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IMJものがたり2 藤本真佐社長

 忘れもしない。恵比寿ガーデンプレイス26階の角部屋にIMJ藤本さんの社長室はあった。

 そこで、東京タワーの夜景を見ながら、IMJ社長のオファーを受けた。彼は私より年下だが、物腰が柔らかく、センスや構想力が抜群に鋭い。IMJは元々デジタルハリウッドの一事業部が分社してできたウェブ制作会社。長男がデジハリで、次男がIT人材派遣事業のデジタルスケープ、そして三男がIMJというグループだった。

 藤本さんはそれをさらにスケールアップして、システム会社や投資会社、今のビットコインのようなデジタルキャッシュの会社なども束ね、一大ITコンソーシアムを形成しようとして、藤本さんはその持ち株会社の社長に就く予定だったので、自分が抜けた後釜を探していたのだ。

 当時のIMJは売上7億円、経常利益6000万円、社員50名くらいの企業だったが、藤本さんから託されたミッションは3つ。

 音楽配信などの新規事業を立ち上げて欲しい、組織が大きくなるための組織マネジメント、そして株式上場の3つだ。

 当時リクルートにはフレックス定年制という38歳で定年すると3000万円の退職金がもらえる制度があった。この時、私の年齢は37歳。一年後に社長就任という約束で話を受けたものの、スピードの早いIT業界で一年後なんて悠長なことを言っていたら時代が変わってしまう。多少焦りにも似た気持ちと、早く経営がしたいという想いと、「株式上場したら、ここで3000万円を放棄しても取り返せるだろう」なんて甘い読みで、私は37歳6ヶ月でIMJの社長に就任した。

 藤本さんのすごいところは、社長退任後、一切口出しをしなかったことだ。前社長の方が新社長より会社の内情に詳しいのは当たり前。創業者として事業を創ってきたのだから、いろいろ言いたくなるはず。

 ところが、びっくりするくらいの放任主義。これほどやりやすい環境は想像していなかった。もちろん私が相談にいくと何でも応えてくれたし、解決策のアドバイスも的確にしてくれた。もし、藤本さんがちょくちょく会社に顔を出せば、社員は藤本さんの方を見るようになるだろう。大事な意思決定で藤本さんにお伺いをたてにいくようになるかもしれない。

 そんな彼の粋な取り計らいで、本当にスパッと経営体制は切り替わった。だから私は、藤本さんへの感謝の気持ちとその先見の明へのリスペクトとして、企業名を守ること、個性、チャレンジ、ナンバー1という企業理念を変えないこと(創業時の理念はもう少し長い文章だが、覚えやすいようにキーワードを抜き出し、語呂が良くなるように言葉の順番は変更させてもらったが)、そして私が社長を退任する時も同じように後継社長に口出ししないと心に決めていた。

 私の後継の廣田社長も、きっとそう感じてくれたのではないかと思っている。








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