音楽等のコンテ ンツを一括集中管理し、ビデオ・オン・デマンド(VOD)事業等の配信事業者へ提供、デジタルコンテンツの品質管理、視聴データの収集分析、配信コンテンツの企画・開発を行なうというもの。

この事業企画に乗ってくれたのが、角川映画株式会社、外国映画の配給大手のギャガ・コミュニケーションズとカルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社(CCC)。
各社に出資してもらい、2004年7月6日に株式会社BBBを設立、私が社長に着任した。
社名BBBの意味はブロードバンド・バンク、ブロードバンド時代のコンテンツの銀行になるという意味と、ブロードバンド・バディ、ブロードバンド時代の仲間たちという意味。そして裏の意味として、パッケージ流通最大手のCCCの「一つ上を行く」という思いを込めた(笑)。

BBBは業界内ポジションも獲得し、順調に成長したが、如何せん映像配信マーケットの拡大が遅い。
次の戦略としてネット配信に消極的なテレビ局を巻き込むか、アメリカの大手映画会社と提携していき、さらに大きな資本で市場を作っていく必要があった。
TSUTAYAオンラインが抱える会員との連携も必須になってくる。そうした先の展開を考えて、2007年IMJはBBBの保有株式をCCCに売却。8000万円の特別利益を計上したものの、本音でいうと手元に置いておきたい事業だった。

この後、音楽配信市場は、iPodとiTunesというソフトとハードの一気通貫モデルが市場を切り開いた。
映像配信市場は、2007年、ネットフリックスがコアビジネスを、それまでのDVDレンタルサービスからビデオ・オン・デマンド方式によるストリーミング配信サービスに移行し、大成長を遂げる。

 ネットフリックスは、2008年から2010年にかけて、大手メーカーと提携し、ゲーム機(Xbox 360、プレイステーション3、Wii)、ブルーレイディスクプレーヤー、インターネット接続テレビ、アップル製品(iPhoneやiPadなど)およびその他デバイスでの配信に対応し、マルチプラットフォーム体制を確立する。

2014年4月にNetflixはアメリカでのストリーミング配信市場において32.3%のシェアを獲得。同年6月には企業ロゴのデザインおよびウェブサイトのユーザーインターフェースを一新するリブランディングを行い、7月には全世界の会員数が5000万人を突破した。

ストリーミング配信で成功を収める一方、Netflixは既存作品の配信だけでなく、オリジナル作品の製作にも乗り出すようになる。
2013年に配信を開始したドラマ『ハウス・オブ・カード 野望の階段』は、ケヴィン・スペイシーやロビン・ライトら有名俳優を主演に据え、映画監督のデヴィッド・フィンチャーがシリーズの製作総指揮を務めたほか、製作費として1億ドル(約123億円)もの巨額が投じられたことで話題となる。日本でも「全裸監督」や「テラスハウス」などのオリジナル作品が話題を集めた。

配信プラットフォームとしてシェアNO.1になり、コンテンツアグリゲートだけではなく、オリジナル作品を制作、今やアカデミー賞候補の常連になりつつある。

IMJが思い描いていた成長戦略を見事に実現しているのを見せつけられ、
悔しい思いをしながら、ネットフリックスの「梨泰院クラス」に今ハマっている(笑)。

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リクルート、福岡ドーム、メディアファクトリーを経て、映画プロデューサー、ベンチャー経営者、政治家、作家に。