郵便局員、警察官よりも50年も前から銃使ってたってマジか

前回まで物流の歴史について紐解いていく中で、ジョミニさんについて触れたが、そのお父さんが郵便に関わる仕事をしていたということで、今回は郵便の歴史を深堀り。

郵便局員が銃を持っていたとか、なかなかセンセーショナルな事実に日本の郵便の歴史を調べていると出会った。郵便局員がなんで銃使うの?しかも合法的に。どういう状況?

郵便の歴史もさかのぼっていくとこれが何ともまたおもしろい。

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郵便の歴史にまつわる本も結構あるもんだな。そしてまた表紙が思わずジャケ買いをしてしまうような奥深さを讃えている。

郵便についての文献を読み進めていく中で、郵便、もう少し広義に手紙における自身の記憶を遡ってみた。そういえば自分と郵便や手紙の思い出ってどんなものがあったかな、と。

すぐ浮かんだのは、

1. 年賀状

→これはいくつぐらいだろうか、小学校1年生とかそれぐらいだったと思うが年賀状という概念をおおよそ理解し、元旦の午前一発目の配達の時に郵便ポストに必ず自分で輪ゴムで束ねられた年賀状を取りに行っていた。当時はマンションの10階に住んでいたのだが、エレベーターに乗っている間、廊下を歩いて玄関まで行くまでの間も惜しむことなく誰から来たのかをワクワクしながら読んでた。そして配達のない翌2日の意味が理解できなかった。なんでけーへんねん!!年賀状!!って。可愛い僕。

2. ラブレター

→この世の全男子が一度は憧れると言われる伝説のシチュエーション、下駄箱に恋文がポスティングされている、というあれ。あんな青春の1ページに刻まれるような神がかった状況がこんな私にも訪れたことがあって、最初は一瞬何か分からない。何だこれ、何か入ってるな、と思って、封筒を開封する段階で、あれ?これは?まさか?とうすうす気づく。そしてこの辺でドキドキが始まり、急に周りの目が気になりだして、ソワソワしながらここで開けるか?いやトイレの中とかの方がええか?いやでも待てよ、大便のところ入るとこ見られたらめちゃめちゃいじられるしな、え、どうしよ、でも今見たいなー見たすぎるなー、と思いながら折りたたまれた便箋をええい!と開いた瞬間ビーーーンみたいな。何度も何度もそのポスティング手紙を読み返し、何度読んでもその字面は変わらないのに、送り主の自分に対する好き度が勝手に増していくような意味のわからない解釈が生まれ、次第にその子を強烈に意識するようになっていった。手紙って、素敵やん、と思いながらいつまでも引き出しの中に入れていた。可愛い僕。

3. 転校する時の送別レター

→小学校1年生の時に転校を経験したのだが、仲良くなったばかりの友達、幼馴染と離れ離れになるのは、まぁーそれはとてもとてもつらかった。今生の別れな気がして、二度と会えないんだ、とても遠くに行ってしまうんだ、とそんな気持ちになってセンチメンタル、というかメートルメンタル、いやあれはキロメンタルレベルのインパクトをもたらした。家族で荷物を搬出して、ホテルに一泊してから引越し先に入るという段取りだったのだけど、そのホテルで貰った送別レターを読みながらベッドに顔をうずめて声をあげて泣いたのを今でも明確に覚えている。これは別に可愛くはない。


という具合に、私に限らず多くの人にとって手紙にはなかなかのエモエピソードがついてまわるのではないだろうか。

そんな豊かな気持ちにしてくれて思い出もセットで添えてくれる手紙。届けるという行為や文化はいつから始まったのだろうか。

調べてみるとなんとその起源は古代エジプト。ファラオの使者がシナイ半島まで書簡を運んでたんだと!それが紀元前2400年頃の粘土版に刻まれている。日本では9世紀。平安時代に飛駅使が大宰府から都に書簡を届けたという記述がある。古くからやってんなー。それにしても。それだけ人は伝えるということをしたかったんだ。モノを届けること、想いを伝えることというのはきっと生存するための本能なんだろうな。

とは言っても古の郵便はいずれも権力者しか使えずに、民間の人は手紙を届ける手段がなかったらしい。日本で民間で郵便が使えるようになるのは明治時代に入ってからで、郵便の父と言われている前島密(ひそか、と読む。またハンターハンター!)がイギリスで学んできたノウハウを取り入れて、それまでの飛脚の制度と混ぜ合わせて日本の郵便の礎を築き、近代化して現在に至る、というのが大きな郵便の流れ。その中でも明治時代に郵便制度は飛躍的に発展を遂げていて、まず民間でも使えるようになったというイノベーションが起きて、次に料金が一律に統一されて、更には届けるスピードが上がって、手紙だけではなくて小包の取扱が始まった。つまり現代の郵便、物流の下敷きができたと言える。

そんな郵便の歴史の中で、個人的に萌えるのは、郵便の元となっている飛脚文化。飛脚自体は1200年頃から行われていたという記載があるけど、本格的に発達したのは江戸時代で、その発達は彼らが走る道、つまり街道が整備されるのと共にあった。で、その街道の運送を支えたのが伝馬(てんま)と呼ばれる制度で、江戸と京都の間を馬を乗り継ぎながらモノを届けるための仕組みがあった。そしてその伝馬を支えるために宿駅(今の駅に宿泊機能が付いたもの)が発達して、荷物を運んできた人と馬がそこに泊まって体を休めていた。

この伝馬、という言葉。どこかで聞いたことあるなと思ったら東京に大伝馬町、小伝馬町という地名が未だに残っていて、調べてみるとこの人馬の継立てを行ったのが江戸の大伝馬町、南伝馬町、小伝馬町の三伝馬町だったらしい。面白い。つまり、ここで注目すべきは物流は宿泊と共にあったということ!Logisticsの語源も宿泊を意味するLodgingから来ているし、モノを運ぶということと泊まるという機能は常に一緒にあったということは新しい気付きだ。

そしてもう一つ、私の胸を熱くしたのは福岡ー江戸を走っていた福岡藩の飛脚のエピソード。めちゃめちゃマニアックなのだけど、福岡藩には「御飛脚心得書」という言わば飛脚のマニュアルが使われていて、そこにこんな記載が残っている。

小倉で髪を月代(さかやき:江戸時代以前の日本にみられた成人男性の髪型において、前頭部から頭頂部にかけての、頭髪を剃りあげた部分を指す。 さかやきを剃った髪型のことは、野郎頭や半髪頭と表現される。)にすること。それが間に合わない時は黒崎の問屋が荷揚げする間に髪結を呼ぶこと。御用を終えたら江戸詰家老衆の留守宅に寄り、安否を伝えること。

つまり、ちゃんと身なりを整えて散髪してから行くこと単身赴任者の留守宅に江戸の生活を伝えること、というのをマニュアルに記載しているのだ!単身赴任となり、自宅で待つ留守宅の妻子がどれほど飛脚が夫の江戸での状況報告をしに来てくれるのを心待ちにしていたか。胸アツ過ぎて飛脚に惚れた。

そんな胸アツだった郵便・物流、じゃあ果たして今の時代どうだろうか。

私は疑問を持っているし、変えていきたいのはそこの部分なのだが、一部地方の地域を除いてはそんな胸アツ物流が生きながらえるのが難しくなってきている気がしている。絶滅の危機に瀕してしまってはいないだろうか。安く運ぶこと、早く運ぶことを求めすぎてそんな胸アツ要素は削ぎ落とされてしまってはないだろうか。荷物を投げたり蹴っ飛ばしたりするようなニュースが報道されるぐらいである。とてもじゃないけど届け手も受け手もそんな気持ちのゆとりがなくなってしまっている。これが現実だし、これは行き過ぎだと思っている。

だから私は古き良き福岡藩の飛脚の届け方を現代に復活させ、飛脚が休んだ宿駅を現代版にアレンジした形で造りたいなと思っている。だって、物流はほんとはもっともっと素敵で、豊かで、人の心を温かくできるはずだから。

私はそう信じています。

皆さんはどう思いますか?


以上、また次回〜!

とキリよく終わろうかと思いましたがそうそう、タイトルの内容忘れてた。

江戸時代の飛脚もそう、明治に入っての郵便もそう、彼らは基本自分の足で舗装されていない道を雨の日も風の日も、ただひたすらに歩いて荷物を届けてくれていた。遭難して命を落とす人もいたぐらい厳しい仕事だったそうな。なので飛脚は必ず二人一組で配送していたぐらい、まぁ何が起こるか分からない状況だったわけ。

明治に入っても基本的にはその危険性は変わらなかったので、徐々に運送員たちが武装しはじめる。

その第一弾が郵便ラッパ!

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ちゃんと逓信省(ていしんしょう:後の郵政省→日本郵便)の文字が入ってる。ちなみに、郵便のマークの〒。これの由来って、テイシンショウのテが由来なの、知ってた?

これはクマやイノシシ避けに使われていたようで、運送中にクマやイノシシに襲われるという事件は日本各地で数多くあったらしい。

そしてそれだけだと身を危険から守りきれないということで、武装第二弾。1873年から1945年頃まで危険な地域を通る運送員は郵便保護銃という六連発のピストルを持ち歩いていた。これは当時、現金書留をねらった強盗に郵便が奪われる事件が多かったからなんだと。

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モノを届ける、想いを届けるって、今も昔も決して簡単なことではない。だからそこにはロマンがあるんだ。

ラッパや銃を身に着けながら、自分が死ぬかも知れないという状況の中で必死に想いを繋いできた先人には頭が上がりません。

必ずやその繋いできてくれたものを次に繋げていけるように、そんな世の中にしていきたい。

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