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「鳥と人間の文化誌」を読んで
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「鳥好き」には4種類いる。
・鳥を観る人(バードウォッチャー、野鳥の会、探鳥会、撮影会など)
・鳥を飼う人(コンパニオンバード、フクロウカフェなど)
・鳥を撃つ人(ハンター、猟友会など)
・鳥を食べる人(焼き鳥、地鶏駅弁愛好者など)
著者は山階鳥類研究所所長ではあるが鳥類学者というわけではなく専門は人類学で、鳥オタクではない。上記の何れにも属さない立場から広く浅く人と鳥の関わりを考察している。
私は文鳥を飼っているので2番目の「鳥を飼う人」にあたるだろう。野鳥を見るのも好きだが、そのために山に行ったりはしない。鶏肉は食べる。
そんな私がかねがねモヤっとしていたことがある。
鳥を飼うことに罪悪感を感じることだ。
いうまでもなく人類より先に存在し、地球をまたにかけダイナミックに生きる鳥という存在を、もちろん愛情をかけてではあるが家の中に閉じ込めて飼うことに、1ミリも疑問を持たずにいられようか。
この本を読んで、そんなモヤモヤに薄日くらいの明かりが見えたような気がする。
「家禽」のルーツとして、ニワトリの起源について書かれている。
東南アジア山岳地帯の高床式住居で、床板の隙間から落ちた食べカスにセキショクヤケイが寄ってきた。やがて人間が意図的に餌をやるようになり、そこに居着くようになったと。
面白いのは、家禽化の動機が肉や卵のためではなく、自分達の食べ物の残りを野鶏に与えることで「精神的な満足感を得ていた」と推測されることだ。
人はなぜ公園の鳩や水路の鯉に餌をやりたいと思うのだろう?そこに自分の幸福感があるからだ。こんな生物は他にいないだろう。人がなぜペットを飼うのかの答えが今さらながら納得できた気がする。
居着いた野鶏にいつしか所有感が芽生え、やがて”うちのニワトリ”になると、その激しく突き合う性質を競わせる「闘鶏」が始まる。
「家禽」の歴史において、可愛がるよりも肉や卵よりも何より先に「闘鶏」があったことに驚いた。
人と鳥の関わりについて考えるとき、やはりその飛翔能力に対する圧倒的な憧れと畏怖が前提となる。鳥は綺麗でかわいいだけの存在ではなく、上から襲ってくる怖い存在、神の国と行き来する尊い存在でもあった。
国を跨いで移動する渡など研究は困難でまだ謎も多い。
そういう鳥に対し、人間の都合で「益鳥」「害鳥」などと分類したりする。
鳥に限らずだが人類が地球上の生物と今後も共存していくためには、恐れたり崇めたりでは解決しないこともあるだろう。「保護」は今耳障りのいい言葉だが結果増えすぎることもある。より相手を知るために「親しくなる」ことは大切ではないだろうか。そう考えれば飼い鳥の意義も見えてくる。
冒頭に挙げた4種類の立場は、それぞれ良いこと悪いことが一致しない部分もある。野鳥の会的にはアウトでも人は自宅の庭の餌台に野鳥を呼びたい。
食の安全、動物愛護、アニマルウェルフェア、社会は矛盾を抱えている。
「正解」はわからないが、あとがきにあった「人知を超えた鳥とのご縁」という言葉が救いになる気がした。
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