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288 みんな小学校で習った! 静岡・登呂遺跡

このところ更新が少し滞り気味でした。

少しネタ切れになっていたというのもそうなんですが、実は転勤の辞令が出てこの8月から静岡に赴任。引越しでてんやわんやの状態でした。

ようやく少し落ち着いてきたので、静岡のことをよく知ってみようと思い軽くドライブに出かけました。静岡転居後はじめての訪問先は新居からほど近い場所にある「登呂遺跡」です。

静岡駅にほど近く、登呂遺跡行きのバスに乗ればすぐに着いてしまいます。

登呂遺跡は今年遺跡が発見されてから80年が経ちました。

昭和18年、軍需工場を建てるために地盤を掘っていたところ遺跡があることがわかり、多くの木材や土器が発見されるとともに、住居跡や水田跡も発見され、約2000年前、弥生時代後期に人々が暮らした集落の跡であることがわかりました。弥生時代の水田跡が発見されたのは日本初のことで、その歴史的価値の高さから昭和27年に国の特別史跡に認定されました。

戦争真っただ中の時代に発見された遺跡でしたが、よく軍事施設が建てられずに残ったものだと思います。

遺跡の中には水田が復元されて、稲が植えられています。周辺地域の幼稚園や小学校の児童たちが田植えを行っているそうです。

大きな畔で他を囲んだ中に小さな畔で田んぼを小分けしているのが特徴です。

田んぼアートもありました…が、平面でみるとよくわからないですね。なんて書いてあるのでしょう?

田んぼの向こうには復元された住居も見えています。

住居は分類上、竪穴状平地住居と呼ばれるもので、竪穴住居のような造りではあるものの掘り下げはせず、その代わり家の周りに盛土して堤を造り水が浸入するのを防いでいます。

住居の中はこのような感じ。家族みんなで輪になって座って火を囲んで食事や一族で語らいをしていたのでしょう。

住居跡は5邸が復元されており、円い周堤のみが遺されている遺構も復元されています。

こちらは高床倉庫。稲を保管するため、風通しがよく水害やネズミの害に遭わないように床を高く上げています。大和時代の校倉造りにも繋がっていきますね。

平成に入ってから発見され、復元された祭殿です。占いをしていたときに使っていたと思われる卜骨も見つかっており、ムラの方向性を決めたり、祈りをささげる場として使われたと考えられています。

最後に訪ねたのは遺跡の中心部にある「登呂博物館」。

壺や甕のレプリカや

当時の人たちが着用していたとされる貫頭衣を作る様子など、当時の生活の様子が再現されていたり、

実際に登呂遺跡から発掘された矢板などの出土品の展示がされていました。矢板は洪水から田を守るため畔に設置されていたものです。(実際の出土品の展示を見るためには300円の入館料が必要です。)

登呂博物館の屋上からさっきの田んぼアートが見えました。「祝 遺跡発見 80周年」と書かれていました。

私が小学校の頃は社会の教科書に必ず登場していた登呂遺跡ですが、近年では掲載している教科書は減ってきているようです。ガイドの方は「ゆとり教育」でカットされたとおっしゃられていましたが、それだけではなく、弥生時代の研究が進んだり、新たな遺跡の発見があったことで登呂遺跡のライバルが出現したことも原因のようです。1980年代に佐賀県の吉野ケ里遺跡が発見されたことは弥生時代の研究の大きな転換点となり、教科書から登呂遺跡が消える流れにつながっていったようです。

大人も子供もどろんこに!

それでも登呂遺跡が弥生時代の暮らしの様子を今に伝える重要な歴史的財産であることには変わりはありません。

地元では遺跡に親しんでもらおうと、子供たちに弓矢教室や火おこし教室、木船の乗船体験や復元水田でどろんこ遊びなど楽しいイベントを行っています。高学年で自由研究で遺跡の研究をしようと施設に来館している児童もいました。

みなさんも教科書から抜け出して、リアルな登呂遺跡をご覧になりにぜひ静岡へお越しください。

サポートいただけたら小躍りして喜びます! 今後一層フットワーク軽く旅先に向かい、情報提供に努めたいと思います。 よろしくお願いいたします!