IMJものがたり40から55(本編)
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IMJものがたり40から55(本編)

かしのたかひと


40 「オーシャンズ11」と「ミックスサラダからミックスジュースへ」

 ロイヤルクライアントの顧客満足度をさらに上げるために、グループ横断でクロスセルの動きを推進していった。ウェブインテグレーションのお客様にモバイルグループが追加提案に行く。その逆も然り。
 IMJグループが、ウェブもモバイルもセットトップボックスもワンストップでトータルソリューションを提供すれば、必然的にIMJにとって顧客売上がアップする。

こうしたクロスセルで、新しいロイヤルクライアント候補が出現するなど、良い兆しも芽生えてきていた。

この動きを加速するために、4つの人事戦略を走らせた。

ひとつめは、カンパニー制のリニュアル。
それぞれが大きくなりすぎた4つのカンパニーを11ユニットに分けて、担当執行役員を七人増員・抜擢し、現場まできめ細かく目が届く体制に変更。
グループ総会のプレゼンテーションでは、この11ユニットを「オーシャンズ11」と命名した。
この体制変更には、対外コミットした数字に対する責任をより明確にする意図もあった。

同時に、IMJネットワーク(システム開発)と演劇ぶっく社(後に、『カメラを止めるな』を大ヒットさせた会社)、BBB(IMJものがたり27に書いたネットフリックスを目指した動画配信アグリゲーター)の株式を売却。

グループシナジーが薄くなってきていたり、他社にマネジメントしてもらった方が成長できるという判断だった。

2つめはシャッフル人事。
「文化とナレッジは人が運んでくる」を体現するために、ウェブとモバイルの担当役員をスイッチしたり、ウェブのエースプロデューサーをモバイル事業に出向させたり、CCCコミュニケーションズの1ユニットをIMJの広告事業部に組織ごと移管したりした。

共有するイメージは「ミックスサラダからミックスジュースへ」。
個々の野菜がボウルに個体として入っているのではなく、混ざり合い、溶け合ってもっと新しく美味しい価値を提供する組織になろうと呼びかけた。


3つめは、特殊ミッションチームの編成である。
女性ユーザーを多く抱える顧客に、女性ならではの視点でソリューションを提供する女性だけの組織FEEDを新設。

リーダーに、このFEEDを着想した生え抜き・2度の出産・育休・子育ても経験しながら仕事を続けてくれるという「新しいライフスタイル」のモデルになるような若井美穂さんが就く。

 コカ・コーラ社のネットマーケィングを専門に手がける久田チームも、後のIMJを背負って立つ後継者であり、お客様になっていく。

 動画配信ソリューション国内最高峰とも言われた職人の集まり・福崎チームは、IMJグループナンバー1の1人あたり売上を計上し、後に事業部から一事業会社に昇格していくことになる。

 さらに、後にIMJの屋台骨となるMTL(マーケィング・テクノロジー・ラボ)も、加藤圭介くんの提案で設置した。

こうして振り返ってみると、この時に新設設置した「エッジの効いた特殊ミッションチーム」が治外法権的に自由に動き回り、次のIMJの成長エンジンになっていったのがよくわかる。

現場に近いところに、お客様に近いところに、権限を与え、管理しすぎず、思い切って自由にやってもらうのが、やはりIMJには合っているのだと思う。

この13期は決算期を9月から3月に変更するため、半期(6ヶ月)決算という変則期だったが、半期決算としては過去最高の業績を叩き出した。

痛い一年を乗り越えた後、事業の再整備ができ、新しい息吹も感じはじめ頃、
ライブドア事件が起こり、リーマンショックを迎えることになる。


41  ライブドア事件

堀江さん(ホリエモン)と初めて会ったのは、IMJの社長に就任してすぐの2000年末。
エンタメ事業の執行役員だった三木裕明さんの紹介で、恵比寿ガーデンプレイスの最上階でランチを食べた。

コンペで競合することの多いオン・ザ・エッヂの堀江さんは、20代で起業してマザーズに株式上場、サイバーエージェントの藤田さんと並んでネット業界で話題の人だった。

 お互いの情報交換程度の話だったが、自らプログラマーをしていた堀江さんにプログラミング言語の話をふられ、当時ど素人だった私は冷や汗をかいたことを覚えている(笑)。

 オン・ザ・エッヂがホスティングやシステム開発に強みを持っていることを肌で感じ、自分のバックボーンも考え合わせて、IMJはウェブマーケティングやクリエイティブ志向に進んでいく。

 と同時に、バックエンドに強い技術パートナーを見つけることと、システム系の取締役の補強が大命題だと再認識し、私はその採用やM&Aに多くの時間をさくようになる。

 その後、オン・ザ・エッヂはポータルサイト「ライブドア」を買収し、社名もライブドアに変更する。BtoC事業にシフトしていくライブドア社と、BtoBに軸足を置くIMJは競合することも減っていくことになる。

ライブドアへの社名変更について、その方が合理的なのは理屈ではよくわかるが、創業者は時として自分が起業して付けた社名にこだわる傾向がある。このあたりの思い切りの良さに、堀江さんの古い日本の経営者にはない切れ味を感じていた。

一方で、システム開発会社メディア・リンクスとライブドア、伊藤忠テクノサイエンス(CTC)が、架空取引による売上水増しで証券取引法違反事件を起こし逮捕者が出るなど、ガバナンスの緩さも漂い始める。

その後、ライブドアは数々のM&Aを手掛け、倍々ゲームで成長していく。
近鉄バッファローズの球団買収に手を挙げたり、フジテレビの買収に乗り出したり、堀江さんが2005年の衆議院選挙に立候補するなど、マスコミの寵児となる。

 この時、飛ぶ鳥を落とす勢いのライブドアから「IMJを買収したい」という打診があった。我々は、明確に「インタラクティブ・エージェンシーNO.1になる」というビジョンに向かって突き進んでいたし、安定大株主としてCCCがいたので、敵対的買収の危機を感じることもなく、その提案をお断りした。

が、万が一その買収提案を受け入れ、ライブドアの子会社になっていたら、その後の事件に巻き込まれて行ったのは間違いないだろう。
 
 ライブドアの近鉄バッファローズ買収話と時を同じくして、楽天が新球団設立によるプロ野球界参入に動き出す。

 IMJは楽天グループのウェブサイト構築をお手伝いさせてもらっていたので、(『IMJものがたり8 三木谷さんのオファーとは』に詳細)
https://note.com/capnovel/n/n8b42684cd81e
新規参入決定すれば即、球団ホームページを立ち上げる準備をしていた。

 経済界からなんとなく胡散臭く見られていたライブドアが排除されそうな中、経団連の重鎮などとも気脈を通じていた楽天・三木谷さんの硬軟合わせ持った手腕で、楽天が古いプロ野球業界に風穴を開けることになる。

楽天イーグルス社長には、ドラフト会議で田中将大(まあ君)投手を引き当てるなど「黄金の右手」と言われた島田享さんが就任。

島田さんはリクルート出身で、彼が投資家時代に公私ともご一緒することが多かったので、私も必然的に楽天イーグルスに肩入れしていくことになる。

 この後、ソフトバンクがダイエーホークスを買収する。
私は水島新司さんの漫画「あぶさん」が好きで、元々南海ホークスに興味を持っていたところ、福岡ドーム(現paypayドーム)時代にダイエーホークスとガッツリ仕事をして、すっかりファンになっていた。

楽天イーグルスの誕生は、一野球ファンとして苦しくも、嬉しい悲鳴だった(笑)。

さらに、携帯向けゲームプラットフォーム「モバゲー」で高成長を続けていたDeNAが横浜ベイスターズを買収。IMJグループも多くのケータイゲームをモバゲーで提供していたので、プロ野球界がグッと近い存在になって行った。

プロ野球界のオーナーは、読売新聞や毎日新聞、産経新聞、中日新聞といった新聞社が多勢を占める時代から、阪神、阪急、南海、近鉄、西鉄、東急、西武と言った鉄道(&流通)系が多勢を占める時代に移り変わり、ロッテ、日本ハム、ヤクルトという食品系も加わり、その後長らく変化がなかった。

ダイエーグループが新規参入した時も異端児扱いされていたのを近くで見てよく覚えている。

しかし、今や12球団しかないプロ野球界のうち3球団のオーナーがネット企業になっているところに経済社会の流れを感じるとともに、ネット企業の参入によってプロ野球の改革がかなり前に進んだように私は思う。
やはり新陳代謝は重要なのだ。

さて、話を元に戻す。
2005年ライブドアが、フジテレビの大株主だったニッポン放送の株を40.1%取得し、最大株主となり、世間では「放送と通信の融合」をテーマに大議論が巻き起こる。

 この頃、CCC増田社長と一緒にフジテレビの日枝会長(当時)と何度か食事をする機会があり、ホワイトナイトなど買収対抗策についても意見交換させてもらった。

結果的に、ライブドアによるフジテレビの買収は失敗に終わる。
それはそれで良かったと思うのだが、このピンチを機にテレビ業界を守るという考えではなく、積極的にテレビ業界がネットビジネスに取り組むためにIT企業の逆買収とか経営統合とかに着手していれば、日本発のネットフリックスのような企業が誕生していたのではないかと思うと少し残念である。

余談だが、日枝会長と軽井沢でゴルフをご一緒した後、別荘でロマネ・コンティを飲ませてもらった。その光景は明確に覚えているのだが、緊張で味をよく覚えていないのが、これまた残念なところである(笑)。

そして、ライブドア事件が起きる。
ライブドア事件とは、ライブドアの2004年9月期年度の決算報告として提出された有価証券報告書に虚偽の内容を掲載したとする疑いが持たれるなど証券取引法等に違反したとされる2つの罪で、法人としてのライブドアとライブドアマーケティングおよび同社の当時の取締役らが起訴された事件である。

この捜査の最中、さらに衝撃的な事件が起こる。
ライブドアの企業買収戦略に関与していたとされるエイチ・エス証券の副社長 野口英昭氏が沖縄のホテルで自殺したことが報道される。
警察は自殺と断定したが、様々な情報が飛び回り、状況からは自殺とは到底考えられないとIT業界内では持ちきりだった。
私自身も、得体の知れない恐怖を感じた出来事だった。
結局、裁判は、堀江貴文氏に懲役2年6か月、宮内亮治氏に懲役1年2か月、岡本文人氏に懲役1年6か月執行猶予3年、熊谷史人氏に懲役1年執行猶予3年、中村長也氏に懲役1年6か月執行猶予3年、公認会計士2人に懲役1年執行猶予4年、ライブドアに罰金2億8千万円、ライブドアマーケティングに罰金4,000万円と計7人と2法人に対して有罪が確定している。

ネット業界の先行きに立ち込めた暗雲、光が強い分だけ闇の深さも大きくなるのかもしれない。

 IMJの成長痛から立ち直りかけた我々は、より一層気を引き締めて経営にあたろうと決意した。


42 リーマンショックを乗り越える鮮度の良い情報とは?


急成長による組織の緩み、業績悪化など成長痛が2006年にIM Jを襲ったことで、我々は拡大主義を一旦ストップし、グループ内整理をし終えて、再スタートを切っていた。

 今思えば、あそこで立ち止まらずにイケイケ状態のまま、リーマンショックに直撃すると、もっと深刻な打撃を受けていたかもしれない。
 
 そういう意味では、ラッキーだったし、IMJは「ツキを持っていた」のかもしれない。

 実際のリーマンショックは2008年9月15日に起きたが、私の記憶は2007年だと思っていた。というのも2007年のアメリカ住宅バブル崩壊で、ファニー・メイやフレディ・マックなどサブプライム・ローン危機が既に勃発していたからだ。
 
 この時、CCCの増田さんやソニーを初めとするIMJの大手顧客の経営者の皆さんから海外工場の様子や金融&不動産の余波などについて、生々しい情報を教えてもらい、「これはトンデモないことになる」と、かなりビビったので「2007年危機」と脳にインプットされていたのである。
 
 その情報入手後に大幅な受注減に備えて、IMJは準備を始めた。
社員総会で「世界全体に危機が訪れるかもしれないので、全社で冬支度をする。この冬の厳しさはかつてないほど厳しいかもしれないので、相当覚悟して取り組もう。」と話した。

 こういう事態に備えて、IMJの制作体制は6割を内製、4割を外注という組織構造にしていた。最悪の場合は外注を減らしていき内製化を進めれば売上が4割減っても、利益は充分出せる。もちろん社員の雇用も守れる。
そのうえ、Eコマースサイトは急に店を閉めることはあまりない。売上を上げるための販売促進費は減額になっても、サイト運用費は安定した収益になるので、4割減になるリスクも少なかった。

 一般経費についても財布の紐を硬くした。それまでユルかった接待交際費なども基準を見直し、出銭を減らす筋肉質に変えていった。
 そんな冬支度が進んだ時に起きたのがリーマンショックだったので、実はそれほど打撃は大きくなかった。売上は10%ダウンでしのぎ、経常利益は前年同期比で2倍となった。

 しかし、そんなに全てがうまくはいかない。
 先日、三菱UFJがコロナショックにより、出資している東南アジア銀行の株価が下落し、株式評価損を3600億円出したとニュースになっていたが、IMJもリーマンショックによる株価下落で、出資していた韓国企業などの株式評価損を約7億円食らったので、当期利益は赤字になった。
 これはお金が無くなったわけではなく、瞬間的に資産の評価が下がっただけなので出資先の株価が元に戻れば資産価値も元に戻る。本業利益をしっかり出していたので私はあまり気にしてなかったが、単年度決算としてはIMJの株価を下げる要因になったのは間違いない。

 そんなこんなで、IMJはリーマンショックという厳冬を乗り越えたわけだが、やはり事前の冬支度が良かったように思う。それができたのは「鮮度がよく、深い情報」を入手できたから。
 世の中には溢れるほど情報があるが、大切なのはその情報の鮮度と深さ。現場を知り、視点の高い、深い情報を入手できると「先が読みやすくなる」。
私が師と仰ぐCCCの増田さんから、「経営者にはわかる力とできる力が必要」と教えてもらった。その「わかる力」すなわち先を見通す力、予見する力を持つためには鮮度が良く深い情報が必須だ。
 
 そしてたいていはそうした情報は人の頭の中にある。まだ具現化していないことも誰かの頭の中の企画や構想として存在している。ネット社会の未来を予測する時、評論家の本を読むよりソフトバンクの孫さんに直接話を聞く方が実現確率は高いと私は思う。ザッカーバッグやイーロンマスクに直接電話して話が聞ける人の「わかる力」は何年も先を行っているだろう。
 
 こうした情報を手に入れられるようになると、どこで働いても遜色ない。本当の意味での在宅ワークが可能となる。電話一本、メール一本で鮮度の良い深い情報がもらえるからだ。逆にいうと、そうした情報ネットワークが自分の周りに構築できてない状態で在宅ワークやテレワークに移行すると、取得できる情報が2次情報や3次情報など「誰でも知っている情報」ばかりになってしまうのではないだろうか。
 そう考えると、どんなにネットが発展しても、ヒューマンリレーションの重要性は変わらないと私は思う。より「可愛がられる」「愛想が良い」「好かれる」「チャーミング」な人が生き残っていくような気がする。
もちろん、それだけで良いわけじゃないけど(笑)。

 さて、話をもとに戻すと、IM Jはこうしてリーマンショックの荒波をなんとか大怪我せずに乗り切った。
大株主のCC Cと決算期を合わせるために、IMJは2007年度を半期決算に変更したので、2007年度決算は従来の1年間決算とは違い、6ヶ月間の決算となっている。だから表面上は売上も利益も1年間の半分くらいの数字になっているのだが、実際は6ヶ月の業績としては増収増益の好調な年度として終えることができた。 

余談だが、後の神戸市長選挙の真っ只中、この表面的な数字を見た某M氏が「樫野は売上を半減させたから社長をクビになった」というブログを書き、ネガティブ・キャンペーンを展開した。
あれはフェイクニュースの走りだったのだろう(笑)


43  藤原紀香とゲーム事業 

 少しゲーム事業についても書いておこうと思う。
 
 IM Jがゲーム事業に進出したのは、マリーガル・マネジメント(ゲームクリエイターをマネジメントするリクルートの関連会社)から三木裕明くんが転職してきたのがキッカケ。

2002年5月21日に、プレイステーション2用『プロジェクト・ミネルヴァ』をD3パブリッシャーから発売し、六本木のベルファーレで完成発表会を行った。

 このゲームは、女優・藤原紀香さんが登場キャラクターのモデルとして全面的に協力したサバイバル・アクション。主題歌はBoAという大作だった。

そして、我々世代を一世風靡したゲーム「ゼビウス」の生みの親で、「ゲームの神様」と言われていた遠藤雅伸さんと三木くんの構想で新会社「モバイル&ゲームスタジオ」を設立する。

 
当時のケータイゲーム市場は、DeNAとグリーが2大プラットフォーマーとして存在しており、そこにゲームを出していくのが主な戦場だった。

 モバイル&ゲームスタジオはPS用やアーケードゲームも作れる本格派のゲームメーカーだったが、2007年6月のiPhone発売以降はゲームのスタイルや提供の仕方も大きく変わっていく予感がし、次第に従来のゲーム業界に新しい文化を混ぜていきたいと思うようになる。

 そうした考えでM&Aしたのが、川口くんや小川くん率いるボトルキューブだった。
彼らの若さとフットワークの良さ、ケータイ世代の新しい感性がモバイル&ゲームスタジオと触れ合うことで化学反応を起こすような気がしたのである。

 例えば、ボトルキューブが開発したiPhone向けのゲーム。
 スマホに可愛い女の子の写真があり、その写真に向かって息をふぅーっと吹きかけるとスカートがめくれるという、ちょっとHでライトな感覚。

 ビデオの普及期もそうだったが、最初はこうしたソフトが市場を広げていくキッカケになるのはよくあること。

 この2社のグループ企業を軸にゲーム事業を進めていったのである。

 が、少しだけ私の中に迷いがあったのも事実だった。
 ゲームは確かに面白い。私も昔はドラクエにハマったし、マリオやドンキーコングもいっぱいやった。
 難しい勉強をわかりやすく、楽しくする教育ツールとしてゲームを使う場合もある。
 ゲームのストーリーに感動したり、人生の示唆を受けることがあるのも知っている。

一方、特定のカードやアバターのようなゲーム内アイテムを手に入れるコンプガチャ問題で、ユーザーへの多額の課金が発生するのが社会問題になったように、ゲームに使うお金、大量の時間、のめり込む気持ちを後押しする危険性も感じつつあった。

 品行方正なゲームばかりを作っていくとは限らない。
 ヒットを狙い、若年層を惹きつけて利益をあげることも必要になってくるかもしれない。その良し悪しの線引きを明確にするのも難しい。

 インターネットも社会にとって功罪両方あると思うが、間違いなく「功」の方が大きい産業革命だと私は思う。
が、ゲーム事業を進めていくことが、「功」を大きくすることになるかどうか、この頃なんとなく確信が持てなくなっていた。

こうした私の気持ちの揺れが、ゲーム事業を切り離していった原因のように思う。
そしてその後、モバイル&ゲームスタジオをサイバーエージェントグループに売却することになる。

44  CCC取締役就任・社外取締役の役割は?

蔦屋書店やTポイントを経営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CC C)の社外取締役に就任したのは2005年。
TSUTAYAのオンラインビジネスを強化するために、よりIMJとの連携を深めて行くという増田宗昭社長の考えだったと思う。
何より私が嬉しかったのは、時には大株主として、時にはIM Jの社外取締役として私の経営ぶりを見た上で、CCCの取締役に選任してくれたことである。
東証一部上場、年商3000億円超、社員数3000人超、店舗の従業員を含めると1万人以上はいたと思われる企業のコックピットの景色は、ITベンチャー経営で見ている景色とまるで違うものだった。
予実管理の方法や起案から決済に行くまでの流れ、そこで交わされる情報の質、毎回の取締役会はメモの宝庫で、持ち帰ってはI MJの経営に活かそうとした。
この時、CCCの経営体勢は既に社外取締役が過半数を占めるオープン・フラットなガバナンスになっていた。
私と同じ社外取締役として席についていたのは、角川書店の角川歴彦会長、楽天の三木谷浩史社長、ザ・アールの奥谷麗子社長、MKSパートナーズの松木伸男代表など、錚々たる顔ぶれ。
稀代の企画マンでもある増田宗昭さんのパワポによるプレゼンテーション(見られたことがある方はわかると思うが、本当に美しいプレゼン資料であり、かつワクワクします)にも、忖度なくダメ出ししてボツ案になることもあった。

この時に教えてもらった社外取締役の役割は、「オプションを出すこと」と「O Bを回避する」こと。
「オプションを出す」とは、執行部の起案に対して、社外取締役それぞれの知見と視点で、「こういう情報もある」「こういうやり方もできる」と選択肢を広げることだ。
同じ企業、同じ仕事、同じ風土で仕事をしていると思考回路も似てくるので、立ち位置や環境・バックボーンが違う人が新たな視点を持ち込むことは経営の意思決定の質を上げる上でとても重要だ。

もうひとつの「O Bを回避する」は、大株主であり創業経営者の意見は絶対になりがち。常勤取締役や社員が言っても跳ね返されるし、聞いてもらえないこともある。
しかし、オーナー経営者が時に暴走すると経営を揺るがす失敗をする。それを止めるのが社外取締役の大事な役割でもある。
そういう意味では、増田宗昭社長を遠慮なく止めることができる社外取締役が選任され、しかも取締役会の過半数いるというのは、安全装置が機能するガバナンスだったと思う。

その後、CCCとTBSがTBSドラマなどのコンテンツを発売・販売するDV Dメーカー「TCエンタテインメント」
https://www.tc-ent.co.jp/company/
をジョインとベンチャーで立ち上げる。
「樫野、エンタメとか映画とか強いから、その会社の取締役もやってくれ」
と増田さんに言われ、毎月の赤坂通いもスタート。

 最初の頃の作品「花より男子」のDV D ボックスは定価25000円くらいで発注が10万を超えていたと記憶しているので、一作品で約25億円もの売上。
 大ヒットテレビドラマの凄まじさを感じたものだ。

 実は、この時IM Jエンタテインメントは「のだめカンタービレ」のドラマ制作の準備に入っていたのだが、とある事情で制作できなくなり、「花より男子」が駆け抜けて行くことになる。
 あの時、あれがこうなっていれば、あの作品はこうなっていたかも・・・
 そんな複雑な気持ちで、「花より男子」の爆売れを取締役として見ていた(笑)。


45 大再編への仕掛け〜対等合併は実現するのか?〜

2008年、世の中がリーマンショックで大打撃を受けている中、
IMJの2008年3月期の売上高は186億円と過去最高を記録した。

CCCとの共同事業「Tモール」もカットオーバーし、
映画事業では、さだまさしさん原作、松嶋菜々子さん主演の「眉山」が
日本アカデミー賞で優秀作品賞、優秀監督賞、最優秀音楽賞、最優秀撮影賞、最優秀照明賞、優秀編集賞、優秀録音賞を獲得、宮本信子さんが助演女優賞に輝くなど、IMJにとっては悪くないスタートを切っている。

そんな中、私は次のステージ、1000億円企業への成長のため、
大きな仕掛けを考えていた。

IMJはウェブインテグレーションというカテゴリーで国内ナンバー1になったが、
次はカテゴリーごとの異業種格闘技戦が始まる。

カテゴリーナンバー1同士が相互に他カテゴリーに進出してきて、
陣地を取り合う戦いになるだろうと予測していた。
そうなると、上位3社しか残らない。そのために打つべき手は・・・。

モバイルインテグレーションは業界ナンバー1の座は近い。

あとはCCCの1800万人データベースとTSUTAYA店舗網と屋外ビジョンを核にしたSP市場で一番を獲り、SP&ITの盟主になること。

電通・博報堂が作ってきたマス中心のマーケティングから
あらゆるコンタクトポイントの複合プランニングとネットの融合による
「効果が出る&効果を測れる」 次世代マーケテイングモデルを確立すれば、
それは可能なことと思えた。

そうして、TV広告費2兆円の中からネットに移行するだろう20%=4,000億円と、SP市場2兆円のうちアウトドアメディアやデータベースマーケティングなどセールスプロモーション領域30%=6,000億円の合計1兆円のうち、10%のシェアを獲得する。

IMJを1,000億円事業に成長させるシナリオは描けつつあった。

しかし、どうしても自社事業だけではスピードが足りない分野がある。
それがSEO、SEM事業と、ネット広告営業だった。

既存マーケティングのリモデルを実現し、広告市場7兆円の2%シェアを獲得し、
1000億円企業の仲間入りをする。

そのために、私は企業の統合合併を進めようと考えた。
買収ではなく、対等合併という戦略を選んだのだ。

それが実現するなら、私は社長でなくても良い。
統合企業が後世に残り、業界をひっくり返すことができるなら、
喜んで身を引こうと考えた。

私は他カテゴリーの上位プレイヤーと合併交渉に乗り出した。

合併交渉のポイントは4つ。
事業シナジーをどう出すか?
組織風土の相性が合うか?
大株主の賛同が得られるか?
そして、大型合併ゆえの「のれん代」の発生をどうクリアするか?

そうして私は、ある2社に絞って、企業統合交渉を進めて行った。


46 理屈は感情にしてやられる〜ある家族の物語〜

 IT業界をあっと驚かせるX社との経営統合。
 お互いの強みを活かし、弱みを補填でき、私と先方の経営者との相性も良い。
 仮に経営統合すれば、売上500〜600億円、経常利益20億円〜30億円、時価総額は1000億円を狙えるポジションに躍り出る。

 先方は創業経営者なので株式の大半を握っており、彼がOKすれば先方の株主総会は通過できるだろう。

つまり、この経営統合が成功するかどうかの鍵を握るのは、IMJの大株主であるCCC増田宗昭社長だ。

 私と増田さんの年齢は一回り違う12歳差、干支は同じウサギ。
血液型も同じAB 型。大企業の社長なのに、夏はジーンズとTシャツで仕事をするカッコイイ経営者。パワポを使ったプレゼンテーションは、明るい未来を予見させ、聞く人をワクワク感でいっぱいにする。

NHKプロフェッショナルに出演された時の最後のセリフ
「仕事は、好きなヤツと、好きなことを、好きなようにやる」
今の私の生き方にかなり影響を与えた言葉だ。

私にとっては師匠であり、目標であり、年の離れた兄のような存在。
私がこんなに好きだったので、増田さんも私のことを可愛がってくれた。
増田さんとはウマがあう関係だったと思う。

今回の経営統合が実現すると、CCCが保有するIMJの持ち株比率は25%くらいまで低下し、CCCの連結対象から外れ、持分法適用会社になる。

ある意味、居心地の良いCCCグループから離れ、独立してIT業界の荒波を渡っていく覚悟がいる。

理屈では、IMJの次の成長のためには必要な戦略だと思いながら、感情ではもう少し増田さんと一緒に仕事がしたいと思っている。

増田さんもCCCのネット戦略のためにIMJが必要だという理屈と、
秘蔵っ子の樫野を近くに置いておこうという感情の両方あったのではないだろうか。

大株主の増田さんとの話し合いは、そうした思いが交錯し、
なかなか前に進まなかった。

私は、この理屈と感情の折り合いをどうつけるか考え、
パワポを作成し、増田さんと話すことにした。

この資料には、数字もグラフも表もひとつもない。
およそ経営者同士が話し合う資料とは言えない
「ある家族の物語」を私は想いを込めてプレゼンした。


ある家族の物語

1982年、ある街に男の子が生まれました。

男の子の名前は達也と名づけられました。
元気で、利発で、近所でも評判の子供だったようです。

その後、達也6歳の1988年10月には次男の巧が、
達也7歳の1989年12月には、弟の廉太郎が生まれました。
タイプこそ違う3兄弟ですが、お互いの良さを補いあって、
ケンカをすると3人で近所の悪ガキを蹴散らしていたようです。

それから楽しい毎日が過ぎていきましたが、
1995年、達也が中学校に入る13歳の時に事件が起こります。

達也が突然、アメリカに留学したいと言い出したのです。
それまで英語が得意だったわけでも無いのに、憧れと持ち前のガッツで、
達也は受験を突破し、一人でアメリカに渡ることになったのです。
家族はびっくり。達也のことももちろん心配ですが、
家族の元気の素だった達也がいなくなることで、
父さん母さんや弟の巧や廉太郎も不安で一杯になりました。
それからの5年は達也にとっても悪戦苦闘の日々だったと聞きますが、
その中学・高校5年間の留学経験は、かけがえのない経験であり、
達也がより大きく成長する
キッカケになったのも事実です。

そして1999年2月、達也は日本に帰ってきました。17歳の冬のことです。

帰国して早々、またしても達也は周囲を驚かせます。
アメリカで付き合っていた女性と結婚すると言い出しました。
7月には赤ちゃんまで生まれると言うのです。
回りがどう反対しようが、すると言いだしたら周囲の意見を聞かない達也は、
国際結婚を押し通しました。

そして、めでたく1999年7月に、待望の長男・徹が生まれたのです。

子供が出来て、下宿では手狭になった達也は、
年の瀬も押し迫った12月、新居を渋谷の一等地に構えます。

年が明け、2000年3月、無事に日本の高校も卒業し、
4月から晴れて社会人の仲間入りをし、ビジネスという新たな冒険に
突入していくことになるのです。

2000年から2005年までの5年間の達也の仕事は順風満帆。
時には失敗することもありましたが、持ち前の明るさと人望で、
達也はどんどん成長していきました。

しかし・・・・。
またしても家族に衝撃が走ります。
達也がアメリカ時代にお世話になっていたディジーおじさんが
交通事故で無くなり、
そのディジーおじさんの3人の息子(ハリー、ケープ、ジム)が
身寄りが無くなって困っているので、引き取って育てると言い出したのです。

ハリーは13歳の中学6年生、ケープは11才の小学5年生、
ジムはまだ9歳の小学3年生でした。
達也、23歳の秋のことです。

この時、息子の徹は6歳、日米のハーフなので多少の英語も出来たので、
英語しか話せないハリー、ケープ、ジムの3人と年が近いこともあり、
仲良くなりましたが、
家族の皆は、達也の独断に違和感を持っていたのも事実です。

それから2年、同じ屋根の下に住むと、
気持ちも通じ合ってくるのが、人間の良いところ。
血はいろいろですが、なんとなく達也を中心に、
愉快なファミリーが形成されつつありました。

ハリーは、長男だけあって学業優秀、将来は学者か先生になりたいという
夢を持っていました。

ケープは、堅実派、周囲の信頼も厚く、ビジネスの世界で成功しそうな気配です。
末っ子のジムは、勉強はそんなに得意ではありませんが発育は良く、
既に背丈はハリーやケープを越えて、一番の身長です。
また、どこか危なっかしい存在なのですが、将来の夢は松井や松坂のように
メジャーリーガーになる!とか、ハリウッドで映画プロデューサーとして大成功する!なんてことを真顔で話し、時々見せる才能と恵まれた体格で「ひょっとしたらなるかも?」と家族に感じさせる人気者でした。

寺内貫太郎一家のようなドタバタな日々が過ぎていた2007年9月のことです。
この年、達也25歳、ジム11歳の出来事です。
ジムが、中学からアメリカに武者修行に出たいと言い出したのです。
家族の意見は真っ二つ。賛成派、反対派に別れての大議論。
家族が離れて暮らす寂しさを何度も味わっている達也は、一緒に暮らすことをガンとして譲りません。特に世話になったディジーおじさんとの約束で、「立派に3人兄弟を育てると約束した」ので、手元を離すなんてもってのほかだったのです。

それから何度も何度も話し合いは続きました。
そして、最後に達也の背中を押したのは、ジムの一言です。
「達也おじさんだって、中学校からアメリカに飛び出したんでしょ?
僕も達也おじさんのように、もっとBIGになりたいんだ。
アメリカで揉まれて、強くなりたいんだ。お願いだから、行かせてよ。
どこにいたって、家族だし、僕は一生、達也ファミリーの一員のつもりなんだから!!」

達也は覚悟を決めました。
そして、気持ち良く送り出してやろうと思いました。
かつて、仰木監督が野茂を 伊東監督が松坂をメジャーリーグに送り出したように。
 「オマエの気持ちはわかった。俺もそういう時期があったし、
何より、あの5年間が俺にとっての財産になってるのも事実だ。
かなりオマエの性格を考えると、大丈夫か?と不安だけど(笑)、
ここは思い切って大海に放り出してやる。
絶対、泳ぎきれよ。そして、びっくりするくらい大きくなって帰って来いよ!」

ジムは涙が止まりませんでした。
この恩返しは、きっときっと3倍にも4倍にもして返そうと心に誓いました。
 
兄貴二人は笑ってます。しょうがないヤツだなぁって。

だけど、それがジムの良さでもあることをわかっているので、
それ以上は何も言わず、ただ無事の帰還を祈るばかりでした。 
 
年が明けて2008年。
ジムは旅立ちました。
大きな夢をカバン一杯に詰め込んで。
 
次に会うときは、きっとジムは一人の立派な大人になって、
帰ってくるに違いありません。
意外と早く、アメリカで一旗挙げて、有名になってるかもしれません。

その日が来るまで、見守り続けてください!!

それから4年後の2011年、
世の中は、地上波アナログ停波で大きな転換期を迎えていた・・・

ジムが達也のもとに帰ってきました!
それも見違えるほど、立派に成長して。
背丈は達也を越えるくらいに大きくなっています。
本当の勝負が始まるこの大事なときに、
ジムはそれに立ち向かうだけの力と仲間を連れて、戻ってきたのです。
達也は4年前を思い起こし、
「あの時、思い切って決断してよかった。やっぱり人と人をつなぐのは、
心だな」と。そうです。達也一家は資本連結された家族ではなく、
今までになかったような「ハート連結された」一家へと生まれ変わったのです。
 
                    おしまい

 勘の良い方ならお気づきだと思うが、
これはCCCグループ各社を擬人化した物語。

達也はツタヤ、巧はTCM(旧アダムス)、廉太郎はレントラック、
達也のアメリカ留学は、増田さんがディレクTVを立ち上げた話、
徹は、TOL、つまりツタヤオンライン。
ハリーは、デジタルハリウッド、ケープはデジタルスケープ、
そしてジムはIMJである。


私のプレゼンが終わったあと、
増田さんは少し微笑んで
「わかった」と私に告げた。

47 50億円ののれん代とセカンドベスト

大株主の了解を取り付けて、X社との経営統合の話を進めることになった。
 事業計画のすり合わせ、シナジーを生み出す方法、組織融合の仕方、社名など、協議すべき事項は山ほどある。

 それぞれの社員の気持ちも考え、いきなり合併してひとつの企業になるのではなく、ホールディングカンパニーを設立し、その傘下に統合前の2つの会社がぶら下がる形にしようと考える。これまでの業界でのポジションやブランドを考えると、社名はしばらく残した方が営業的にも得策だろうという判断だ。
 
かつて、銀行業界が再編で合併を繰り返し、名前がコロコロ変わり、いくつもの銀行名がくっついたような長い社名になったかと思えば、しばらくしてシンプルな銀行名に変わるのを目にしてきたが、その大変さを我が身のこととして感じた。
 
頭取人事も中心になった銀行がずっと頭取を出している合併もあれば、出身銀行それぞれから交互に頭取を出し合う場合もあるように、我々の場合は合併当初は先方社長が会長、私が社長。融合が進めば、私が会長になり、先方の後継者が社長に就き、その後は実力次第の人事にしていく方針で一致していた。

 そして、お互いの取締役が顔を揃えた会食をセッティング。
 最初はお見合いのようにぎこちなかったが、酒が入るとともに打ち解けていき、ケミストリーも合っていきそうな気がする。

 ところがここで大きな問題が持ち上がる。
 お互いの時価総額が、純資産に比べて大きかったため(PBRで約10倍前後)、経営統合すると、時価総額と純資産との差額を「のれん代」として償却していかないといけないことが判明。

 監査法人や顧問弁護士にいろいろ相談するものの回避する手立てがなく、今後5年間はのれん代を30億円〜50億円費用として計上することになり、そうすると合併会社の経常利益も5年間赤字が続いてしまう計算だ。

 将来に向けての大きな再編につながり、事業を育てる意味では間違っていないと思うものの、目先の業績結果に嫌気がさし、株主が離れ、株価低下を招く恐れは充分ある。
 現在のような株式市場で、赤字でも株式上場し、将来の成長期待で株価が形成されている相場ならまだしも、リーマンショックで株式市場が冷えているこの時期にとても株価を支える自信は持てなかった。
 
 そして数ヶ月後、私たちは経営統合を断念した。

 今思っても、やりきりたかった出来事のひとつ、未練が残る思い出である。

 ただ、実は断念を決めることができたのには、理由があった。
 別のY社との経営統合を私は計画していたからだ。

 一番ベストな仕上がりは、IMJとX社、Y社の3社統合で一気に業界シェアを上げていく戦略だったが、のれん代問題でX社との経営統合は断念。

しかし、Y社ならリカバーできる程度ののれん代なので、こちらは実現可能と踏んでいた。しかも、現場は既に協業を重ね、信頼関係も構築できている。

 こうして、セカンドベストな道であるY社との経営統合に私は傾注していくことになる。


48   Y社との経営統合

 Y社の創業者は実はリクルート出身。初めて会った時から会話も弾み、相性が良かったのを覚えている。現場レベルでもお客様に対してウェブの構築とSEOやSEM対策について協同提案をするなど事業の親和性も高いのは実証済み。お互いの強みを補完し、強力なパートナーになれると確信していた。
 これは私の直感だが、Y社の社長は今の会社を引退し、別の事業に興味が移ってきているようで自身が立ち上げた企業の後継者を探していたように思う。社内にはその主力事業を育てた功労者がいるが、まだ少し若いので彼が社長の器になるまでの後見人的な意味合いで私を見ていたのかもしれない。
 私もいずれは政治の道に進むことを考えていたので社長の椅子にしがみつくつもりもないし、独立系のBtoBネット企業で一大勢力を作れるなら喜んで彼の後見人になろうとも思っていた。

 こうしてトップ同士のそれぞれの思惑も合致。大株主の増田社長のOKも取り付けている。のれん代も年間数億円レベルで収まりそうなので、合併による収益押上で充分カバーできる範囲。

話はトントン拍子に進むかに思えた。

しかし、この案件を初めて取締役会に上程した日、社外取締役の一人が異を唱えた。

「この合併が本当に事業シナジーがあるかどうか、半年くらいかけて検証した方がいいのでは?」

「何を呑気なことを言ってるんだ。」私は切れそうになった。

既に協業事例もあり、事業部長レベルも相性の良いことを認めている。
このスピードの速いIT業界で半年もかけて検証していたら時代が変わってしまう。

この経営統合がどれだけ大きな意味があり、成長に不可欠かを話しても全く埒が開かない。

今日のところは私の根回し不足を悔い、経営統合プロジェクトを立ち上げることだけ取り付け、検証作業に入ることを決めて、この日の取締役会議は閉会した。


それから役員会の度に、私は何度も実例をあげ、説明をし続けた。
が、社外取締役は首を縦に振らない。

3ヶ月経っても話が進まないことに痺れを切らした私はある行動に出た。

「MBOを考えているのですが、協力していただけませんか?」

私は経営陣によるIMJ買収、つまりマネジメントバイアウトをして、反対株主から株式を買取り、経営統合を進めようと著名なベンチャーキャピタリストに相談を持ちかけたのだ。

「MBOの目的は?」

「今のIMJの株価はPBR1倍を割っていて、かなり割安な水準です。この先の成長戦略を考えて、ここで大胆な戦略に打って出たいのです。そのためには既存株主からの制約を外し、経営の自由度が必要だと考えています」

経営統合の件は、インサイダー問題もあるので具体的な話はせず、業界再編の主役になりたい意向だけ伝えた。

「わかりました。この話、乗りましょう。ただし、一つ条件があります。
樫野さんがMBO後も最低3年間は社長を続けること。
それはOKですよね?」

「ご理解いただき、ありがとうございます。その条件も含め、他の役員の合意をとり、また報告に参ります」

IMJのMBOには、株価が下がっているとはいえ、約70億円のキャッシュが必要。それを快諾してくれたのだから小躍りしても良いくらいだが、私は素直に喜べなかった。

心の中は、次の神戸市長選挙に立候補する気持ちになっていたので、3年間の社長続投の縛りを受けることができない。

私はこの時44歳。46歳の時に行われる神戸市長選に立候補しなければ、さらに4年も待たなければいけないので50歳になってしまう。

ベンチャーキャピタリストにとっては当たり前の「そんなに難しくない条件提示」が、私にとって重くのしかかった。

このままIMJの経営を続け、思い描いた未来ビジョンに突き進むために政治の道を一旦はお預けにするか、初志貫徹して政治の道に進み、経営統合もMBOも後継候補の取締役に判断を任せるか。

ベンチャーキャピタル訪問の数日後、社外取締役の一人がヒソヒソと声をかけてきた。

「樫野さん、まさかMBOしようとか考えています?」

誰かから情報が漏れている・・・。

「いいえ。考えたことはありますが、ないですよ。はい、大丈夫です」

そう、答えた。
でも、選挙に出ようと思っていることや、その場合は一年後に退任することはさすがに言えなかった。

いずれにせよ、早く結論を出さないといけない状態になっている。
私は迷いを抱えたまま、常勤取締役4人を集め、私の思いを打ち明けた。

49  社長退任予告

 「ちょっと真面目な話があるので、集まってもらえますか?」
 私は4人の取締役を呼び、話を始めた。
 2008年3月のことだった。

「取締役会の議論のとおり、Y社との経営統合に社外取締役が首を縦に振らないため、進展していないのを、みんなも知っていると思う。
 IMJの大きな成長のためにはここを乗り越えていかなければならないと僕は思っている。
 それで、先日ベンチャーキャピタルに相談に行ってきました。MBOできないかと。
 返事はイエス。ただし、僕が社長を3年続けることという条件を付けられた。」

「じゃ、良いじゃないですか。MBOしましょうよ」
予想外にみんなの意見はまとまっていた。揺れているのは僕だけのようだ。

「実は、来年10月の神戸市長選挙に立候補しようと考えているので、僕はその3年の縛りを受けられない。」

「えー」
「なんですか、その選挙って。本気で考えているのですか?」
「だめですよ、そんなの。この大事な局面で樫野さんがいなければまとまらないです」

突然の話に反対の嵐。

みんな、僕がいつか政治家になろうとしていることは酒の席で聞いたことがあると思う。が、それがいきなり来年、しかもIMJが大きな岐路に立っている時で、僕自身の進退がファイナンスの条件になってしまっているということに驚きを隠せないようだった。

 でも、不思議なものだ。
 迷っていたはずの僕の気持ちは、「立候補」を言葉に出して話したことで、そちらの方向に動いていくのを感じる。

 どうして立候補したいのか、それは子供の頃からの夢だった。
それに、今の神戸をほっとけないこと、そして来年2009年のチャンスを逃すと市長選挙は4年に一度しかないのでさらに4年待たないといけない。
そうしたことをみんなに話しているうちに、どんどん僕の気持ちは固まっていく。

 今日1日で理解を得るのは難しいのはわかっている。
だから、こう告げた。

「僕ももう少し考えるけど、みんなもよく考えてみてほしい。
で、選挙に出る方に決めたら、一年後の2009年の3月に社長を退任します。
その時は、この4人の中の誰かに次の社長を任せたいと思っているので、自分なら諸々の懸案をどうするか、考えてみてください」


この話し合いによって、逆に僕の気持ちは市長選への立候補で固まることになる。
そして、その気持ちを胸に相談していたベンチャーキャピタルを訪問した。

「せっかく相談させてもらったのですが、先日の『3年間は僕が経営を続ける』という条件を飲めなくなりました。
とても申し訳ないのですが、今回の件は一旦白紙ということでお願いします」

そして、非常勤取締役にも改めて1年後に社長退任したいという意向を伝えた。

Y社との経営統合の最終判断も新経営陣に任せることにした。
当事者が腹落ちするまで話し合って決めるのが一番上手くいく。
いなくなる僕が口を挟まない方が良いと判断したのだ。


だが、結局Y社との経営統合は成就しなかった。

そして、僕がIMJ社長を退任してから数年後、
社外取締役が所属する企業がY社を子会社にした。

これは偶然なのか?

真実はわからない。
だけど、IT業界のBtoBプレイヤーの勢力図を大きく変えるビジョンが潰えたのは事実だった。


50  マーケティングのリモデルと新たなM&A

2008年から2009年にかけて、私は一年後の社長退任までにやっておかなければならない事を急ぎ足で進めていた。
そのひとつが、新しいマーケティングの型作りだ。
ネット時代は、有料広告よりも無料の信頼性のある口コミなどの方が、かなり威力があり、コスパも非常に良い。
「バズる」とか「バイラル」という言葉が流行る以前だったが、いわゆるAISASモデル(Attention→Interest→Search→Action→Share)の事例を作っておこうと思っていたのだ。
そのために、素材メーカーの立場からキシリトール・ブームを仕掛け、ガムを中心とするキシリトール製品市場をゼロから2000億円規模へと成長させたと言われる藤田健人氏と組み、ジョイントベンチャー株式会社3iを立ち上げ、統合ウェブマーケィングコミュニケーションの提案をIMJクライアントへ始めていた。

 今でも残念に思うことがあるが、IMJは再び成長路線に乗りつつあったので良い話が舞い込んでくる。私が退任を決めるもっと前に話したかったと何度思ったことか。

そのひとつが、誰でも知っているキャラクターの権利を保有するU社を子会社に持つT社の買収だ。

私は即座に「やるべき」と判断したが、あとを任せる予定の役員陣は「今後その業界の先行きは明るくない」とネガティブな反応。

この時、T社の時価総額は40億円程度。売上が200億円、経常利益は5億円程度に落ち込んでいたので、買収額は20億円で子会社化できる。業績は一時的な落ち込みなので、回復可能だと私は睨んでいた。

しかし、結果的に去りゆく私が強引に買収話を進めるわけにはいかず、これも断念。

その後、T社は業績が急回復し、経常利益は10億円を超え、時価総額も200億円になる。もう手が届かなくなってしまった。

こんな話もあった。
数々の映画でヒットを飛ばしているR社からIMJとの合併話を持ちかけられたり、CG業界の大手企業からも「自分たちの後継者として樫野さんに我が社を託したい」という涙が出るような嬉しい話もいただいた。

また、 経営陣の不祥事で多額の借金を抱えた有名なポータルサイト企業も新しい大株主を探して、私のところに経営陣が来られた。

その社長は、この時既にポータルサイトとしての限界を感じていて、新しいサービスへ舵を切る話をされていた。それが今や国民的コミュニケーションプラットフォームになるなんて思いもしなかったが(笑)。

しかし、この話もお断りした。

最後まで責任を持って、お付き合いすることが私にはできないと
わかっていたからだ。

どの相手も自分が丹精込めて育てた企業とその社員の命運をかけて、IMJと、いや私と組もうとしてくれている。

そんな真摯な気持ちに嘘はつけない。

この方々だけには、私は一年後に退任することをお伝えした。

本当は一緒にやりたい。
偽らざる本音をグッと抑え込んで、私は頭を下げた。

51  新役員拡充

もうひとつやるべきことは新役員体制の決定だった。

2008年の秋には、私は次期社長をIMJモバイルの廣田武仁に任せようと考えていた。IMJのESP事業部とユニークメディアとの合併を成功させ、三井物産の子会社だったスイングの吸収合併もこなした経営手腕を見込んでのことだ。

樫野退任後に混乱が生じないように、もう一度人心を掌握するには廣田のようなベタベタで粘り強い人情派が適任だと考えていた。

廣田を呼び出し、社長就任を打診したところ、返ってきたのは、

「イヤです」という答え。

「樫野さんの後とか、まだ無理。受けたくない」

すんなり引き受けてくれるものとばかり思っていたので、
想定外の反対に私も戸惑う。

廣田との話し合いは、ここから何度も続き、
結局最後は廣田が折れてくれて(というか、元リクルートの先輩後輩の仲で押し切ったというべきか)、後継指名が決まった。

廣田は社内マネジメントに抜群の強さがあるが、外交とか戦略立案がめちゃくちゃ強いわけでもないので、その部分は取締役を増員して、チームとして補完していってもらおうと考えた。

経営戦略を担ってもらうために招聘したのは、川合純一くん。IMJを辞めた後、現在は Google日本法人の上級執行役員として活躍中だ。

そしてもうひとりは、ソフトバンクを経て、上場企業のゴメス・コンサルティングで社長をしていた西村徹くん。業界内の外交は彼に任せたいと考えていた。

それから、東急エージェンシー、博報堂、フロンテッジでクリエイティブ・ディレクターをしていた杓井一夫さんをクリエイティブ強化のために執行役員として迎え入れた。

現役員の堀口雄二、渥美敬之、田岡敬に加え、廣田和也、久田裕通、加藤圭介などこれからを担う若手経営陣と新加入のメンバーが廣田武仁を支えていく布陣。

この経営チーム組成に目処がついたところで、
私の役割は終わることができる。

そして、2009年3月25日、
私が社長から会長になるプレスリリースをIMJは発表した。
http://ke.kabupro.jp/tsp/20090325/140120090325034095.pdf

52  プリンセスプリンセスの 『M』

接待、セクレタリー、クルマというSSKを持ったまま財界活動をいそしむという「憧れの会長生活」をしている暇は私にはなかった。
 普通、会長職は2年とか4年とか、長ければ10年やる人もいる。要は新社長が会長になるまで続ける人が多いと思うのだが、私の場合は当初からわずか3ヶ月の予定だった。
 というのも、半年後には神戸市長選挙がある。
 4月に社長から会長になり、6月の株主総会で取締役を退く3ヶ月間で、新社長への引き継ぎを済ませなければならない。
 私は退任後に影響力を行使しようなんて思っていなかったし、いつまでも会社にうろうろしていると、廣田新社長もやりにくいはず。10年間、心血を注いでIMJを作ってきたのだ。隅々まで樫野イズムは浸透している。そんな私が意見すれば、社員も私と廣田のどちらを向いて仕事をすれば良いのかとか迷ってしまう。
 創業者の藤本真佐社長が私にバトンを渡したあと、見事なまでに関与せず、私のやりたいようにやらせてくれた。もちろん、困った時に相談にいけばいつでも相談に乗ってくれた。
 私もそうしようと決めていた。
 問題があれば、相談にくるだろう。そうでない限り、口出しはしない。

 そして、異例の「たった3ヶ月だけ」の会長職はそうして過ぎていった。

 会長としてわがままを言ったのは、このIMJに集まってくれた大好きなメンバーとちゃんとお別れ会をしたいということ、そしてその総合プロデュースをIMJの7周年パーティで大活躍したウッチーと村田くんのコンビニお願いしたいということだけ。

 そのウッチー&村田との事前打ち合わせ。
 内容はすべてお任せ。2人のセンスで楽しく思い出に残る会にしてくれたらそれでOK。
 そうすると、彼らからこんなプランを提案された。
 「みんなが樫野さんを送るためにスピーチや歌や踊りをすると思いますが、最後に樫野さんからみんなにサプライズを提供するのが面白いと思うんですよ。台本にはない形で、最後の樫野さんの締めの挨拶の後、アンサーソングを歌う。どうですか?」

  サプライズを提供する。IMJのクレドの一節。それをやってと頼まれたら断りようがない(笑)。
 「歌か・・・・まぁ、わかった。やってみるわ。で、曲は俺が選んで良いの?」
「できたら、樫野さんに歌って欲しい曲があるんです。その曲でお願いしたいんですけど」
「曲、決まってるの? 何?歌えるかどうかわからんで」
「プリンセスプリンセスの『M』です」

「プリプリの他の曲なら知ってるけど、『M』は歌ったことがないから、歌えるかなぁ。ちょっと練習してみて返事するわ」


そんなやりとりをして、大きな宿題を抱え、ゴールデンウィークに神戸に帰省した。
この帰省中に兵庫県の選挙管理委員会に行き、後援会と資金管理団体の設立届を提出。そしてごく近しい人にだけ立候補することを伝えた。

用事を済ませ歩いていると、目に『ジャンカラ』の看板が飛び込んでくる。
「ちょっと練習しておこうかな」
そんな軽い気持ちで、『1人カラオケ』を三宮で初体験することになった。

ちゃんと歌えるようになるまで、『M』を歌う。『M』だけ何度も繰り返し入れる。
メロディラインを覚えようという段階から、想いを込めて歌うという感じになってきた瞬間、その歌詞が私の心に広がった。

いつも一緒にいたかった
となりで笑ってたかった
季節はまた変わるのに
心だけ立ち止まったまま

あなたのいない右側に
少しは慣れたつもりでいたのに
どうしてこんなに涙が出るの
もう叶わない想いなら
あなたを忘れる勇気だけ欲しいよ

・・・・・・・

涙があふれた。もう歌えなかった。
 
IMJを離れるのがこんなに寂しく、みんなと別れるのがこんなに悲しいなんて。

 「1人カラオケ」で良かった。
人めをはばかることなく、私は思いっきり、そこで泣いた。
 
 株主総会も無事に終わり、送別会は恵比寿のラ・ボエムで行われる。
 この日までのアクシデントは一件だけ。
ウッチーと村田から
「樫野さん、送別会の準備をしていたら経費がかかりすぎて、参加費だけで賄えそうもないんですよ。足が出たら樫野さんに補填してもらって良いですか?」

 いったい、何をやろうとしてるんだ?(笑)
 まぁ、参加費はなるべく安くて、多くのメンバーに参加してもらった方が嬉しいので、OKを出す。
 
 そして開宴。
 歌や踊り、スピーチが繰り広げられ、みんなと一緒に楽しんだ運動会やサバイバルゲーム、役員全員で頑張った和太鼓の映像が映し出される。


 楽しい時間はあっという間に過ぎる。
「宴たけなわでございますが」という司会者の声で、最後の挨拶をするためにステージへ。
10年間の思い出や、みんなへの感謝を延べたあと、シナリオとおりに司会者が
「実は、樫野さんからみんなへのアンサーソングを用意してあります。それでは樫野さん、お願いします」

『M』のイントロが流れる。

歌おうとした瞬間、新たな映像が映し出される。
スクリーンには、妻や娘の写真、そしてなんと神戸の実家の母のメッセージが流れ始めた。

「孝人。長い間、ご苦労さまでした。皆さんに支えられて・・・」

なるほど、そういうことか。
アンサーソングというサプライズに重ねて、更にサプライズ映像で僕を驚かせようという演出。

さすが。この神戸までの交通費などで経費の足が出たわけか(笑)。

たぶん、普段の僕なら、この時、泣いていただろう。
でも、三宮の1人カラオケボックスでもう涙は出し尽くしていた。
サプライズのサプライズで、私の涙を添えようと画策していたのかもしれないが、
それには応えることができなかった。ごめんな、ウッチー&村田くん。

 ありがとう。みんな。
 頑張るよ、神戸でも。

 最後の別れをして、僕は次のステージである政治の世界へ向かっていった。

                            

53(番外編) クリエイターマネジメント

IMJものがたりは52話完結のつもりで書いていました。

が、「新型コロナウイルスの感染拡大を受け、東宝はアニメーション映画「名探偵コナン 緋色の弾丸」「映画クレヨンしんちゃん 激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者」、歌手中島みゆきさんの名曲を映画化した「糸」、テレビドラマの劇場版シリーズ「コンフィデンスマンJP プリンセス編」の延期を発表した」という新聞記事を読み、ある記憶が蘇ってきて、少しだけ続きを書き記します


さて、思い出したのは2011年の東日本大震災。
 この時、IMJエンタテインメント(IMJグループの映画製作会社:私が社長退任後にCCCが株式を買い取り、現在は社名をC&Iエンタテインメントに変更)は総製作費10億円をかけた「のぼうの城」の劇場公開を控えていた。

 「のぼうの城」は、第29回城戸賞(2003年)を受賞した脚本「忍の城」をノベライズし、映画化した作品。2万の石田三成軍に対し、たった500人で戦いを挑んだ「でくのぼう城主」の物語。監督はIMJエンタテインメントがエージェント契約をしていた犬童一心さんとシン・ゴジラの樋口真嗣さん、主演は野村萬斎さんと榮倉奈々さん。

 当初は2011年9月公開予定だったが、ラストの「水攻め」のシーンで人間が水に飲み込まれてゆく描写がリアルすぎるため、東日本大震災の津波被害に配慮し、劇場公開を延期することになった。

 この判断自体は良かったと思うが、経営的にはメチャクチャ痛い決断だった。製作費10億円はクランクイン前に先に支払い、資金回収は劇場公開後そしてDVD発売後になる。通常の資金回収でも出資から1年半後くらいだが、いつ劇場公開できるかわからない、下手すると「お蔵入り」して出資金が返ってこないばかりか、映画を完成させたスタッフ・キャスト全員の苦労が水の泡となる。

 結果的には、一年遅れの2012年11月に公開され、延期による損失は金利分くらいで済み、映画は「累計興行収入28.4億円を記録するヒット作となる。
さらに、第36回日本アカデミー賞において10部門で優秀賞を受賞し、美術賞では最優秀賞を受賞し、IMJエンタテインメントの代表作のひとつになった。

 上に挙げた東宝の映画作品に限らず、コンサートや各種イベント業界の方々も本当に苦しい状況になっていると思うが、一刻も早くコロナが終息し、泣く泣く延期になったエンタメ作品を再び観ることができることを楽しみに待ちたいし、多くの人に観に行ってもらいたいと思う。

 ところでIMJエンタテインメントは、なぜ映画業界へ後発参入し、良い作品を創り出し、一定のポジションを取ることができたのか?

 それは若手で優れた映画監督のエージェント(マネジメント)をすることで、その監督と映画を制作するならIMJエンタテインメントと組むという図式を作ったからだ。今ならユーチューバーをマネジメントしているUUUMのようなイメージだと思ってもらっていい。
 
 劇場とかDVDメーカーなどは資本体力が必要だが、クリエイターマネジメントは大きな資本はそんなに必要ない。クリエイターとの信頼関係と一緒に作品づくりをするプロデューサー(出版社でいう作家と編集者の関係)がしっかりしていれば小資本でも十分勝負できる。
 また、当時の映画監督のギャラはかなり低く、映画が当たっても収入は増えない構図だった。監督は国策で映画産業を育てようとしてから、映画監督のギャラも高く、一本ヒット作品を出すと一生食べていけるくらいの成功報酬を出していた。
 
 IMJエンタテインメントもエージェント契約をしている監督には成功報酬を出す契約をし、「作ってなんぼ」ではなく「当たればもっと嬉しい」を持ち込んだから、契約監督の数が増えていったのだ。

 さらに、クリエイティブの青田買い的戦略で取り組んだのが「役者」と「映画監督の卵」の養成だ。
 リクルートが渋谷ガーディアン・ガーデンという若者の創作活動を支援するメセナ活動を展開している時の担当課長だった私に、当時のメンバーであった菅沼くんから連絡があった。(菅沼くんほど、クリエイターとの付き合いが上手く、面倒見が良くて、芯のぶれない人はそんなにいない。彼から教えられたことも本当に多い)

 「ガーディアン・ガーデンで演劇部門の審査員をしてもらっている演劇ぶっく社が経営難なのですがIMJで支援してもらえませんか?」

 演劇ぶっく社は老舗の演劇雑誌の発行と、役者や脚本家、映画監督の養成スクールを事業とする会社で、私自身も演劇ぶっく社の社長とは旧知の仲だった。

 映画事業の重要要素である役者の養成ができ、映画監督の卵を見つけ育てるのは、私たちが狙っている戦略にドンピシャ。かなり事業シナジーも見込めそうなのでM&Aすることを決め、演劇ぶっく社にIMJグループ入りしてもらった。
  
 ただ、経営状態を立て直すには、そのままの体制では無理。そのためにヘッドハンティングしたのが現在の社長であり、私のリクルート同期の市橋浩治くんだ。
 皆さんご存知の「カメラを止めるな」で大ヒット作品のプロデューサーでもある。「カメ止め」の監督や役者はあちこちで活躍中だが、自分たちで発掘し養成した監督や役者をIMJエンタテインメントでマネジメントし、多くの観客を魅了する作品を世に贈り出していく姿を私は構想していた。

 演劇ぶっく社のM&A後、少し経ってIMJグループ内にスタジオスワンという別ブランドの映画制作会社を設立し、WOWOWからスカウトして社長に就任してもらったのが松橋真三くん。
「るろうに剣心」「銀魂」「キングダム」など、今をときめく映画プロデューサーとして大活躍している。

 あの頃一緒に頑張った仲間が今、大輪の花を咲かせているのは本当に嬉しいし、励みにもなる。
 彼らの完成度の高い作品は、劇場でキャラメルポップコーンとビールを買い、趣味的に楽しませてもらうとして(笑)、私はまだ世に出ていない、チャンスをつかもうとモガいているクリエイターたちと小さな作品づくりを始めたいと思っている。
 そんな思いを込めて、新しく設立した会社の社名をCAP(Creaters & Producers)と名付けた。

54(番外編) 嵐の活動休止に寄せて

 嵐が活動休止するため、年末番組のあちらこちらで最後のコメントを聞くことが多い。
 21年間という長きに渡り、トップアイドルを続けてきたことも凄いが、
ラストまで2年という期間を設けて、ファンや関係各所に気配りしながら
その日を迎えたことに、彼らの人柄や賢さを感じる。

 IMJエンタテインメントの作品としては、
犬童一心監督が嵐の主演で「黄色い涙」を制作した。

現場にも何度かお邪魔したが、アイドルなのに気さくな感じで
人気の理由がわかるような気がした。

当時のエンタメの三木裕明社長から
こんなエピソードを聞いたことがある。
「この前、渋谷の交差点にいたら、『三木さーん』と遠くから声をかけられた。
誰かと思って振り返ったら、松潤!あれはすごく嬉しかった(笑)。」

日本レコード大賞の番組で「ターニングポイントは?」という質問に対し、
相葉くんが「花より男子」の「Love so sweet」を挙げていた。

IMJものがたり42で書いたように、そのDVDボックスをTCエンタタインメント
取締役として関わらせてもらったが、その頃からの嵐の成長と存在感は目を見張るものがあったように思う。

別に引退するわけではないので
それぞれまた違う形でこれからも活躍するのだろうが、
一旦はお疲れ様ということで。

ホントに嵐は素敵なグループでした。


55(番外編)IMJ消滅の時

2021年5月28日金曜日。
私が社長をしていた時の新卒入社組からフェイスブックメッセージが来た。
「9月末でIMJは法人格ではなくなってブランド名になるそうです…さびしい…」

遂にこの時が来た。
アクセンチュア・グループ入りしたが時点で、
いつかはこうなるだろうと予測していたし、
その買収判断も当時の経営陣が考えに考えた上での判断だから、
何も言わずに応援してきた。

生え抜きの大塚くんが新社長に就任した時、
彼は僕にこんなふうに語っていた。

「おそらく、近い将来、IMJはアクセンチュアに吸収されると思います。
だからIMJ最後の社長の幕引きの役割は、
IMJをずっと見てきた僕がやるべきだと思って、社長を引き受けました」

もちろん残念な気持ちがないわけではないが、
大塚くんなら安心して経営を委ねられる。
そう思っていた。

しかし、実際に日付が決まると
やはり寂しい。

メッセージをくれたメンバーには
「結婚して、姓が変わるって、こんな感じなんだろうね」
と返信した。

日本生まれのIMJは、ある時、カッコイイ外国人と出会い、恋に落ち、
国籍も姓も相手に合わせることになった。

それをかつての父が、とやかく言うのはかっこ悪い話だ。
私ができるのは、この先の人生が幸せであることを願うだけ。

1996年7月4日に創業し、今日で満25歳。
もう、立派なオトナ。
ここからまた新たなIMJの人生が始まるのだ。


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かしのたかひと

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かしのたかひと
リクルート、福岡ドーム、メディアファクトリーを経て、映画プロデューサー、ベンチャー経営者、政治家、作家に。