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CancerX Story 〜三嶋雄太編〜

CancerXメンバーがリレー方式で綴る「CancerX Story」
第11回はCancerX共同発起人の三嶋 雄太です。

1)私のキャンサーストーリー〜がんとの関わりについて〜

【お母さんもがんという病気で死ぬ】

私と最初のがんとの関わりは、母方の祖父母の病気でした。同じような経験をお持ちの方も多いかもしれませんが、私が1歳の時に祖母が、4歳の時に祖父ががんで亡くなりました。祖父との最期の記憶は、病室の景色がスナップショットとして強く記憶に残っています。

4歳の時の記憶は通常曖昧なものだと思うのですが、それが病院での写真もない中で頭に残っているのは、がんというものに対して頭で理解する初めての体験が、母の悲しむ姿と共に、幼い頭に刷り込まれたからかもしれません。

母にしてみると20代後半から両親を相次いでがんで失ったダメージはとても大きいものだったと想像します。祖父母の死により、”母もがんで死ぬかもしれない”という意味合いの言葉が時折耳に入ることがありました。その度に祖父母の死が呼び起こされました。

このときはもちろん、がんと遺伝の関係性に関して現在のような情報も知識も考える力もありませんので、子供心に抗う方法もわからず、ただ ”がんという病気が原因で母が死ぬかもしれない” という恐怖を繰り返し感じていました。

これが原体験として、間違いなく私の進路に影響しています。

祖母、母、筆者(8ヶ月)、祖父

進路を考える際には「がん」は常にキーワードでした。その結果、より多くの人にアプローチできる可能性の高い「薬を創る職」に進みたいと考えるようになり、薬学部に進みました。

当時は分子標的薬(抗体医薬)が大変注目されて来ていた時で、私は薬学部の中でも化学(化合物の合成)ではなく、抗体医薬のように生物学からのアプローチができる専攻を選びました。

薬学部を卒業する頃には創薬に自ら関わるには研究者になる必要があることを理解していましたが、どの方向に自分の創薬の可能性を見出すべきか迷っていました。

その折に出てきたビッグニュースが 山中伸弥先生によるiPS細胞の発見でした。2006年にマウス、2007年にはヒトでiPS細胞作製に成功したニュースが駆け巡り、将来の研究の方向性を模索していた私は大変興奮しました。

山中伸弥先生と

特にヒトで成功した2007年以降は、これからどうやって iPS細胞が我々人間の医療に役に立つかという議論を加熱させ、とても期待が高まっていました。

大学院、海外留学と一貫してがんに関係する研究を通して研究者としてのトレーニングを重ねました。海外留学ではとても良い環境で白血病(血液のがん)の研究をする機会に恵まれました。ハーバード大学医学部の教授とシンガポールのがん研究所の所長を兼任するような著名なボスが主催する研究室で、たくさんの人種が集まる多様性のるつぼのような研究室でした。

留学中先の研究室、ハーバード大学医学部ベスイスラエルディーコネス医療センター Tenen Labo にて。ラボメンバーの国籍はイスラエル、ブラジル、イタリア、中国、イラン、オーストリア に及びとても多様でした。 (一番左が筆者、後列真ん中の紫の服が Daniel G Tenen教授)
留学先の筆者

論文を通すのも研究をすすめるのもネットワークとチームワークがとても重要な要素であることを経験しました。帰国時には目標にしていた京都大学 iPS細胞研究所(Center for iPS Cell Research and Application、 以降 CiRA:サイラと発音)に研究員として就職し、がんとiPS細胞技術が交差するプロジェクトに参加することが出来ました。

iPS細胞研究所主催の国際シンポジウムにて

様々な可能性を秘めたiPS細胞ですが、iPS細胞を使ってがんを治療するというとCiRAでは現在のボスでもある金子新先生の研究室が唯一のものでした。

そのアプローチはiPS細胞から作製した免疫細胞に、がんだけを認識する遺伝子の導入を行って、がんだけを排除する戦略です。現在に至るまでこの技術を使ったプロジェクトに従事しています。また病院では、既に承認されている数少ない遺伝子導入T細胞製剤(CAR-T療法)の細胞調製なども担当し、基礎研究から、臨床まで関わっています。

私とがんとの関係は患者とその家族のみならず、これからも自分のキャリアにずっと紐付いていくのだと思います。

2)CancerXに参加したきっかけ

【“急に電話してごめんね” 〜叔父さんのセカンドオピニオン〜】

帰国して、CiRAに勤務してしばらくたった頃、とても久しぶりに叔父さんから連絡がありました。叔父さんが進行度の高いがんに罹患したという知らせでした。

冒頭、急に電話してごめんね、で始まった電話は、雄太は医学系の職業なのでどのがんの治療が良いのか(今の治療で良いのか)相談したいというような内容の連絡でしたが、状況は中咽頭癌ステージは T4aN2Cでした。久しぶりに「がん」という言葉で血の気が引く体験をしました。

私から見ても厳しい判断の状況で、声帯を含めて全摘出する外科治療か放射線治療を選択するというセカンドオピニオンでした。人生をかけた選択と情報伝達、告知のあり方に関しての難しさや課題を痛感した出来事でした。


叔父のカルテより(一部画像を加工しています)

この経験から、自分の経験と立場だからこそアプローチできるがんの社会課題があることに気づきました。新しい治療法の可能性を追求する一方で、それらの社会課題になにか行動を起こすことも、研究者として社会に果たせる役割ではないかと考えるようになりました。

そんな中、がんの社会課題をコレクティブインパクトで解決する団体の立ち上げを、鈴木美穂さんにお声がけいただいたことをきっかけに、志を持った仲間たちと出会い、ともにCancerX を一緒に立ち上げるに至りました。

私は当時、主に同じ海外研修プログラムの同期(冒頭の写真)や留学仲間の中から医師や研究者という立場でがんに関わる信頼する同志にお声がけしました。(小林さん、増田さん、北原さん)

CancerX に集まるメンバーの利他精神と多様な考え方には日々感銘を受けます。同時に、がんと言われても同様しない社会に向けて、このプラットフォームに自分は何を持ち込んで貢献できるのか、常に考える日々を送っています。

3)今後の展望 

自分の立場から特に課題に感じていることは下記の2点です。

① がん治療全般 もしくは 最新のがん免疫療法に関する情報と理解不足
② 日本/海外の最先端研究(基礎研究)と製品化(実用化)の間の大きなギャップやそれに関するプロセスに対する理解不足

叔父のセカンドオピニオンの経験からも問題を感じたものが、インターネット検索から得られるがん情報です。叔父のサードオピニオンに備えて病院をインターネットで探していると、出てくる民間の免疫療法の検索結果や広告があまりに多いのに驚きました。そしてそれらは私の立場からはエビデンスの観点から叔父に情報共有できるようなものではありませんでした。

幸い叔父は声を失うことなく、重度の中咽頭癌から寛解し、現在まで再発なく元気に生きています。がんの発見時から最初にエビデンスの低い治療法に時間をとっていたら確実に違う未来になってしまっていたと思います。

もう一つは、基礎研究と臨床研究の違いや、標準治療(保険診療としての承認)に至るまでのプロセスに関する理解の難しさです。

特にがん免疫療法に関しては、少し前までは「がん免疫治療 ≒ 怪しい」 という注意喚起が、初めてがん治療に向き合う際のわかりやすい説明として耳にすることがありました。しかしながらいまその説明では危険です。

近年では高いエビデンスで治療成績を示し、標準治療として承認されるがん免疫治療薬が世の中に出てくるようになりました。ノーベル賞を受賞された本庶佑先生の発見もがん免疫療法に貢献するの大きな発見です。

特に細胞に遺伝子導入して行われる細胞医療(CAR-T療法)が確かなエビデンスを持って承認されたことが「がん免疫療法」を再び情報の精査が難しい領域となってしている思います。これらの課題解決に向けてCancerXを通じて貢献していきたいと思っています。


プロフィール


三 嶋 雄 太

医薬学博士。専門はエピジェネティクス、再生医療、血液学、腫瘍免疫学、レギュラトリーサイエンス。
薬学部を卒業後、大学院在学中にiPS細胞を世界で初めて事業化したバイオベンチャー企業のアメリカ支店設立プロジェクトに参画。その後ボストンへ渡米、ハーバード大学医学部・ベスイスラエルメディカルセンター研究員を経て、iPS細胞研究所と武田薬品工業の共同プログラム(T-CiRA)にて研究開発に従事。現在は筑波大学にてiPS細胞技術と遺伝子改変免疫細胞を組み合わせた次世代型がん治療製品の実用化を目指した研究を行っている。大学附属病院においてはCAR-T細胞療法の調製・製造や細胞調製施設(CPF)管理に関する業務に従事している。
その他、海外日本人研究者コミュニティの連名組織 社団法人 United Japanese researchers Around the World(UJA)にて理事・広報部長を担当。ボストンで20年以上続く最大の日本人研究者コミュニティ、ボストン日本人研究者交流(BJRF)日本支部発起人など、ボストンや海外研究者のコミュニティの支援活動も行う。

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