名と姿

noteに限らずインターネットには、めちゃくちゃ本名でやる人とめちゃくちゃ偽名を使う人がいて、体感として、本名勢は有益な情報や体験談を書いてて、偽名勢は創作的、感情的な文章を書いている気がする。

あくまで体感だし、例外もたくさんあるとは思うけど、まあ大方あってるとは思う。

自分はどうかな、と考えると、「本当は本名で、たくさんの共感を得られる有益な情報を書きたい」と思う反面、「なんの意味もないハンドルネームで刺さる人に刺さる文章を書きたい」とも思っている。ぶれぶれ。


ただ、私の名前は少し珍しくて、フルネームなんかでやったら100%特定できる。まだ少し、自分の性的指向を隠していたいから、本名ではできない。

Canisっていうのは、犬の学名、𝐶𝑎𝑛𝑖𝑠 𝑙𝑢𝑝𝑢𝑠 𝑓𝑎𝑚𝑖𝑙𝑖𝑎𝑟𝑖𝑠から拝借したが、気取った感じと、カニ酢と同音なせいであまり気に入っていない。




だらだら書いたが結局自分が読みたいのは、“偽名勢“の血の通った文章だった。

狭い世界というのは、自分の内側のことだ。

個人を予測も特定もできない名前の人が書く文章を読んでいると、ふと、自分の世界の登場人物に似た人を探してしまう。 自意識過剰かもしれないが、この文章は自分の事ではないか、あの時のことを言ってるのではないか、と。

結局、年齢や地域で当たり前に別人とわかると、少し安心し、残念にも思う。


先日「個人言語」という言葉を教えてもらった。人はなんらかの情報をインプットするとき、自分の価値観や経験で理解し、その範疇を越えると見にくくなってしまうらしい。

自分の個人言語はなんだろう。

どんなフィルターで世界を見ているのか、それすらもフィルターがかかっているから知りようがないし、カントの思想を思い出す。


青という色を指す時、生まれた時から色と名前を紐づけて教わるから、青に相当する色は皆同じものを指す。

しかし、見え方はどうだろうか。

青を、私が見ている青として見ている人間はどのくらいいるのか。

自分は多数派なのか、少数派なのか。いや、そんなのはどうだっていいけれど、本当の青はどんな色なんだろう。

人だって、名前と顔は知っているけど、本当のその人はどんな人なのだろう。


目からの情報がどれだけ心許なく脆いのか、よくわかる。



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