見出し画像

かのこのにっき_2015-01_01

#かのこのにっき

@15-0101

ちょっとしたオードブルを寄せ集め、ワンプレートおせち(もどき)にして迎えるお正月。おひとりさま仕様。笑

相変わらずひとり年越し〜元旦。冷蔵庫無し、洗濯機無し、電子レンジ無し、トースター無し、人っ気を感じる音もなし、テレビは言わずもがな。史上初レベルの無い無いづくしで始まった今年は、さてはて、もしや、“超”理想のミニマム生活スタートの兆し?

……そんなバカな。しかも今このプロセスで?

ただ。ガスヒーターで暖まった部屋でひとまず休息を得られることを、この上なくありがたく思い、今日もまた取り留めもなく生きてみる。

@15-0102

「年明け」=喜ばしくて楽しいこと……とは限らないはずなのだが、世の中は、一気にそんな風であることが正しいみたいな空気に包まれる。そこにたどり着けない者にたいして見えない壁を作るようなことも、間々見られたり見られなかったり……。残念なのは、その多くが無意識に行われていること。意図してやるよりも、もっと根が深いように思う。

虚しいとか、寂しいとか感じられることは生きている証し。それらを表現できることは素敵なこと。「感じる」があるからこそ創造も深まってゆくのだと、わたしは身を以て知っている。それらを心寄せあえる人たちと分かち合うことが、たくさんの栄養になる体験をしてきた。

たとえ「今ここ」で変化が起きなくとも、チャレンジを続け、向きあい続けていくことで、数週間前の自分とは少し違う自分が、ほんのりと芽生えていることだろう。前例がある。このわたしがそうだ。そして今も、刻々と変化の日々が続いている(変化しすぎるのは、着地点を見失ったり疲れるので要注意;)。

不思議なことに今は、かつて「変わりたい!」と全身で叫んでいた頃ほど気負いがない。だのに、刻々と今も変化している。実感がある。なぜなら……たぶん……藁をもつかむ想いで「変わりたい!」と、もがいてもがき切って何某かのコツを得たからかもしれない。このやり方や態度が、はたして正解かどうかは分からない。ただ、変わり続けているということは確かだ。

@15-0103

「たいくつ」ということ

・あるグループワークの場で。ウォームアップの瞑想を終えて、「今ここ」の気持ち・気分をビジュアルアート(描画やコラージュなど)で表現してゆく。「では、気持ちの準備ができたらどうぞ始めてください」。沈黙から動きが起き、小さな“ざわつき”が観られる。そしてまた、しばしの沈黙。

紙を切る音。クレヨンを叩きつけるように描く音。ため息。くしゃみ。なにやらの素材をクシャクシャと丸める音。そしてまた沈黙。接着したものを剥がす音。あ〜、思わず声が響く。作業を終えてトイレに立つ足音。そして、画材をガチャガチャとしまう音。小さな“ざわつき”が再び観られる。ワーク終了。グループメンバー同士で体験をシェアする。あるメンバーが、開口一番「瞑想は、たいくつだった」と言った。

・「なにもすることがない」状態にあることを、「たいくつ」だと言う。とにかく「たいくつ」だと言う。「たいくつ」は、余計なもの。「たいくつ」は、必要ないもの。そんな風に聞こえた。実際はどう感じているのだろう?
「たいくつ」であることは、自分の人生になにも与えてはくれない。何もしないことはもったいない。『じっとしてられない性分なんです』。 

……なるほど。そうでしたか。「たいくつ」は、そんなすべてに気がつく機会を与えてくれていた。自分がなにを感じ、どういう状態にあるのか、気づきを与えてくれた。そこから新たな創造が始まるのさ。ワクワクやドキドキやグラグラを呼び込むための前段階、「たいくつ」。……かもしれないね。なんていう感じでゆらゆら栄養補給する時間がわたしは好きだ。



1月4〜6日分は こちら
書き散らかす人● 「朔旦冬至」のスパイス● 自分の奥の“感動ちゃん”……

#かのこのにっき

Copyright© 2015 canokomonou, All rights reserved.