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クビナシ

滴り落ちる夢の中で、微かに聞いた音。閉じられたドア。笑い声が響いている。ヒタヒタと近付いてくる黒い影に呑み込まれ、赤い地平線がパックリと口を開ける。

目覚まし時計が鳴っているのに気付き、ベッドから飛び起きた。血肉が透けた色をした2つの手を見る。近いのに遠いそれを顔に当てると、真っ暗になった。その中から生まれる模様はカラフルで、動きが早くて追い付けない。そこはいつもお祭り騒ぎ、みんなと一緒にパーティーだ。ぐるぐるとセカイが回っている。地球はポチャンと水溜まりに落ちた。覗いてみると、そこには街があった。

たくさんのビルが乱立している。突き抜けるような青空に押し潰されそうになる。鳥が甲高い声を上げて飛んでいる、漠、とした風景。どうして誰もいないんだろう? 車も通っていない。信号、白線、道路はあるのに。

意味のない記号――それは逆説だ。意味を持たせたものを記号というのだから。もしかすると、ただ忘れているだけなのかもしれない。解き方が分からない暗号を目にするように、首を傾げてみた。セカイは斜めになった。空が黄色に染まっている。グラリ、とセカイは引っくり返った。

赤い街。燃え落ちる太陽。建物が崩れていく。電柱が倒れていく。塀が倒れ、千切れた電線が地面を叩いて火花を散らす。見る影もないその場所に別れを告げて、山を登った。深い木々が出迎える。振り返れば、炎に包まれた街並み。その光景に背を向けて、黙々と歩き続ける。

雨が降り始める。カチカチと、歯が音を立て震えている。息が白い。手足がどんどん冷たくなっていく。身体が重い。ひと休みしようと、切り株に腰を下ろした。ほっとすると同時に、疲れが押し寄せてくる。眠ってしまいたい誘惑に駆られる。

雨が温かく感じられた。暗い空に向かって手を伸ばした。容赦なく叩き付ける滴が顔を濡らす。鼻から顎へ、喉を伝って胸元へ。耳から首筋、背中へと。額から髪の毛、地面へと。目に入ると痛くて涙になった。遠くなっていく意識。雨の音だけが聞こえている。真っ暗闇の中で、ただ温もりを感じていた。

目を開けると、床の上でうつ伏せになっていた。立ち上がると少しフラフラする。冷たい床がキシキシ軋む音を聞きながら、階段を降りていった。

ト ントンと、いつも通りエプロンを着た母が包丁で何かを切っている。いつもと違うのは、首から上には何もなくて、まな板が真っ赤に染まっていることだ。 驚いて立ち止まると、母は手を止めてこちらを振り向いた。顔がないのに視線を感じる。と思ったら、ボトボトと天井から目玉が降ってきた。

いつも通り挨拶をしてみた。返事は聞こえなかったけれど、応えてくれたような気がした。母は包丁を置いて、グツグツ煮込んでいる鍋をお玉で掻き回し始めた。母がこちらを向いていない隙にと、残りの階段を降りていった。

グニュ、とした柔らかい感触があって、ギャッという小さな声が上がった。足元を見ると、目玉が潰れて白い液体が流れ出していた。液体は不思議とサラサラしていて、床に広がっていくにつれ透明になり消えていった。

サンダルを引っ掛け外に出た。スズメが鳴いていて、朝らしかった。電柱も建物もいつも通りで、安堵の溜め息を吐いた。

チャリンチャリン、と自転車のベルが聞こえたので右を向くと、自転車に乗っている人の首から上がなかった。夢じゃないかと思って頬をつねってみると、痛かった。

今度は反対側からクラクションの音がした。慌てて振り返るとすぐ目の前に車体があって、一瞬後には身体が飛んでいた。周りの景色がいつ もより高くて、しかも傾いている。数瞬後には地面に落ちて、ボールのように転がった。鼻血が出た。

車の方を見ると、自分の身体がヨロヨロと起き上がるところだった。当然のように首から上はなかった。どうやって動いているんだろうと驚いたが、自分もどうやって思考しているんだろうという疑問に陥り、そこで思考停止した。止まっていた車は突如Uターンして、元来た道を走り始めた。頭部がない身体は追い掛けて走り出し、やがて見えなくなった。

車にも身体にも置き去りにされた頭部は、身動きが取れなくて困った。これからどうしようと途方にくれた。妙案が思い浮かばなかったので、瞼を閉じることにした。

――画面に釘付けになっている自分に気付き、 次に夜中の零時を過ぎていることに気付いて、パソコンをシャットダウンした。先程まで見ていた映像のせいか、何となく首元がゾワゾワする。手を当てて切り口がないことを確認し、温かい体温と、脈打つ鼓動に、生きていることを実感した。深く息を吸って、ゆっくりと吐く。呼吸も異常なし。立ち上がると、思った以上に足が痺れていた。喉が渇いていたので、部屋を出て水を飲みに行った。

蛇口をひねり、カップに水を満たす。 揺らぐ水面の中に溺れることを想像してみるけれど、せいぜい、浴槽に浸かっている自分を思い浮かべることができるくらいだ。風呂場の曇りガラスには黒い影が映っている。窓の向こうからはカツン、カツン、と小石がぶつかるような音がする。とはいっても、その犯人は、たいてい家族や風の仕業だと予想がついてし まう。不思議なことなど何もない。

靴を履いて外に出た。静まり返った住宅街に、自分の足音が響く。夜気が凍みて、背中を駆け上がる寒気に首を振った。青白い光で周囲を照らす街灯。蛾が光源の近くを飛び回っている。その下には白い服を着た女の子が立っている。どうしてこんな時間に? 不審に思うと、すすすと近寄ってきた。少女は顔がない、のっぺらぼうだった。

走って逃げようとしたが、 身動きできなかった。せめて見ないように目を瞑ると、よく見知った人の顔が浮かび上がってきた。毎日見ているその顔は、今までに見たことがないような表情でこちらを凝視していた。それにも耐え切れず、思い切ってパッと目を開くと、そこに少女の姿はなかった。ほっとして深い溜め息を吐いた。眠気は吹っ飛んでいたが、早く横になりたくて家の中に入ろうとした。

置いていかないで。はっきりと、言葉が頭の中に浮かんだ。鳴らされたクラクションが、車と衝突して宙を飛んだ光景が、最期に見た走り去る車の姿が、洪水のようにフラッシュバックした。全身を襲う激痛。大量に噴き出る汗。身体は九の字に折れ曲がって、アスファルトの凸凹した路面に膝を付いた。ダラダラと血が流れていく。――そうだ、ここで事故に遭ったんだ。

少女が目の前に立っていた。不思議と怖さは感じなかった。待っていてくれてありがとう、と感謝の念が湧いた。輪郭が溶けていき、視界一杯に広がった。真っ白いセカイの中で、確かに声が笑った。

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