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死んでから花をほしがる奴なんているもんか問題

ありてなければ 「無常」の日本精神史/竹内整一

読了。

ありてなければ/竹内整一

はかなさとは何か。
花火のはかなさを愛でる日本人の精神性はどこから来るのか。
万葉から近現代まで思考されてきた「はかなさ」の正体に迫る。
付箋が山盛りになってしまった。
それもそのはず、巻末の解説にある通り、この本は「竹内流の引用の万華鏡で諭す言葉の小宇宙」「言葉の玉手箱のような珠玉の一冊」なのだ(彦摩呂?)

はかなさを知るのはいつだろう。
夏休みが終わってしまう小学生の頃か。祖父母の死に直面する思春期か。
それは洋の東西問わず、古今世紀末関係なく人の生とともにあった。
宗教が唱える解は一面的なものだ。
この本では「はかなさ」の向こう側を三つの面から探る。

一読しただけでは消化しきれていないがおもしろかった。
それはそれとして、実は巻末解説文の中で40年来の疑問の答えに出会って驚いている。
それが「死んでから花をほしがる奴なんているもんか」問題だ。

「死んでから花をほしがる奴なんているもんか」
これはサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」(野崎孝・訳)の主人公の言葉だ。
「ライ麦」は倫理学の課題で読んだのだが、すっかりハマり、課題ということもあり「精読」という読み方をした唯一の本だ。心に残るシーンは沢山あるが、この言葉はとくに10代の自分の心に刺さったし同感だった。
しかし大人になって自分で墓参りなど行くようになると、やはり花を手向けるし、そのことで清々しい気持ちにもなった。自分が死んだら花がほしい気もした。
なぜ花をたむけるのか?死んだ人間は花がほしいのか?
その答えがあった。

「社会学者の見田宗介による荘厳つまりは死者に花を手向けることに関する論考(『現代日本の感覚と思想』)」
「逝った人への真の荘厳とは、その外面に花を飾ることでなく、その人の咲かせた花への認識を介して、残された生者の内に咲く花を目覚めさせることであり、それが、逝った者と残された者とを共に生かす唯一のすべである」
「逝った者を、残された者たちが活かし続けるには、逝った者が遺した言葉を、残された者たちが自身の内に咲かせ続けることしかすべがないからなのであろう」
解説 西岡文彦 より

「死んでから花をほしがる奴なんているもんか」
これはかなりインパクトのある言葉で、刺さった人は他にもいると思う。
吉田秋生の「カリフォルニア物語」にも同様の台詞が出てくるが、「ライ麦」の影響と思われる。
ずっと疑問だったが、思いがけず一つの答えに出会えてやはり読書はいいなと思った。

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