不真面目のすゝめ(改)

実は昔から「文章を書く」という行為が割と好きで
小学校6年生の時は毎日日記を書いていて、
中学生の時は同じ部活の友達と「交換小説」、
(互いに小説を書いていく交換日記のようなもの)
高校生にして初めて自分の携帯を手に入れたので
メール機能で携帯小説を書いてみたりしていました.

大学生になってからはアルバイトで塾講師を始め、
国語を教えるようになりました.

そんな大学1年の時、講義で「随筆を書く」という
課題が出されたことがありました.
テーマは自由、概ね800字程度の随筆を提出.
とのことでしたので、
私は当時大学生になってまだ弱冠10代の、
けれどその当時声を大にして訴えたい事柄を
その講義の課題の中で論じました.

それが意外や意外、
友人からは
「めっちゃ面白い(笑)」
「分かる!私もそう思うことある!」

教授からは「センスがあります」のコメントとともに
S評価を頂けたのです.

その当時19歳の私が書いた随筆を
折角なのでnoteにも投稿したいなと思った
秋の夜長です.

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【不真面目のすゝめ】

 「真面目がイチバンッ」どこだかの引越会社で聞いたようなコピーだが、タイトルからも分かるように、私は今回このコピーをアリさんには申し訳ないが、否定していこうと考えている。

 私は今までの人生を「真面目は得だ」そう信じて生きてきた。というか私はどんな尺度で見ても、人生のいつの部分を切り取ってみても「超」真面目だった。どれくらい真面目だったかいくつか例を挙げると、小学生の頃、転校したばかりで友達の名前が覚えられないとき、自分で独自に作成した「友達リスト」たるものを持っていて、名前と特徴の書かれたリストを、家に帰ってから血眼になって暗記した。小学生なのに勉強が好きで、六年生最後の通信簿は「オールA」で卒業した。中学生の頃の私も正に「真面目とはこのことか」と言わんばかりの「糞」真面目だった。三年間学級委員を務め、部長も務めた。三年間遅刻は一度もなかったし、授業で寝たこともなかった。進路面談のときは担任に「さあ、お前ならどこでも好きな高校に行けるぞ、選べ。」と言われた。極みつけは外見だった。スカートは膝下だったし、漫画に出てくる「学級委員長」みたいな赤渕眼鏡をかけていた。高校も変わらずだった。遅刻はなかったし、移動時間は常に勉強していたし、学生期間の十二年間は一度も塾へ行ったことがなかった。故に高校、大学受験もやたら内申は良くて、どちらも推薦で進学してきた。

 そろそろ「何だこの胸糞悪い自慢ばかりの随筆は。」という声が聞こえてきそうだが、これは私にとって「自慢」ではなく「悔やむべき過去」なのだ。真面目というのは世間ではこの上なく良いことのように賞賛されるが、最近とある矛盾に気が付いたのである。それは「学年一のビリギャルが一年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」がまさにこの矛盾だ。こつこつ真面目に勉強して、努力叶って慶應大学に合格した人間は「あら凄い」程度なのに、「学年一のビリギャル」というオプションがついただけで、忽ち書籍化、映画化だ。教員という職業だってそうだ。「元ヤンキーから一転して教員に」みたいな人の方が「教採試験のために一年の頃から勉強していました!」という人より世間の注目を集め、「ヤンキー先生」とかいう本を出版したり、講演会を開き賞賛される。そうして、本来真面目にやってきた人に向けられるべきスポットライトが全く向いていない――恐ろしい矛盾だ。

   身近な話をすれば、私の弟は週六でバイトをし、週二で無断外泊をし、やれ窓ガラスを割りました、バイク登校をしました、暴力事件を起こしましたと学校から電話がかかってくるものの、推薦で第一志望の学校に合格してしまうのだ。私と弟、嗚呼憎き!終わりよければすべてよし!同じ結果になってしまっているのだ。

 「そんなことばかりならいっそ、私ももっと悪名高き不真面目になってやれば良かった!」私は最近めっきりそう思うようになった。もっとふらふら自分の好きなことだけをして、最小限の努力とでも言ったらよいのだろうか、(我が弟も、何かしらの努力はしたのだろう)そこそこのやることをやって、結果が真面目に生きてきた人間と大差ないのなら、その方が良いに決まっている。それで途中「これじゃだめかな~」とか言いながら、今度は人並みに頑張れば「あら、改心したのね!」「本気モードになったわね!」と好印象を振りまくことができる。(事実私の祖母は、弟の合格を私のとき以上に喜び、祝福した)真面目に生きてきた姉貴の、本来ならば賞賛され模範にされるべき過去も知らず、弟らは姉貴に「部屋が汚ねえ」「将来絶対に結婚できないからな」と罵声を浴びせてくる。

 「真面目になるな」とまで言うつもりはない。勿論「真面目にやってきて良かった」と思う瞬間は多々あった。だが、あまりに模範的に、規律正しく真面目に生きていると、私は何だか、「そんな人生はつまらない!」「人生楽しんだもん勝ち!」みたいな世間一般論というか、快楽主義の大きな波に溺れて、埋没してしまう気がするのだ。そうして結果が出なくなり行き詰まった時に、「あれだけ努力したのに」という底知れぬ喪失感に襲われてしまう。だから私は「不真面目」を推奨する。不真面目といっても無論犯罪的行為に手を染めようキャンペーンではない。たまに羽目を外して、好きなことをして、やる気の起きないときは最大限にだらけて、アパシー状態を楽しみ、面倒くさいことには極力首を突っ込まない。そんな人生こそたくさんのプレシャスな経験できて、視野は広がり、素敵で、楽で、楽しいはずだ。

 人生の半分以上を「真面目」のレッテルを張って生きてきてしまった私は、今更いい歳して「不真面目になるゾッ!」と宣言し実行に移す勇気すらなく、それどころか寝坊して出席できなかった二週分の本授業の授業料、約三〇〇〇円を無駄にしてしまったのだと悔いて、この随筆を書いてみた次第だ。

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.....すげぇ反骨精神、何より反抗期(笑)

しかしこの随筆から3年経った今でも、
私は「人生は不真面目に生きるべき!!!」と
声を大にして訴えます.

それについてもまた、
こうしてエッセイチックにかけたらと思います.