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先日、父が亡くなった。

※途方もない一人語り長文なので本当に暇な時に読んでください。

先日、父が亡くなった。
65歳(たぶん)だったと思う。
死因はよくわからない。肝硬変と白血病のせいで何が具体的な原因なのかわからないほど体がボロボロだったからだ。まぁ、とにかく病死だ。

私と父はとある理由で5年ほど会っておらず、その間、連絡もとっていなかった。
今もちゃんと親戚付き合いのある叔母(父の妹)から、父が病気でいよいよ死期が近そうだ、逝く前になんとか孫を見せてやってくれないかという連絡を受け、今年の5月にけじめのつもりで生後数ヶ月の息子を連れて病院へ行き、面会した。
すっかり痩せてガリガリになった父は、担当医からもう治療の術が残っておらず、何とか処置をしながら生きている状態だと説明された。それにも関わらず変に格好をつけた喋り方でヘラヘラしたり、挙句に治療がうまくいって良い感じだ〜ぐらいトンチンカンなことを言うその姿に、私は少し呆れてしまった。
自分に孫がいるを知っていたのか知らなかったのか、とにかく初めて見た孫はとてもかわいかったようで、それは嬉しそうにしていた。

で、7月。
いよいよ状態が悪くなり、ICUに入って2度も心停止したり復活したり、なぜかそこから回復して一般病棟に戻ったり…という連絡を叔母から受けている中で、もう一度だけ孫に会わせてやってくれと頼まれた。
父と会うのは5月の面会が最初で最後だと叔母には伝えていたためまったく気乗りしなかったが、いつも良くしてくれる叔母の頼みだしなぁ…と渋々ながら引き受け、病院へ向かった。
この病院は千葉の房総半島の、それも外房にあるものだから我が家からとてつもなく遠く、片道100キロもあるから尚更気乗りしない。電車で向かうとまじで3時間以上かかるので、毎回高速代を負担して車で行く必要があるのも気を重くしていた。
叔母の話では父はまだまともに喋れていると聞いていたので、病院へ向かう車中で私は妻に「パパッと子供を見せて雑談したら30分程度でずらかろうぜ」なんて言っていたのだが、これは大間違いだった。
病室につくと、みかんぐらい黄色くなってうーうー唸る父が、複数人の看護師に処置されていた。どうやら、私たちが来る直前に急変したらしい。
スーパーに並ぶ鮮度の落ちた魚ぐらい濁った目は、私が声をかけても焦点が合うこともなく、もちろん返事など返ってこず、ただただうーうーと病室の外まで聞こえる音量で唸るばかりだった。
面食らってても仕方ないしなぁと、息子を目の前に持っていって「ほらほら!孫だぞ!会いに来たぞ!」と見せると、なんとか認識することができたようで、顔をぐしゃっとさせていた。喜んでいたのか何なのかわからないが、とにかくリアクションはあった。
そのうちやってきた担当医から、もう長くは持たず数時間で逝きそうなことや心肺蘇生をするかしないかなどの報連相があったが、私は父の面倒を一切見ておらず、たまたま今日面会に来ただけだから…と、全てを叔母に任せることにした。
そして小さい子供がいるからというのを理由にして、私たち家族は(逃げ)帰ることにした。あんな光景見てられないし、子供に見せるのも違うなと思ったからだ。

病室から(逃げ)帰る車中から夕方の房総半島の海と山の景色を眺めつつ、私は初めて少し悲しいと思った。正直、これまで父がどうなろうと一切興味はなかったし、何なら病気だと聞いてもちっとも心動かされなかったが、なぜかこの時、私は少しだけ悲しいと感じたのだ。

父はとても自分勝手な人だった。
幼少期の我が家は大変貧乏で、さいたま市で最古と言われた団地(近所の子供達には心霊スポット扱いされてたほどのボロボロ団地)の6畳+4畳半の2Kの間取りに父母私弟の4人で住んでいた。
古いだけでなくまったく家の片付けができない母が管理する我が家は、風が吹くと窓という窓がガタガタガタ!と揺れ、風呂はカビだらけ、床は腐って穴が空いており、部屋中タバコのヤニで真っ黄色、埃だらけの無数の洋服が長押に何年も吊るされたまま、トイレは汚れすぎて家中が公衆トイレのような臭いにつつまれ、暖かい季節には毎日大型のクロゴキブリと寝床の奪い合い(この時の経験がトラウマになり私は一切の虫を触れず、特にゴキブリは大の苦手である)をするという、住環境だけで言えばちょっとしたスラムみたいな状況になっており、そこで生活していた。
そんな虫唾が走るほどクソボロの我が家の大黒柱である父は、地元企業で営業マンをしていた。
毎晩接待だなんだと理由をつけて酔っ払って返ってきては、好き勝手に母や私たちに絡み、大声で怒鳴ったりくだをまいたりする、いわゆる酒乱だった。そして週末もまた接待だ釣りだなんだと言っては外出し、家にいることのほうが珍しかった。
高級中華だの寿司だのと色んなうまいものを食したと自慢をしてくる父を見ながら、私たちはなぜこんな貧乏生活をしているのだろうかと素直に疑問に思ったのものだ。
父は結局のところ、家族に対して財を提供するのが嫌な人だったのだ。家も買いたくない、車も買いたくない、学費も払いたくない、とにかく大金がかかることはやりたくない。そんな金はどこにもないんだと言いながら部下を引き連れて毎晩飲み明かし、週末は海へ釣りに繰り出す。社用車のトヨタの高級セダンを乗り回し、変な飲み屋のブサイクな女を侍らせ、飲酒運転を繰り返し、やたらにカバンや靴や釣り竿だけ良いものを買い、家族には還元しなかった。

そして調子に乗った父は40歳ぐらい(私は小学校高学年だった)のときに、飲酒運転で自損事故を起こした。隣には場末のスナックで捕まえた女が乗っていたそうだ。
雨の日の夜に調子に乗って飛ばした父はぐるんぐるんにスピンした挙句に電柱に激突し、社用車に勝手に組み込んでいたご自慢のMDドライブ搭載カーステレオが飛んできて左手の腱をバッサリ切った。隣に乗っていた女も多少怪我をした。
もちろん、そんなアホな事故を起こせば会社の中でも立場はなくなったようで、そのうち父は会社を辞めてきた。

父は無職になり、毎日フルキャストの日雇い派遣のアルバイトをするようになった。
それで家族を養ってくれるのかと思ったら大きな間違いで、その金をこれまで通り飲み代や週末の釣りに使っていた。
結局、家の生活費は母のパート代で賄うことになり、私(中学生)と弟(小学生)という育ち盛りの兄弟の夕飯がまさかの納豆卵かけご飯だけになったりしていた。(この時の日々が私の中で割とトラウマになっていて25歳ぐらいまで納豆卵かけご飯が食べられなかった。)
父はアルバイトから帰ってくるたびに文句を言った。暑くて耐えられん、腰が痛い、しんどい、手が痛い(腱を切ったので当たり前である)などなど。文句を言いながら酒を飲み、そして電話で誰かに呼ばれれば飲みに出ていった。
この父が言っていた文句の中で耳を疑ったことがある。それはとある日に派遣された先でのことだった。その仕事は倉庫作業で、上司から指定されたものを無数の棚の中からダッシュで探してきて持ってくるという仕事だったそうだ。かなり体力的にしんどかったらしく、上司の言う通りにできなかったようで、それを上司に叱責されたのがどうしても許せない、と。何より許せないのは、その上司が障がい者だったことだそうで、「障がい者にアゴで使われたんだぞ!?信じられるか!?」と中学生の私に言ってきたのだ。私はその価値観のほうがよっぽど信じられないよ、と思った。私が初めて父に落胆した瞬間だった。

そんな生活が続き、私はいつのまにか高校生になっていた。相変わらず貧乏だったが、祖父母の支援などもあり何とか野球を3年間続けることができた。
そして高校三年の夏、地方大会の4回線で破れて引退することが決まった私は、茫然自失状態で球場から家に帰ってきた。
家に帰ると両親が神妙な面持ちで座っていた。そして私にもそこに座れ、と。
父が口を開いた。
「野球お疲れ様でした。惜しかったな。大会終わってすぐのタイミングで悪いんだけど、明日からバイトしてくれるか?頼んだぞ。」

近所の中華料理屋でバイトをして家計にほんの少しの貢献をしながら、祖父母から援助してもらったお金で予備校に通う日々の続け、私は何とか某「山の神」で一瞬だけ駅伝を無双した大学に合格することができた。(父もたまたまこの大学の卒業生なことは少し複雑だった…)
相変わらず父は定職についておらず、生活はますます苦しくなっていた。
大学入学を控えた春休み、私は中華料理屋のバイトに追加して父と同じくフルキャストの日雇い派遣で汗を流した。車の免許が欲しかったのだ。教習所へ通うことを夢見て毎日働き、なんとか20万円を貯金することができた。それを父に勘付かれてしまった。
「おい、お前。明日給料全部下ろしてこい。おれんとこにもってこい。」
耳を疑った。いくらなんでも理不尽すぎる、と。中華料理屋でバイトしてる分は家に入れているのに、追加で働いた分まで持っていくのか、と。ていうか、自分も同じ派遣の仕事しててその大変さや苦しみもわかっているでしょうよ、と。なんでこんなひどいことをするのかと私は本当に苦しんだ。苦しすぎて頭を抱えながら夜な夜な布団の中で泣き腫らした。
何日か父の命令をシカトして何食わぬ顔で過ごしたが、父は許さなかった。ある日、ついに父がキレた。
「おい、いつ持ってくんだ金。誰のおかげで生活できてると思ってるんだ。いい加減にしろよ。明日持ってこいよ。」
私が生活できているのは少なくとも父のおかげでないのは明白だった。生活費は母がパートで稼ぎ、大学の入学金関連はすべて祖父母の支援だし、だいたい学費自体も奨学金で進学する予定なのだ。父のおかげではない。金がないと言いながら毎晩しっかりいいちこ(本当に金がないのならビッグマンだのトップバリューだのもっと安い酒は星の数ほどあるのに、なぜかいいちこより下のレベルには落とさなかった)を飲む金は確保しているのだから、私の免許取得費用をなぜ奪われなければいけないのかさっぱりわからなかった。
一発ぶん殴ってやろうかと思ったが、できなかった。こちらはゴリゴリの高校球児なので腕力では間違いなく勝てるだろうが、できなかった。それをやったら、家族の関係が完全に壊れると思って怖くてできなかったのだ。
そして私は翌日、銀行で下ろしてきたお金を父に渡した。

私が大学に入学してしばらくすると、父は再就職先を決め、某サブリース系の田舎の田んぼのど真ん中にアパートを建てさせる無借金経営で有名な某企業で働き出した。
元々営業マンとしての能力はそこまで低くなかったらしく、歩合をたんまりもらって帰ってくるようになった。多少は母にも還元していたらしく、晩御飯は毎回惣菜のカツと臭い白ごはんにグレードアップしていた。とはいえ、私はもうほとんどまともな時間には家に帰らず、アルバイト、バイク、バンド(ここら辺でBomberfetTの前身になるバンドを結成する)に傾倒していくようになる。
ある日珍しく早い時間に家に帰ったところ、父と遭遇した。
父は私に、今の仕事を辞めると言ってきた。理由を要約すると、「どう考えても儲かるはずのないアパートを田舎の金持ちに建てさせる仕事に飽き飽きした。おれは人を騙したり詐欺まがいのことはしたくない。おれはなんだかんだ言って曲がったことが許せないんだよな。」ということだった。私は障がい者差別を露骨に口にしたり、息子が汗水流して稼いだバイト代を持っていく人が何を言っているのかと遠い目になった。父はいつだって悪気なくこういうことを言うのだ。過去に自分がしたことや言ったことはすっかり忘れて、その時その時に思ったことを口にする、それもとびきり格好つけて。つまり、本当に自分勝手な人なのだ。
そして父は会社を辞め、防水塗装の会社に転職し、そしてそこのメンバーを引き連れて独立した。防水塗装屋の社長になったのだ。

父が起業したころ、心霊スポット扱いされていた我が家の団地はついに老朽化による建て替え時期を迎え、我々家族は近所の新築の公団に格安で引っ越すことになった。夢の3LDKである。もうクロゴキブリと戦わなくて済むだけでなく、ついにプライバシーというものを手に入れることができることを私は心から喜んだ。
ところが、ここあたりから父の挙動はますますおかしくなる。
金は実際に稼げるようになったようでかなり羽振りがよさそうだったし、母にしっかりと生活費を渡しているようだった。事務所を構えたようであまり家には帰ってこなかったが、それでも生活はだいぶよくなっていた、ように見えた。
父は私に会社を手伝うよう言い、新規獲得のための訪問営業のバイトをやらせた。(私にはさっぱり才能がなく、1年間真面目にやったが案件は一件しか取れなかった。)
仕事を手伝う中で違和感は次第に大きくなった。営業のバイトは現地集合・現地解散のためよくわからないが、どうも「事務所」と呼ばれるところには女がいるらしい。私はそれとなく父に探りを入れていったが、その挙動を見た父はそれが私が父の女性関係に寛容な態度を示してのものだと誤解したらしく、その女について勝手に話し始めた。
まさかの、社用車事故の時に隣に乗ってた女だった。(以下、この女はその容姿から「鶏ガラ」と呼ぶ。)
鶏ガラと父は事故を起こす前から付き合っており、事故を起こした後もずっと続いていたのだそうな。派遣のアルバイトで疲れ切っていたころも定期的に鶏ガラと逢瀬を重ね、慰めてもらっていた、と。そのうち二重生活を始め、起業してから金の回りが良くなったあたりでついに二人の愛の巣を作り、そこを事務所にしているのだ、と。
どおりで最近家に帰ってこない日が増えたわけだと妙に納得したが、私はこの話を母に言うのも違う気がしたし、家に金を入れてくれるならもういいやと思って放っておくことにした。(この判断が後々の悲劇につながった可能性がある。)

父の仕事の手伝いを辞め、私は一層爛れた生活に拍車をかけた。夕方からアルバイトをし、夜通しバイクを走らせる。バンド活動だなどと言いながらメンバーとジョナサンで週2でだべったり音源も出さずに謎のツアーに繰り出したり。大学には年に数回、飲み会に呼ばれた時だけ行く生活をしていた。
そんな中、結構ハードなバイク事故(生きてたのが奇跡なレベル)を起こして大学の必修の単位を落としてしまった。
大学に行く意味を見失った私は父に大学を辞めることを宣言したが、止められた。何年かかってもいいから卒業だけはしろ、と。しかし、必修を落としたことで留年が確定した私は、奨学金でこれ以上大学に通うことができなくなってしまった。
そこで仕方なく国庫の教育ローンを借りて通学を継続することになるのだが、これは親の名義で借りなければいけなかった。これまで金を出し惜しんできた父がこのローンにサインをするとは到底思えなかった。
が、意外なことに父は簡単にサインをした。どうやら自分の会社がすごく調子がよく、その程度の金ならいざとなったら払えるだろうという見込みと、そもそも私が支払いをするローンだから自分にはあまり関係ないだろう、所詮は保証人みたいなものだから息子が生きてる限り関係ないだろうという、とてつもない大きな誤解をしていたのが原因らしい。(そして私は見事計8年かけて大学を卒業するのであった。笑)

私がまともに大学に通うようになってから、父の酒癖はさらに悪くなっていった。酒を飲む量は明らかに増えていたし、昼から飲むようになっていた。昼から飲んで現場に行き、その帰りから飲み始め、毎日終電で帰った。
家に帰る頻度も二日に一回程度になり、とんでもなく酔っ払った状態で帰ってきては寝ている私の部屋に突撃し、無理やり起こしてあーでもないこーでもないと説教を垂れながらいいちこの水割りを飲み、そして疲れが限界に達するとおもむろに寝室に入っていって寝た。
私も私でこのころは何とか父に近づくことで様々な問題を緩和できるのではないかという浅い考えを持っていたので、家族の中では唯一父に辛く当たらず、話を聞いたり一緒に酒を飲んだりしていた。たぶん、これもいけなかった。父はただただ調子に乗っていった。
母がある日、毎晩のように夜中まで酒を飲む父とそれに付き合う私にキレ、「いい加減にしろ!早く寝ろ!」とキレた。それに父は、なんとビンタで応酬したのだ。アホか!なにやっとんじゃ!と止めた私にも裏拳をかまし、「しらけたわ!お前ら気持ち悪いわ!」と捨て台詞を吐き、父は床についた。父が一線を超えた瞬間だった。これまでどれだけ飲んで怒鳴ったりくだをまいたりしても暴力だけは振るうことがなかった父が、私たちに手をあげたのだ。
翌日の朝に父を問いただすと、「何も覚えていない。そんなことしたのか?悪かったなぁ。ただ何も覚えてないからこれ以上何も言えないわ。」と、まったく謝罪になっていない謝罪を繰り出し、この出来事は私たち家族に深い影を落とした。

私が無事大学を卒業して就職し、彼女(今の妻)の家に転がり込んで実家を出たころ、父もますます家に帰らなくなった。仕事は相変わらず好調だったようだが、いくつかの不動産会社からもらえる案件だけを受けてもう新規の営業はしなくなっていた。新規を取らないので売上は伸びなかったが、父はある方法で利益を増やすことに成功していた。それは、「脱税」だ。
父は領収書を偽造したり、明らかに事業経費でないものまで経費扱いにするようになっていた。その影響で、2500万の売り上げ(施工は別会社に委託しておりその防水塗装の原価は別)の会社の利益は100万ほどにまで圧縮されていた。ほとんど税金を納めることもなく父は毎晩飲みに行きまくり、事務所へ帰った。
しかし、そんな生活も終わりがやってくる。税務署が立ち入り検査に踏み切ったのだ。
父はいよいよ焦った。が、焦っても無駄である。税務署は完全に父をマークしていたようで、初動からかなりの人数でおしかけ、事務所の中をひっくり返したそうだ。そしてその中から何の金額も入っていない飲食店の領収証の束を見つけ、ゲームオーバーとなった。過去数年に渡っての脱税と税務署からは判断され、それはそれは末恐ろしい金額の追徴課税を受けることとなった。
父はこれ以前からも度々生活費を家に入れることを渋り、母の生活はだんだんと困窮していたのだが、この追徴課税によりいよいよ生活費を完全に入れなくなった。母は大学院に進んだ弟と同居していたので引っ越すわけにもいかず、借入をするようになった。
そのうち、父はなぜかすべての元凶は母にあるのだと考えるようになった。仕事に理解がない、家が汚い、金ばかり要求してくる、追徴課税を食らって大変な目に遭っているのにまったく助けてくれない…等々、家の汚さ等の母の家事全般に対しての不満については心より同情するものの、それ以外は完全に八つ当たりのようなことを私に言うようになった。父は度々離婚について言及するようになり、母はそれに激怒した。
そして、ついにその時が来た。父が離婚届を家のポストに入れるという、最悪の方法で離婚要求したのだ。30年近く連れ添った妻に対してやる離婚の要求方法としては本当に最悪の方法だったと思う。

父と母は離婚調停になった。父は私たち家族を舐めていたのか以前から鶏ガラの存在を私に完全に公にしており、また母も母で鶏ガラの存在を認識していたため、あっという間に父の不倫の証拠は集められた。それにより、父の有責による離婚で調停は進んだ。が、父は金を払うことに必死で抵抗した。どうやら離婚後、追徴課税を乗り切ったその後には鶏ガラと再婚し、悠々自適な老後を過ごそうと思っていたらしい。これまでの収入が維持できれば現実的なプランだった。これを達成するためには、追徴課税に充てる資金を母への慰謝料にするわけにはいかなかったようで、それ故の抵抗だった。
調停はうまくいかず、家庭裁判所へもつれ込んだ。父は現在の収入に対して追徴課税があまりにも重いことと年齢を理由に必死で慰謝料減額を訴えた。結果として、10年以上別宅まで設けて不倫していたにも関わらず、普通に不倫が原因で離婚するそこらへんの夫婦の相場通りの慰謝料(250万ぐらい)で話はまとまった。しかもこれを10年かけて割賦で支払うと父は言い出した。月2万弱である。そんな端金で母が生活できるはずがない。しかも、これまで生活費を家に入れなかったことで発生した母の借金を、「原因はどうであれ名義に則って返済すべき。おれだって散々借金してるんだ!」という理屈で返済しないと主張したのだ。離婚調停から含めると中々の期間がかかっていたこともあり、母はすっかり折れてしまってこれらの条件を飲んだ。
となると、結局母の面倒を見るのは長男の私になるのは明白だった。同居等、間接的にでも経済的支援をせざるを得ないだろう。父はこれまでもことあるごとに「お前が母さんと弟の面倒を見るんだぞ。長男なんだから。」と言っていたが、まさかその意味が離婚して金も払わずトンズラするから後はよろしくな!という意味だったとは私も知る由もなかった。そもそも、そんな偉そうなことを宣っていた父自身は自分の母や妹の面倒を見るどころか散々借金したり助けてもらってばっかりなのに、である。離婚そのものについては男女の問題だから、はっきり言ってどうだっていい。そんなもんは夫婦どちらか一方だけが良いとか悪いとか、そういう話じゃないと思ってる。が、それによって息子に大きな負担がかかるっていうのはどういうことだ。信じられない。
(ついでに言うと、母から不倫の慰謝料を支払うよう言われた鶏ガラは、愚かにも数万円ぽっちの慰謝料を掲示してきた。その書面には脅し文句で「これ以上要求するなら自己破産してやる」と書いてあった。完全に「無敵の人」状態である。)

私はキレた。父と鶏ガラを許さないことにした。少なくとも、母の生活を保障するための金を彼らは出すべきだ。
ということで、父本人が言っていた「借金は原因はどうであれその名義に則って返済すべき」というその理屈をもとに、父名義で借りていた教育ローンの支払いを拒否した。月々約7万円の支払いだ。追徴課税が原因でちぎれかけた首が皮一枚で繋がっていたところに、これ。当然、首はぶっ飛んでいった。

父は自己破産した。支払いが滞ったのが原因で会社は畳むことになり、アルバイトで生活するようになった。息子や元嫁は父からの連絡に一切返さなくなり、疎遠になった。
私は彼女と結婚し、母を引き取って同居し始めた。(姑と同居してくれる妻というのは本当に貴重なのだ。頭が上がらない。)
私は夢だった「家を買うこと」「犬を飼うこと」「子を持つこと」を達成し、決して裕福ではないが楽しく幸せな生活を送っている。(これに続いて「バンドで世界ツアーをすること」の夢が達成できたらもうほんと言うことないんだけどなぁ…)
叔母から(私はまじで全然聞きたくもなかったのだが)定期的に父の状況の報告があったのだが、父は鶏ガラと一緒に千葉の房総半島の奥地に引っ越したと聞いた。どうやら鶏ガラの親戚が千葉にいるらしく、それを頼って引っ越したようだ。が、鶏ガラの家族は父との結婚に大反対。それを無視して再婚した結果、誰からも援助されることなく二人で貧困に喘ぎながら生活することになったそうな。
そしてこれと時を同じくして、父は肝硬変になった。原因は推して知るべし、である。完全にアル中になっていたようで、体重も激減したとのこと。
さらにその数年後、父は白血病になった。とてつもなく不健康な生活(昼から酒を飲み、ろくに飯も食わない)をしていたようなので、そこらへんも原因になったのかもしれない。知らんけど。

で、冒頭の話に戻る。

病室で苦しむ父を見た帰り、私はなぜ少し悲しい気持ちになったのか。
父のことをもはや強く恨んだり憎んだりしていないが、それでも決して良い感情は持っていないのに、なぜ悲しい気持ちになったのか。
それはおそらく、孫を見た父の表情がまったく一つも嘘偽りなく愛情に溢れたものだったからな気がする。
父は結局、私たち家族を愛していなかったわけではないのだ。その愛情表現があまりにも歪だったし、というか、根本的に自分勝手すぎてまったく伝わっていなかっただけで、愛情が希薄な人間ではなかったのだ。
私たちが求めていた愛情は、私がゲームの攻略本を丸暗記したエピソードを「うちのせがれは天才なんだ!」と自慢げに飲み屋で話すことでもなく、私の野球の試合にわざわざ会社の部下を引き連れてきてむしろ恥ずかしい思いをさせることでもなく、お気に入りのロックバー(後に出禁になる)に連れていってディープパープルのブートを延々聴かせることでもなく、家族の誕生日に珍しくでかけることを提案してきたと思ったら昼間から酒飲んで集合してくることでもなく、さいたまからめちゃくちゃ遠い浅草のラーメン屋に連れて行くことでもなければ、大学を中々出ない息子の未来を案じて夜中まで酔っ払いながらあーだこーだとくだをまくことでもないのだ。
求めていた愛情は、妻や子のために財を成したり、家族ファーストで物事に向き合う姿勢だったり、そういったものが少しでも感じられるようなものだったのだが、それは最後まで叶えられることはなかった。いつまでも自分の都合が一番だったし、自分ファーストな人だった。が、愛情はあったのだ。愛情はあるのに形に表すことがあまりにできなかったので、こんな悲惨な最後になってしまったのだ。
私はそんな境遇に陥った父に対して同情し、そしてやっぱり心のどこかで父の愛情をちゃんと受けたかったなぁと、もう取り返せない願望を思い描き、悲しくなったのだと思う。

父との数少ない良い思い出に、毎年の夏の旅行というのがある。
父は鶏ガラと付き合い出すまで、毎年海水浴に連れていってくれていた。(後に知ることだがこの費用は母が払っていたのだという。さすがである。笑)
場所は必ず決まって千葉県の外房。房総スカイラインを走って山の中を抜けると視界いっぱいに広がる海に、心躍らせたものだ。
まさかこの場所で逝くとは。これでもう、私の幼少期の綺麗な思い出も、父の死によって上書きされてしまった。この場所は、「父が死んだ場所」なのだ。
本当に自分ファーストな人だ。なんと勝手な人だろうか。
だが、もういい。故人は詰問されるべきではない。偲ばれるべきだ。
鴨川の海の美しさに免じて、今は静かに冥福を祈ろうと思う。



追伸。

叔母から聞いた話。
父は千葉に引っ越してから、鶏ガラにことあるごとに「寂しい」「息子に会いたい」「元嫁は今どうしているのか」と嘆きながら酒を飲んでいたらしい。
人生をかけて3度目(驚愕)の再婚をしたパートナーからそんなことを言われる鶏ガラ。かわいそうである。が、父はそういう人である。自分ファーストなのだから、鶏ガラに対しても適切な配慮とか、そんなのあるわけないのである。知ってるでしょ?何十年も一緒にいるんだから。

そして父の遺言に則って、骨は東京湾に散骨するらしい。
祖母(父の母)と同じところで同じように撒いて欲しいのね。うん、わかるよ。でもさ、あの船すげー揺れるんだよな。東京湾って揺れないと思うじゃん?湾奥出た途端バッチバチ揺れるからね、普通に。
はぁ。しゃーねーな。行くか、海洋散骨。はぁ。

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