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「手の倫理」を読んで

感覚のヒエラルキーとは
視覚、聴覚……精神的、上位
嗅覚、味覚、触覚……動物的、下位
ということらしい。確かに人は視覚に大きく頼っているし、失った場合の重大さを考えても視力>聴力>嗅覚・味覚、というのはわかる。
触覚に至っては失うことも持ってることも意識にのぼることは少ないのでは。
そんな「触覚」の大切さについて、とくに人に対して「さわる」「ふれる」ことについて深く考えてみる本。

日本人は体に触れ合う習慣がないし、触れかたを学習する機会もない。
フォークダンスの話が出て来る。GHQ占領下で普及されたものだそうだ。
男女で手と手を取り合って踊る、日本人には違和感しかないダンス。
コロナ禍が始まった頃、接触を避けるということで中学体育のフォークダンスはなんと盆踊りに変わった、盆踊りは触れ合うことがない、でも一体感はある。これぞ日本の踊り。コロナ2年目になるとフォークダンスは復活したが、手は直接繋がずに短い紐の端を握って繋がった。不特定多数がその紐に触ることになるし意味ある?という感じではあった。
はからずも、紐で繋がるというダンス、この本に出て来る目の見えない人と伴走者が輪っかにしたロープを掴んでランニングする話とつながってくる。

この本を読む前に「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」という本を読んでいたのがよかった。
目の見えない人の感じ方を想像することができた。
例えば「柵」
目が見える人にとって、柵は空間的構造
目が見えない人にとって、柵は時間的構造……歩く中で起こる時間的な変化「音的なしましま感」となる

「触覚」について普段意識することがほとんどなかったことに気づけたのがよかった。日本人は人に触ることが苦手だしコロナが拍車をかけているかもしれないけれど、介護などに関わることで、さわる・ふれる技術についてはもっと考えられていいと思った。

「手の倫理」伊藤亜紗


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