矛盾のすゝめ


私が中学校1年生のとき、
国語の漢文の授業で「矛盾」を学習しました.

最強の盾を売る人と最強の矛を売る人のお話です.

このお話から「矛盾」という故事成語ができたのは
きっと皆さんもよくご存知だと思います.

当時13歳の私はこの矛盾を読んで確か
「「じゃあこの矛で盾を突いたらどうなるの?」と聞いた人は頭がいいなぁ」と感じました.

世の中には実に多くの矛盾が存在します.
永遠の愛を誓ったのに不倫してしまう夫婦、
遅刻をすると怒るのに授業には毎回遅れてやってくる大学教授、
「国民の生活が第一」と謳いながら消費税増税に踏み切った政治家.
こんな調子で例を挙げたら、
枚挙に暇がないくらい出てくるでしょう.

私は10年来の夢が叶い、
来年から教育界で働けることになりました.

残念なことに勿論教育界も凡そ矛盾だらけです.
今回はそんな矛盾について書きたいと思います.

そもそも、
どうして人間は教育を受けなければならないのか.
教育法規の中では最高の法律である
「教育基本法」の第1条では次のように述べられています.

【教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。】

つまり「人格の完成」を目指して行われる訳です.
哲学者のカントも「人間は教育によってのみ人間になる」と語っています.

そんな高遠な目標を掲げているのに、
果たして今の教育方法で個性や人格は形成されるのでしょうか.
増して形成ならまだしも完成まで至るのか…

少し前に保護者対応のお話を聞いた際に、
保護者から寄せられた以下のようなものもありました.

「人前に立つのにいつもジャージを着ているのはどうか」
「公務員なのにブランドものの服に身を包むのは派手すぎる」
「子どもたちの前では社会的に標準な身だしなみを心がけるべきだ」

個性や人格を完成するために教育を施す教員は
「社会的に標準な」無個性が求められているのです.

そうであるなら今後、
加速度的に進んでゆく少子化の中で
教育産業に機械やAIが入った方が
予算面、社会的ニーズにだって応じられるはず.

そこをなぜ「半数が過労死ラインを突破」するような
激務を負わせてまで人間に行わせるのか.

それこそ子どもたちが私たちのような大人を見て
人間や社会、個性と言ったものを学んでいくからだと思っています.

何故なら「人間は教育を施してくれる人間によってのみ」人間になれるからではないでしょうか.

無論、法に触れるような言動を行っていこうとか
「私が教育界に変革を!」とまでは思っていません.

ただ、私のような
子どもに毛が生えた程度の大人が
教育界という旧態依然のブラックボックスの中で
数多くの矛盾とどう戦ってどういうソリューションを
提示していけるのか.

そんな謎の闘争心を抱きながら
4月を待ち遠しく思っている秋の夜長です.