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その存在を受け容れられた途端に「敵」はいなくなる

僕は元々、

「他人の投稿のコメント欄に、
自分の反対意見を書き込むのは、
臆病者のすることだ」

と思ってました。


「自分の意見は自分のところでやれよ。
自分で発信もできない腰抜けが、
偉そうに人を批判してんじゃねぇよ」

みたいな。


別に、
反対意見を述べられるのが嫌、
というわけじゃないんです。

でも、自分が「よし、やるぞ!」って意気込みの時に、
「それはどうかと思う」みたいな書き込みをされるのって、
すごく、気分的に嫌じゃないですか。
空気読まない、ってこういうことを言うんじゃないのかと。

言ってること自体の正当性を議論したいなら、
ちゃんと時と場合を見極めるべきだし、
議論がヘタでそういうのの訓練もしたことない人たちが、
さも正当な批判のようにしてくるソレは、
単に、「八つ当たり」に過ぎないと思ってたから。


だから、大っ嫌いだったなー。


自分の鬱憤を、そういうところで、
ぶつけられる相手にぶつけて発散しようっていう気持ちが、
本人は意識してないかもしれなくても、見え見えだったから。


で、僕も僕で、そういう時、
八つ当たりを受け流せるほど余裕が、
いつもあったわけでもなかったのでね。


というか、僕に限らず、
SNSで「決意表明」をする時って、
実際の精神の不安定さを補強するために、
口に出したり言葉に表したり発信したりするわけなので・・・・

そういうタイミングに、呪いの言葉をぶつけられると、
そりゃ過剰反応してしまうわけですよ。


でも、ある時誰かに言われたんです。

「自分では発信できないのに他人のところで批判する人は、
確かに臆病で卑怯かもしれない。
でも、だからこそ日々不安やしんどさを抱えて、
救いを求めるような気持ちでコメントしてくるんだよね」

みたいなことを。


それを聞いて・・・・
「はた迷惑な!」とも感じましたけれども。

じゃあ、僕に対して、うざったい、
すごく嫌な感じのコメントをしてくる人たちの、
言葉の向こうに隠された真意が、「助けて」だったとして。

そしたら、その人たちに対して、僕は、
どういう態度を取れる人間でありたいのか、って考えたんだ。


そして、

「自分に余裕がある時には相手をしてあげよう」

って、思ったのです(笑)


僕に敵対するような意見を述べてくる人も、
「敵」ではない。
僕が、「闘う」べき相手じゃない。
あれだよ、通りすがりの、道を聞いてくる人みたいな(笑)


僕が何かを投稿した時、
それに反応する人っていうのは・・・・

僕が、ひとつの大きな指針を示したことで、
それに自分の心の内が反応して、
「こっちかもしれない」って寄ってきてるんですよね。

それは、「私もそう思います!」であることもあるけれども、
「私はそうは思いません!」も含めて、そうなんだ。

その人にとっての正しさが右か左かは分からないし、
僕にとっては右でも、
その人にとって左であることは往々にしてある。

それでも、少なくともその人は、
僕と「同じ分岐点」にいたからこそ、
僕が「右!」って言うのに対し、
「左!」って表明することで、
自分の進むべき道を探したかったんだと。


そう思うと、その、
うざったいコメントをしてくる人たちに対して、
敵意や怒りが消えていきました。



僕がやってたことは、喩えて言うなら、
「ショッピングセンターに向かって歩いてた時に『駅はどっちですか?』
と話しかけられて、
『うるいさい!こっちはショッピングに行くんじゃ!』と言いたくなる」
ようなものだったのかなぁと。

別にその人は、僕に、
ショッピングセンターに行くなと言いたかったわけじゃない。
自分が駅に行きたくて迷っているところ、
道を聞きたかったのに、うまく聞けなかっただけ。


そういうことが分かったら、
何も恐れることが無いなぁと(笑)

自分に余裕がある時には、駅への道を、
(僕自身が知ってればだけど)教えてあげたらいいんだ。

ただ、それだけだったんだ。


勿論、別に僕は街の案内係じゃないんだから、
自分が急いでいる時には、
立ち止まってゆっくり説明してあげなくちゃいけない義務もない。

「すみませんが今急いでるんで他の人に聞いてください」
で、スルーしてしまってもいい。

その人はもしかしたら、
「不親切な!教えてくれたっていいじゃないか!」
と怒るかもしれないが・・・・そんなのお門違いでしょ(笑)



現実で、僕が何かを表明したり、
自分の考え方を発信した時に、
それに対して反対意見を述べてくる人は、
こういう「道に迷った人」。

自分で自分の行く道が分かっているんだったら、
自分から発信すればいいんですよね。

まぁ、僕は実際の道で誰かに聞かれても、
「人に聞くなよ自分で地図見て調べろよ(笑)」
みたいな意識があったりもしますけど。
でも、まだ、道を聞くってことだったら、納得がいきますもんね。




というわけで、ある時以降、
「今度からそういう批判コメントがついたら、
自分に余裕のある限り付き合ってあげよう」
と思い、心穏やかに過ごせるようになりました。


そして、余裕がない時は既読スルーすればいいや、と。
少なくとも、他人のコメントに、
自分が心乱される必要はないんだなと。

でも、そしたら、ですよ。
そういう気持ちになった途端、
そういうコメントがぐっと減った(笑)
なかなか全然、そんなコメントがつかなくなりました(笑)

昔はもっと直接的な、攻撃的な、
明らかに批判的なコメントが沢山ついたもんなんだけど(笑)

最近は、ついたとしても、
「すみません道に迷ってるんですが」というのが分かりやすい、
「穏やかな反対意見」ばかり。


不思議。

「いつでもこい!」って思った瞬間に、
来なくなってしまった。

こういうことは、他にも、いっぱいあります。

「値下げ交渉をされるのがすごく嫌だ」
って思ってる時はよくそれをされていたのに、

「値下げ交渉をしてくる人は敵じゃない、
されたらこっちはこっちで、
代わりにやってほしいことを言えばいいんだ」
って思い始めた途端に、値下げ交渉されなくなりました。

次にされたら、これをお願いしよう、
って準備していた分、ちょっとガッカリしてるくらいで(笑)


他にも、
「恋人を作ることに気を取られるのはいったんやめて、
自分の人生にもっとしっかりフォーカスしよう」
って考え出した途端に、恋人ができたり、とかね。

1度や2度じゃないんですよ、そんなこと。



目の前に「敵」として見える存在を、
赦して受け容れる。

今の「上手くいってない」と思える現実を、
そのまま受け容れる。

こういうことをした途端に、
「敵」はいなくなるし、現実は上手くいきだす。

そう簡単にできることじゃないかもしれない。
というか、簡単にできないから「敵視」しちゃうんだし。

でも、一度は敵視しちゃうくらい、
自分の中で膨れ上がった負の感情だからこそ、
それを受け容れられた途端、
還ってくる「安心」も大きいんじゃないかなーと思います。



難しいですよね、そのためには、
自分への強い信頼が必要ですもんね。

「この敵を受け容れても自分の人生は揺るぎはしない」
っていう、信頼。

誰かを敵視するってことは、
「こいつを受け容れたら自分の人生が悪いものになる」
って思ってる時ですから。

誰かを敵視するってことは、
「その人を受け容れられないくらい自分は弱い」
って言ってるのと同じですから。

そこを、受け容れるってことは、
自分を信じられるようになるってこと。

「自分はちゃんと強いから大丈夫」
と認められるということ。

そしたらさ、「コイツつえええええ!」って思う相手に、
わざわざケンカ吹っ掛ける相手なんてそうそういないように、

「自分の批判はただの八つ当たりだ」って、
自覚のある人は八つ当たれなくなる。
助けてほしい人は、助けてほしいと素直に言いやすくなる。


どちらにしろ、批判的なコメントは、
「批判的なコメントしてもいいよ!」
ってスタンスになった途端、消えていくわけです。




受け容れた途端に、
「敵」は消えていく。

これ、本当だなぁと思います。

ただ、僕も、これ、分かっていても、
そこを受け容れるのは容易じゃなかったです。

だってやっぱり、八つ当たりと言ったって、
叩かれたら痛いんですもの。

痛いんだから、
「痛いわボケ!」って返したくなっちゃいますもの。

しかも、自分自身も不安定な状態だと・・・・
自分は目隠しされてて、
正体不明の誰かに叩かれているようなもんだからね。

余計に怖い。


それを、
「琢磨のコメント欄にコメントをする人たちは、
琢磨に助けてもらいたがってる人なんだよ」
と言ってもらえたことで、目隠しが外れた気がしたのです。

自分を叩いてきている人たちの「正体」が見えた。

それでひとつ、恐れが消えてなくなっていった。



そして、今は、愛する人が、まりこがそばにいてくれています。
RPGとかで言うところの、最高の白魔導士(笑)

誰かにどんだけ叩かれても、
回復すればいいから大丈夫か、って思うと、
安心して叩かれにもいける(笑)

回復魔法もすごいし、防御力アップ魔法とか、
回避魔法とかもすごいんですよ、うちの妻は(笑)



そんなふうにしてたら、
そんじょそこらの批判コメントなんて、
批判のうちに入らなくなってきてしまったよ(笑)

それに、子どもが力士に突進していったら、
その巨体に弾き返されて、ケガするのは子どもの方だしね。

「自分で発信する勇気がなく、
他人のコメント欄に批判コメントを書く」
っていうレベルの人と、僕とのエネルギー差は、
いうなればそれっくらいのとこがあります(笑)

だから、分別がつくようになると突進もしてこないですよね(笑)




さて、長くなり過ぎちゃうからこの辺で。

結局、このことから気付いたのは、
「その存在を受け容れたられ途端に『敵』はいなくなる」
ということ。

「敵」に、いなくなれ!!って言うんじゃなくて、
いてもいいよ、大丈夫だよ、って言うこと。

いてもいなくても、
自分は大丈夫だよって、
自分にも言うこと。

今、誰かや何かを「敵」に見立てている人は、
それ、きっとすごいチャンスなんじゃないでしょうか。


その「敵」を、自分らしい形で受け容れられた時、
その「敵」は自分と融合してひとつになる。

「敵」が大きければ大きいほど、
融合時に得られるエネルギーも膨大だから、
それまでの人生とは違う世界が拓けるのも、当たり前。


人生を切り拓いていくカギのひとつは、
その時に感じている「敵」にあるんじゃないでしょうか。




僕にもまだまだ沢山の敵がいます。
僕が水から勝手に作り出した敵が。

これの意味することはつまり、
僕はまだまだ強くなっていけるということ。

融合を果たせる敵、
取り込めるエネルギーが、
まだまだ残ってるということ。


まだまだもっともっと人生は楽しくなる。
敵の数だけ可能性がある。

別にわざわざ敵を作れっていうわけじゃないけど、
敵を作り出してしまう人は、
敵の存在を感じる時こそチャンスなんじゃないでしょうか。




トップの写真のまりこのように、
出会う生き物みんなに、

「オーッス」

って言って受け容れていけると、
そりゃあどんどん、
自分の中にエネルギーは入ってくるわ。

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