落合陽一「日本再興戦略」を読んで
デジタル化した社会について、
このあたりを読んでいて連想したことは、ゲームのことです。
綾野つづみさんの記事に、ゲームでの経験が実際の経験に感じられることについて書かれていました。
私はゲーマーではありませんが、昔どうぶつの森にハマっていた頃は、そこらへんで見かけるパンジーやら雑草やら蝶にゲーム内と同じ感覚を抱いていたことがあり、それは他のプレイヤーも同様のことを言っていました。
私たちの脳はいとも簡単にリアルとバーチャルを融合してしまうようです。(簡単にというかある程度の没入の後に)
そのことに何処か警戒心というか普通でないこと、よくないことというイメージがあったかもしれません。けれど、今思うのは、バーチャルの経験も経験であってそれもまた本当の人生であるということです。
都会っ子と田舎っ子では育つ環境がまるで違います。野山に囲まれて自然に親しんで育つ身体経験を積むことこそが大切と思われそうですが、都会で育つことで何かが欠け落ちるわけではなく都会は都会という環境で都会なりに育つというだけのことだと思います。その差が、リアルとバーチャルの差なのかもしれないと思います。
脳が実体験と認識したらそれはもう実体験で、人生の一部で、人格を形成する一部になるのでしょう。
“生花か造花か”は今のところ気にするけどな?と思いましたが、これも最近よく言われる「持続可能かどうか」という視点で考えた場合、生花である必要はないのかもしれません。
葬儀で消費される(あえて消費と言いますが)大量の生花、葬儀が終わればゴミになってしまう。生花は棺に入れる分だけでいいのかもしれない。祭壇は映像でいいのかもしれない。費用も抑えられるでしょう。生花の方が「良い」とする判断がどこから来るのか、よくよく考えたら、次の時代のやり方が見えてくるように思います。
民主主義のアップデートについて、
波がザブーンて、目に見えるようです。日本は民主主義を自ら勝ち取ったわけではないとは言いますが、波間に漂うクラゲの群れのようなイメージは言い得て妙と言いますか。災害の多い国土で培われたすべて受け入れてしまう無我な人々は衆愚とはまた一味違うような気がします。
この感覚は、今の若い人と中高年の意識の差をすごく感じます。
アプリで交流してても若い人ほど名前が本名だったり位置情報にも抵抗がない。
危険だし秘密にしたい、と思うのは個人情報保護法が制定された時期を経験していて知られないことが何より大事と刷り込まれた世代なのでしょうか。若い人がオープンなのは、管理社会ネイティブということなんだと思います。老人のほうが秘密にズルしたい、という欲があるのかもしれません。
かわいそうなやましい老人にならないように気をつけましょう。
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